巨椋池
巨椋池の姿の変遷
編集巨椋池の形態に大きな変化を与えた事業によって、いくつかの段階に分けて考えることができる。
古代から秀吉の伏見築城期まで
編集秀吉の伏見築城期から明治まで
編集明治から干拓まで
編集干拓以降
編集巨椋池干拓前の概況
編集自然環境
編集産業
編集巨椋池においては内水面漁業、沿岸では水田耕作等の農業が営まれた。
巨椋池の漁業は、東一口村(現・久御山町)、弾正町(現・京都市伏見区)、小倉村(現・宇治市)の3地域が、池の沿岸を除いて独占的な漁業の権利を有した。この権利は干拓まで続いた。漁業では、魞漁(えり漁、魚を誘い込んで逃げ場をなくして捕獲する漁法)をはじめとして浸木漁、網漁などさまざまな漁法が用いられた。
巨椋池は、その周辺の洪水調整機能を引き受けたため、洪水時には湖岸約数千ヘクタールが長期に渡り浸水した。そのため、農業は3年に一度を平作とするほど洪水に左右されるものだった。
漁業と農業は、水が多い時は漁業に都合がよいが田の水が長く引かず米の生産が悪く、逆に水が少なく米の生産が良好なときは漁が悪いという相克の関係にあった。
文学の中の巨椋池
編集巨椋池は古くから景勝地として文人墨客に愛された。
古くは『万葉集』に「柿本朝臣人麻呂之歌集所出」の雑歌として「巨椋の 入江響むなり 射目人の 伏見が田居に 雁渡るらし」(おほくらの いりえとよむなり いめひとの ふしみがたゐに かりわたるらし)と詠まれた歌が収録されている(巻9, 1699)。これが「巨椋」の名の初見で、上代には巨椋の入り江(おおくらの いりえ)と呼ばれていたことが窺える。「射目」は雁を猟る際に猟師が身を隠した遮蔽物のことで、これが「伏見」の語源とも考えられている。
和辻哲郎の『巨椋池の蓮』という手記は、1926年(大正15年)の夏に巨椋池で蓮見船に乗った思い出をつづったもので、当時の観蓮の情景を描いており、1950年(昭和25年)に発表された。この観蓮記が発端となり、往時の種子などをもとに自宅で蓮を育ててきた篤志者により、現在も巨椋池花蓮品種の保存や観蓮会が行われている。
現在の巨椋池
編集脚注
編集- ^ a b “京都府レッドデータブック2015 巨椋池”. 京都府. 2022年11月13日閲覧。
- ^ a b 大和街道の名は、巨椋池中に小倉堤を通し新道を開いた時が最初で、従来奈良への道は大和路と称し、鴨川東岸から大亀谷・六地蔵・宇治を結ぶ街道であった。(『京都大事典』 (1984), p. 93)
- ^ 『各地方ニ於ケル「マラリア」ニ関スル概況』 (1919).
- ^ 「二千町ドロ海」『朝日新聞』昭和28年9月26日夕刊1面
- ^ “レッドデータブック 京都競馬場調査”. 京都府. 2005年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月11日閲覧。