タマン・サリ(Taman Sari、ジャワ語: ꦠꦩꦤ꧀ ꦱꦫꦶ)は、インドネシアのジョクジャカルタ王宮(クラトン)近くにある離宮の跡であり、水の王宮とも称される[3]。この離宮はジョグジャカルタ市の王宮(クラトン(英語版))の南(南西[1])およそ2キロメートル内に位置する。ジョグジャカルタ侯国と称されたスルタン家(英語版)[4]の王室庭園の跡であり、タマン・サリは、インドネシア語で「花園」の意である[5]。
タマン・サリは、18世紀中頃の1758年にハメンクブウォノ1世︵英語版︶︵スルタン・ハムンク・ブウォノ1世、在位1755–1792年[6]︶により造営が開始された。タマン・サリには、休息場、作業場[7]、瞑想場、防御要塞[8]、それに隠れ場所といった多様な役割があった[9]。花園に囲まれた水浴場に王宮に仕える女性に水浴びをさせ、それをスルタンが塔の3階より眺めて[10]気にいった女性に花束を投げて、王専用の施設の水浴場で沐浴したり、夜をともにしたりしたともいわれる[11]。また、離宮ではあるが、延長5キロメートル、2層からなる地下通路が張り巡らされ有事に使用された。ここにはイスラム導師の礼拝室、祈りを捧げる前に身を清める湧水の泉があり、宗教儀礼的な意味を持っている。
タマン・サリは、明確に分かれる4つの地区より構成され、北に島および建物のある大きな人工湖、中央に水浴場、南に別館と沐浴池の複合体、そして東側には別の人工湖があった。今日、中央の水浴場については良く保存されているものの、そのほかの地区は大部分がカンプン・タマン (Kampung Taman) 集落により占められている。
長い間修復されずに損傷していたが、1970年に修復がなされ、2002年よりポルトガルの財団の援助などによる修復が行われた[1]。2006年5月27日のジャワ島中部地震により被害を受けたが、2017年より、タマン・サリを含むジョグジャカルタの歴史的都市︵英: Historical City Centre of Yogyakarta︶が、世界遺産の暫定リストに掲載されている[12]。
タマン・サリ (Taman Sari) という名称は、ジャワ語で﹁庭﹂﹁公園﹂の意の taman と﹁美しい﹂や﹁花﹂の意である sari に由来する。それにより、タマン・サリとは、花で飾られた美しい庭園の場所︵花園︶の意である[13]。﹁水の王宮﹂などとも称され、かつての論述おいてはタマン・サリを﹁水城﹂︵蘭: ‘waterkasteel’︶と記しており、水門を閉じることにより、複合体は完全に水に浸り、高い構造物が突出するようになる[14][15]。
保存・修復された中央の沐浴場
タマン・サリの造営は、マタラム王国が分裂した時代[16]、ジョグジャカルタのスルタン家︵ジョグジャカルタ侯国︶の初代スルタン[4]、ハメンクブウォノ1世の治世中に始まり、次代スルタン・ハメンクブウォノ2世︵英語版︶︵ハムンク・ブウォノ2世、在位1792–1810、1811-1812、1826-1828年[17]︶の時代に完成した。しかしこの建設用地は、アマンクラット4世︵インドネシア語版︶︵マンクラット4世[17]、在位1719-1726年︶の治世には、すでにパセトカンの泉︵英: Pacethokan Spring︶と呼ばれる沐浴場として知られていた[18][19]。ジョグジャカルタ王宮の史料 Kitab Mamana によると、タマン・サリ建設事業の指導者は Tumenggung Mangundipura であった。彼はヨーロッパ建築について学ぶためにバタヴィア︵ジャカルタ︶を2度訪れており、それがタマン・サリの建築にヨーロッパ様式が見られる由縁であるとされる[20]。
その建設事業において、東部ジャワのマディウンの摂政︵ブパティ、Bupati︶、ラデン・ランガ・プラウィラセンティカ (Raden Rangga Prawirasentika) が、タマン・サリの建設資金の支援に参画し、またプラウィラセンティカはスルタンにマディウンの納税義務からの救済を嘆願して、納付の別の代替方法を進言した。スルタンは彼の提案を受け入れた。1758年、スルタンは摂政に煉瓦やさまざまな補完物の製造を統轄するように命じ、それらは美しい庭園の構築に使用されることになった。
タマン・サリは、第3次ジャワ継承戦争︵英語版︶の終結において、スルタン・ハメンクブウォノ1世とオランダ東インド会社の間で結ばれた1755年のギアンティ条約︵英語版︶[21]の3年後、ハメンクブウォノ1世の休息所として着工された。スルタンは、経験したばかりの長年の戦争の後、時折ゆっくり過ごす時間に使うことができる場所を望んでいた。Raden Arya Natakusuma︵後のスリ・パクアラム2世︵英語版︶、在位1829-1858年[17]︶の指揮のもと、Raden Tumenggung Mangundipura が建設の責任者であった。建設は西暦1758年︵サカ暦︿ジャワ暦︵英語版︶﹀1684年︶に着工された。その複合体がどれほどの規模となるか調べられた後、ラデン・ランガ・プラウィラセンティカは、その負担が納税より高額となることに気付いて事業より脱退し、代わって王子ノトクスモ︵後のパク・アラム1世︵英語版︶、在位1813-1829年︶が完成まで事業を継続した[22][23]。
