淵上白陽
1889-1960, 写真家
略歴 編集
1889年11月14日、熊本県菊池郡花房村に生まれた[1]。本名は清喜[1]。父・巳一郎、母・つぐの長男で、一家には一男五女がいた[1]。菊池郡西合志村黒松にあった私塾・合志義塾で学んだ後、佐賀や長崎で写真技術を習得した[1]。1914年に第1次世界大戦が始まると白陽は兵士として従軍、青島戦に参加した[1]。第1次世界大戦が終わった1918年には、神戸市布引滝山山麓にあった川崎造船所社長・川崎由太郎別邸で写真スタジオを開設、1921年には兵庫県武庫郡六甲村八幡へ転居した[1]。翌1922年には写真雑誌﹃白陽﹄を創刊、9月には﹁日本光画芸術協会﹂を結成した[1][2]。﹁日本光画芸術協会﹂は、のちの1928年3月以降山本牧彦の﹁日本光画協会﹂が継承した[2]。雑誌﹃白陽﹄の発行には力を入れていたが、採算を度外視して続けたため、1926年には廃刊せざるを得なくなった[3]。1927年、﹃白陽﹄の後継誌として、写真評論社から写真評論誌﹃PHOTO REVIEW﹄を創刊するも2号で終刊した[2]。
1928年には渡満、家族と共に大連へ移住し、満鉄情報課嘱託になった[2]。これは、﹃協和﹄︵満鉄社員会機関紙︶編集長だった歌人の八木沼丈夫が白陽を招聘したためだった[2]。1932年12月に﹁満洲写真作家協会﹂を結成、1933年9月、﹃満洲グラフ﹄を創刊した︵1944年まで︶[2]。﹃満洲グラフ﹄は満鉄が発行したグラフ雑誌で、満州国の宣伝を目的にしていたがその初期において、淵上が実質的な編集責任者を務めた[2]。1937年11月には満洲写真作家協会の機関誌﹃光る丘﹄を創刊︵1939年まで︶[4]。1941年の1月に妻の志保が大連星ヶ浦で病死、同年3月に満鉄を退職して帰国した[4]。
帰国後の1942年からは華北交通東京支社嘱託になり、1944年、長野県蓼科、熊本県菊池へ疎開、その後は終戦後もしばらく東京に戻らなかったが、1949年に帰京、同年から日本写真文化協会事務局主事を務めた[4]。1960年2月8日、脳軟化症により東京都石神井にあった自宅で死去した[4]。享年72歳。