ジョン (イングランド王)
ジョン John | |
---|---|
イングランド国王 | |
![]() | |
在位 | 1199年4月6日 - 1216年10月18日/19日 |
別号 | アイルランド卿 |
出生 |
1166年12月24日![]() |
死去 |
1216年10月18日(49歳没)![]() |
埋葬 |
![]() |
配偶者 | イザベル・オブ・グロスター |
イザベラ・オブ・アングレーム | |
子女 | 一覧参照 |
家名 |
![]() |
王朝 | プランタジネット朝(アンジュー朝) |
父親 | ヘンリー2世 |
母親 | アリエノール・ダキテーヌ |
概要
編集生涯
編集領地無し
編集陰謀
編集リチャード1世が第3回十字軍に出陣した際は、フランスに留まるよう指示されたが、勝手にイングランドに戻り留守中の統治に関与した。リチャード1世がドイツで幽閉されると、フランス王フィリップ2世と提携しイングランド王位を狙ったが、重臣や諸侯の支持を得られず果たせなかった。
この事件は、後世大きく脚色されてさまざまな物語が作られ、ロビン・フッド伝説にも取り入れられた。
即位
編集1194年にリチャード1世がイングランドに戻ると、一旦抵抗の姿勢を見せたものの、まもなく屈服し和解した。1199年に兄がアキテーヌで亡くなると、ジョンはすぐにノルマンディーからイングランドに渡り、イングランド王として戴冠した。一方、一時は後継者とされていた甥のブルターニュ公アルテュール(アーサー)はアンジュー伯領を確保して王位を主張したが、ヒューバート・ウォルターを始めとするイングランドとノルマンディの諸侯は、フランス王と親しかったアルテュールよりジョンを支持した。リチャードの臨終に際し遺言を聞いた母のアリエノールも、アルテュールを押さえてジョンを支持している。
大陸領土喪失
編集教皇との争い
編集1205年にカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが亡くなると、修道士達が選んだ候補とイングランド王と司教が推薦した候補とが共にローマへ行き、カンタベリー大司教の座を争ったが、教皇権の強化を狙っていたローマ教皇インノケンティウス3世は両者とも認めず、代わりに枢機卿のラングトンを任命した。ジョンはこれを認めず、これを支持する司教たちを追放して教会領を没収したため、1207年にインノケンティウス3世はイングランドを聖務停止とし、1209年にジョンを破門した[1]。
ジョンはこれを無視し、逆に没収した教会領の収入で軍備増強を図ったが、1213年になるとインノケンティウス3世はさらにフランス王のイングランド侵攻を支持し、これに呼応して諸侯の反乱が計画されたため、ジョンはイングランド及びアイルランドを教皇に寄進し教皇の封臣となり、聖ペテロ祭費とは別に年額千マルクを支払う事を約することにより、破門を解かれた。
ブーヴィーヌの戦い
編集マグナ・カルタ
編集妻と子供
編集系図
編集
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー2世 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
若ヘンリー |
| リチャード1世 |
| ジョン |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| ヘンリー3世 |
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| エドワード1世 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| エドワード2世 |
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| エドワード3世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| エドワード黒太子 |
| ライオネル・オブ・アントワープ |
| ジョン・オブ・ゴーント |
| エドマンド・オブ・ラングリー |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
| リチャード2世 |
|
|
|
|
| (ランカスター朝) |
| (ヨーク朝) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
評価
編集無能・暴虐・陰謀好き・裏切り者・恥知らずと評され、大陸領土喪失・甥殺しによる信望の喪失・教皇への屈服とイングランドの寄進・重税・諸侯の反乱と失政が続き、唯一評価されるのは「強制されてマグナ・カルタを認めイギリスの民主主義の発展に貢献した」ことのみと、在位当時から後世の評価まで徹頭徹尾評判の悪い王である。近年ではその反動から、海軍の育成やリヴァプールの建設、イングランドにおける司法・行政の発展、スコットランド・ウェールズ・アイルランドへの支配の道筋を付けたという点で再評価する声も出てはいるが、イングランド史上最悪の君主という暗君の評価は覆りそうもない。兄リチャードの十字軍遠征、その帰途に虜囚となったことによる身代金、と莫大な出費が嵩んだ後に即位したことも困難な治世の原因となった。
逸話
編集- 「ジョンの評判が悪かったため、以降のイングランド王・イギリス王でこれを襲名したものはいない」という通説がある。プランタジネット朝以降ジョンという名の王子は何人かいるが(ランカスター家の祖ジョン・オブ・ゴーント、ジョージ5世の息子ジョンなど)、「ジョン2世」が存在しないことは事実である。さらに、当時は長子に親の名を付ける習慣があったにもかかわらず、息子ヘンリー3世が長子をジョンと名づけず、エドワード懺悔王にちなんでエドワードと名づけたのは、諸侯のジョンへの強い抵抗感を考慮したためであり、またテューダー朝以降に付けられなくなったのは、やはり人気がないからとも考えられる。
- あだ名のLacklandは、元々幼いころ領地をもらえなかったことから付いたものだったが、対仏戦争の敗北で広大な大陸領土を失ったため、人々の記憶に残ることになった。このため日本語では「失地王」とも訳される。
脚注
編集参考文献
編集- ノーマン・デイヴィス著『アイルズ 西の島の歴史』別宮貞徳 訳、共同通信社、2006年。ISBN 4-7641-0580-2
関連項目
編集外部リンク
編集
|
|
|
|
|
|
|