水守亀之助
水守 亀之助(みずもり かめのすけ、1886年(明治19年)6月22日 - 1958年(昭和33年)12月15日)は兵庫県出身の小説家。
人物・来歴 編集
兵庫県若狭野村(現・相生市)生まれ。大阪の医学校を中退して1906年に上京し、1907年には田山花袋に入門。春陽堂で編集者となる。1914年、徳田秋声の紹介で中央公論社に入るも1日で退職。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。﹃新潮﹄編集部に入る。編集者生活の傍ら、自然主義の影響下に﹃末路﹄﹃帰れる父﹄などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と共に新潮三羽烏と称された。1923年には文学雑誌﹃随筆﹄を主宰し、八木隆一郎を書生とする[1]。1924年、1925年に﹃少女倶楽部﹄で連載した﹁涙の握手﹂﹁残月の曲﹂で人気を集める[1]。
1945年5月、東京大空襲で罹災し、妻を喪うと共に自身も顔面に大火傷を負い、自宅を失う。餓死の噂を立てられたこともあるが、1953年、朝日新聞社から随筆﹃わが文壇紀行﹄を刊行。
晩年は年少の友人たちと共に同人誌﹃かもめ﹄を創刊したが、その第1号の編集を終えた直後に高血圧の発作で倒れ、半身不随となる。以後は生活保護と文壇関係者のカンパを受けて入院先を転々とする。脳軟化のため東京都港区白金の施療病院で死去。