宝石 (雑誌)
日本の推理小説雑誌
創刊 編集
岩谷松平の弟の孫で京城商事社長などを務めた岩谷二郎の子の岩谷満が、戦後ソウルから引き揚げ、本好きから探偵小説の雑誌を始める。城昌幸が本名の稲並昌幸名義で編集主幹となって、1946年4月創刊。誌名は城の考案で、﹁美の秘密と物語性﹂を持つ宝石は﹁探偵小説の雰囲気と同じ性質﹂があるということによる。創刊号は64ページ、2円80銭、題字は﹁寶石﹂。当初は﹁探偵小説と詩﹂の雑誌を標榜していたが、その後は推理小説専門に移行する。創刊号では江戸川乱歩の旧作﹁人間椅子﹂の今村恒美による絵物語や、海野十三の変名丘丘十郎名義の﹁密林荘事件﹂などが掲載され、横溝正史﹃本陣殺人事件﹄を連載、その後も金田一耕助シリーズを連載した。この前後に探偵小説誌として﹃ロック﹄﹃トップ﹄﹃ぷろふいる﹄﹃探偵よみもの﹄﹃新探偵小説﹄﹃妖奇﹄などが相次いで創刊されるが、その中で﹃宝石﹄が生き残り、探偵小説の中心的存在となっていく。また、﹃別冊宝石﹄﹃宝石選書﹄も刊行し、発行部数は創刊時5万部、最盛期で10万部前後だった。編集長は、武田武彦、津川溶々を経て、1952年8月号から永瀬三吾。
岩谷書店は捕物雑誌﹃天狗﹄や﹃詩学﹄﹃雑誌研究﹄なども出したがうまくいかず、1950年頃から経営は苦しくなり、1956年7月号からは城が社長となる宝石社として独立。
江戸川乱歩の功績 編集
﹃新青年﹄が戦時中から探偵小説色が薄れ、戦後の復刊後も現代小説や風俗小説も扱っていたのに対し、江戸川乱歩はこれを探偵雑誌に戻そうとするが果たせず、そこへ﹃宝石﹄創刊の話が持ち上がって、これに大きく協力した。 1957年2月に経営悪化が日本探偵作家クラブで問題となり、てこ入れ策として8月号から乱歩が編集長となる。この頃は赤字経営で原稿料不払いも恒常化している状況で、乱歩は私財数百万円を注ぎ込んで立て直しを図った︵立て替え分は後に宝石社より返済された︶。新連載として横溝正史﹃悪魔の手毬唄﹄、坂口安吾﹃復員殺人事件﹄︵﹁樹のごときもの歩く﹂に改題︶の復刻と未完部分の高木彬光による執筆など、各作品に乱歩によるルーブリック︵序説︶を付すようにし、発行部数は5割増し、1年ほどで赤字解消にこぎ着けた。また乱歩の編集方針に、推理作家以外の一般作家にも探偵小説を書いてもらうというものがあり、執筆作家には火野葦平、有馬頼義、曾野綾子、梅崎春生、三浦朱門、遠藤周作、吉行淳之介、石原慎太郎、谷川俊太郎、寺山修司、中村真一郎などがいた。1958年9月号からは、徳川夢声による、かつて﹃新青年﹄での﹁くらがり三十年﹂に続く自伝的回顧﹁あこがれ始末書﹂を連載、1963年までの長期連載となった。 表紙に﹁江戸川乱歩編集﹂と記されたのは1962年まで続いたが、入院などにより1959年末からは実質的な編集は後任に譲り、編集後記を書いていたのは1960年10月号までとなる。その後はまた経営は悪化し、1964年5月に﹁創刊250号記念特集号﹂︵251号︶をもって廃刊。 宝石社は累積赤字により倒産[1]。版権は光文社により1500万円で[6][7]買い取られた[2]。新人発掘 編集
「宝石賞」を参照
毎年懸賞小説を募集し、1946年の第1回では香山滋、飛鳥高、山田風太郎、島田一男がデビュー。1949年には創刊3周年記念事業として賞金総額100万円で、長編・中編・短編に分けて募集し、日影丈吉、土屋隆夫、中川透︵鮎川哲也︶がデビュー。
1948年の﹃宝石選書﹄では、乱歩が推した新人の高木彬光﹃刺青殺人事件﹄を一挙掲載。また、1949年には18歳の山村正夫の投稿作が認められてデビューした。香山、山田、島田、高木と、佐藤春夫に推された大坪砂男が宝石五人男と呼ばれた。
1958、59年に﹃週刊朝日﹄と共同での短編コンクールを行い、第1回は二席で佐野洋、佳作で樹下太郎、59年第2回に一席芦川澄子、二席久能啓二、佳作で黒岩重吾、笹沢左保がデビューした。
1960年から宝石賞と名前を変え、1961年に草野唯雄、1963年に斎藤栄がデビュー。新人賞の予選通過25作を掲載する﹁新人25人集﹂も毎年企画された。1961年には、西村京太郎が予選通過している。
1954年懸賞小説1位入選した高城高﹁X橋付近﹂、同人誌から転載した大藪春彦﹃野獣死すべし﹄を1958年に掲載するなど、ハードボイルド作品も掲載するようになる。1959年に日本テレビと共催の懸賞小説では、河野典生﹁ゴウイング・マイ・ウェイ﹂が第一席入選。SF同人誌からも、1957年に星新一﹁セキストラ﹂、1960年筒井康隆﹁お助け﹂を転載してプロデビューさせた。
既に演劇評論家として名を成していた戸板康二も乱歩の勧めで1958年から演劇界を舞台にした推理小説を執筆し、﹁團十郎殺人事件﹂で直木賞を受賞する。小林信彦は1958年に江戸川乱歩により同社顧問として採用され、﹃ヒッチコック・マガジン﹄を宝石社から創刊。1963年1月に退社し、のちに作家となる。