倉俣史朗
倉俣 史朗(くらまた しろう、1934年11月29日 - 1991年2月1日)は、日本のインテリアデザイナーである。空間デザイン、家具デザインの分野で60年代初めから90年代にかけて世界的に傑出した仕事をしたデザイナー。欧米の追随に陥らず日本的な形態に頼るでもなく日本国固有の文化や美意識を感じる独自のデザインによってフランス文化省芸術文化勲章を受章するなど国際的に評価をうけていた。そのあまりの独創性ゆえ「クラマタ・ショック」という言葉まで生まれた。
倉俣 史朗 (くらまた しろう) | |
---|---|
代表作「ミス・ブランチ」 | |
誕生日 | 1934年11月29日 |
出生地 | 日本・東京都・本郷 |
死没年 | 1991年2月1日(56歳没) |
国籍 | 日本 |
芸術分野 | |
教育 | 桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科 卒業 |
代表作 |
|
受賞 | |
ウェブサイト |
e-daylight |
略歴
編集評価
編集倉俣はインテリアデザイナーとして商業空間、家具・照明など手がけたが、あくまで自らの美学と感性を表現したものが多かった。例えば家具デザインについては「自分の思考の原点において確認するための手段」と考え180点余りの優れた家具デザインを遺しているが焼けこげた黒光するスチールを編んで作った椅子「ビギン・ザ・ビギン」などはお世辞にも機能的ではなくアートと言っても過言ではないため、商業デザイナーとしてなのかアーティストとしてなのか倉俣の評価が分かれる所だ。また91年に亡くなった後は、日本のポストモダニズムの代名詞のように語られてきた。ポストモダニズムは現在、20代前半の若者には古くて少し恥ずかしい風潮として受け止められている。だが倉俣の儚さのある日本国固有の文化や美意識はポストモダンの一言では決して片付けられない。
思考
編集倉俣が生涯追求したのは、「夢心地」だった。日常の空間に、重力から解放されたかのような浮游感覚を持ち込み、夢の世界を現出させること。倉俣曰く「商業デザインの魅力は、一回性、消滅性、実験性、つまり幕間劇。」
倉俣と職人達
編集最新の素材(工法)を追求した倉俣を常に信頼できる素材加工のプロ達に支えられていた。 黒子として活躍した彼らとの信頼関係は厚く特に倉俣作品の大半を手がけてきた施工会社イシマルの石丸隆夫、倉俣の生命線であるガラス・アクリルの技術を支えた三保谷硝子店三代目の三保谷友彦の付き合いは長く深かった。 割れガラス誕生のエピソードとしてある日、三保に倉俣が「ガラスが一番きれいなときはいつだ?」と聞くので「割れる瞬間ですね。」と答えると倉俣は「そこで止めろ。」と言った。倉俣の仕事を近くで見ていた石丸隆夫は「倉俣さんはマジシャンでした。」と言っている。
エピソード
編集- 紳士服メーカーエドワーズ社長である倉橋は、三愛に勤務していた倉俣が、独立して手がける最初の仕事に、エドワーズをすすめ、伊坂芳太良の絵の立体構成を倉俣は分担した。壁全体に絵が描かれ、それが洋服箪筒であったり、時計も描きものであるというようなインストレーションが生まれていた。第一作が前出の東レのショー・ルームの構成であった。
- サッカー元・日本代表の中田英寿はそのブログの中で倉俣のファンであると公言している。
- 代表作「ミス・ブランチ」はほとんど手作りに近く高価だった事もあり56脚しか作られなかった。その数字は彼の享年である。
- 希少という事もあり「ミス・ブランチ」は'97年にはロンドンのクリスティーズで、$89,000で落札された。
- ヨーゼフ・ホフマンへのオマージュ椅子にスチールワイヤーを巻きつけ燃やし、ワイヤーのみを残したという衝撃の作品「ビギン・ザ・ビギン」。椅子を燃やす時、倉俣はそっと手を合わせたという。
- 家具の名前はとてもユニークで好きだったジャズにちなんだものが多い。
代表的な家具 、照明、オブジェ
編集交遊関係
編集以下の人物達と親交があった。
著書
編集参考文献
編集外部リンク
編集- 倉俣史朗(個人サイト)
- Shiro Kuramata - MoMA
- Shiro Kuramata - サンフランシスコ近代美術館
- コレクションデーターベース 倉俣史朗 - 大阪中之島美術館
- 収蔵品一覧 倉俣史朗 - 富山県美術館
- 倉俣史朗 - M+
- 倉俣史朗を代表する椅子「ミス・ブランチ」制作秘話 - 日曜美術館
- 日本のデザインアーカイブ実態調査 倉俣史朗 - NPO法人建築思考プラットフォーム
- 倉俣史朗 - ときの忘れもの/(有)ワタヌキ
- 倉俣史朗 - yamagiwa Online Store
- 倉俣史朗 X Cappellini - IL DESIGN
- ギャラリー田村ジョー (100063593495803) - Facebook