この複合体には、大小およそ57[10]ないし59の建物があり[24]、モスク、瞑想室、水浴場、それに人口湖を囲む18の庭園[10]や休憩所などがある。このタマン・サリの建造は、1765年、門および外壁の完成により終了した。西門 (Gedhong Gapura Hageng) にあるセンカラ︵sengkalan memet、ジャワのクロノグラム︶[注1][25]にあたる浮彫りには、花木から蜜を吸う鳥が見られる。このセンカラは、サカ暦1691年、西暦1765年を示している。ジャワ語の ‘Lajering Kembang Sinesep Peksi’ は、lajering﹁芯︵英: core︶﹂が1、kembang﹁花︵英: flower︶﹂が9、sinesep﹁吸う︵英: suck︶﹂または﹁飲む︵英: drink︶﹂が6、peksi﹁鳥︵英: bird︶﹂が1とされ、その文章は﹁花の蜜を採る鳥﹂と読むことができる。これを文末から数字を当てはめることにより、サカ暦1691年と解される[26]。
この複合体は1765-1812年にかけて実際に使用されたが[27]、1812年、イギリスのジョグジャカルタ侵攻により、複合体の多くの部分が破壊された[28]。その後、1825-1830年のジャワ戦争のうちに庭園は荒れ果て、構造物も一部損傷を被った[18]。
1867年の地震前後のケノンゴの建物を描写する19世紀の画像︵上: 1859年、下: 1890年頃︶。かつてのセガラン湖の周囲は、干上がり植物が繁茂している。今日、湖床には無断居住者の家屋があり、ケノンゴの建物はいまだ廃墟にある。
ジョグジャカルタ王宮の古い史料 Serat Rerenggan の記述に、タマン・サリの建築家の1人といわれるポルトガル人の男デマン・テギス (Demang Tegis) の話についての言及が見られる。それによると、奇妙な男が突然 Mancingan 村︵ジャワ島の南海岸パラントゥリティス︵英語版︶にある地名︶に現れた。長い鼻、白い顔、それに外国語で、村人らはその者が何かの精霊あるいは森の仙人かと怪しんだ。村人は彼を当時のスルタン・ハメンクブウォノ2世に差し出した。スルタンは興味を覚えたらしく、その奇妙な男を下僕とした。数年を経て、ようやく男はジャワ語で話すことを習得した。彼によると、難破によって座礁したポルトガル人︵ジャワ語: Portegis︶であった。彼はまた建築家であると主張したことから、スルタンは彼に砦を建てるよう命じた。男の仕事に満足したスルタンは彼に﹁デマン﹂ (‘demang’) の称号を与えた。それ以降、その者はデマン・テギスまたはデマン・ポルテギス (Demang Portegis) として知られるようになった[29]。
デマン・テギスが本当にタマン・サリの建築家であったかどうかには論争がある。その意匠はポルトガル風ではなく、ジャワとオランダの混合様式のようであり、P. J. ヴェス (P. J. Veth) は、Java – Book III において、﹁地元の研究によると、﹃タマンサリの建築物﹄は、南海岸で座礁した難破船のスペイン人もしくはポルトガル人技師により設計されたといわれる。しかし、その﹃建築﹄は、これに反してジャワ的特徴を強く示している﹂としている[30]。デマン・テギスが存在したような証拠はいまだ不確定であるが、タマン・サリの建築について、2001年にはタマン・サリを調査するために多数のポルトガルの建築や文化遺産の専門家が動員された[27][31]。
タマン・サリの設計におけるヨーロッパの影響の広範な推定には、パンテオン・ソルボンヌ大学の Hélène Njoto-Feillard の研究により異論が唱えられ、2003年の会議論文に提出された。複合体の歴史的背景および建築様式を分析し、その結論として、創造者はおそらく地元のジャワ人であるとしている。オランダの歴史的記述にタマン・サリの建設のヨーロッパが関与したという言及が何もないことも、この推測を裏付けるさらなる証拠として提示されている[24]。
今日、タマン・サリの城塞の周辺には、2700人の住人がいるカンプン・タマンと呼ばれる集落により占有されている。その地域はバティックや伝統的な絵付け手芸の因習より知られる。また、この地域には2010年に鳥市場がバンツル通り (Jl. Bantul) のパスティ市場︵インドネシア語版︶ (PASTY︿Pasar Satwa dan Tanaman Hias Yogyakarta﹀) に移転するまで、ジョグジャカルタ最大の鳥市場を久しく務めた伝統的市場であるンガスム︵ガスム︶市場︵インドネシア語版︶ (Pasar Ngasem) がある。それに20世紀初頭に建てられたソコトゥンガル・モスク︵インドネシア語版︶︵尼: Masjid Soko Tunggal、英: Soko Tunggal Mosque︶は、一般的なジャワの伝統的建築と異なり一本柱を持つ特異なモスク︵ムスジッド、尼: masjid / mesjid[13][43]︶として知られる[18]。
(一)^ センカラ (Sengkala / Sengkalan) は、重要な行事︵例えば、出産、結婚、死去、造営、など︶の年を表す単語を象徴的に描くもので、0 から9までの数字を表す象徴として一定の事物を使用する。これらの数表示に対応する符号は数多くあるが、一般的な例を挙げる。0 = langit﹁空︵英: sky︶﹂、1 = bumi﹁大地︵英: earth︶、2 = mripat﹁目︵英: eyes︶﹂、3 = geni﹁火︵英: fire︶﹂、4 = segara﹁海︵英: sea︶、5 = maruta﹁風︵英: wind︶﹂、6 = rasa﹁感覚︵英: feeling︶﹂、7 = giri﹁山︵英: mountain︶﹂、8 = liman﹁象︵英: elephant︶﹂、9 = bolong﹁穴︵英: hole︶﹂。
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