吉野城

吉野山一帯をさしていう中世山城

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吉野山を北側から望む。金峯山寺蔵王堂を中心とした山々が吉野城の範囲にあたる。中央の谷に広がるのは丹治の町で、左手の山に丹治城が築かれた

歴史

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奈良時代役行者が開いたとされる大峰山での修験道は、一時途絶えていたが、平安時代聖宝によって中興されて以降、大いに発展した。その大峰山への入口にあたる吉野山の尾根には数多くの寺院宝塔が建てられた。尾根沿いの地形は天然の要害、寺院宝塔は防禦陣地としても使え、吉野山は元来から中世山城としての性格を備えていたが、護良親王が挙兵し拠点とすると前衛に城塁(支城)を構築し要所に木戸や空堀が設けられたと伝えられる。

吉野城攻防戦

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護良親王が吉野山に現れるまで

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13319[1]

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吉野城攻防戦

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[2]

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陥落後

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唐招提寺の僧、照遠(しょうえん、1304年(嘉元2年)〜?)[5]が、吉野城陥落後50日余り後に記した「述迹鈔奥書」によれば、正慶2年閏2月1日、大塔宮率いる軍勢が籠もる吉野へ出羽入道(二階堂道蘊)の軍勢数千騎が攻め入り、山内の坊舎を焼き、宮以下散り散りになる。その時に取られた大塔宮方の将兵120の首が吉野川に晒された、とある。

そのため文書類は焼失したようで1334年(建武元年)2月に吉水院が紛失状を出して所領の確認を願い出ている。これに対して同年9月に雑訴決断所が証判を加えて坊領紛失証文を出している(吉水院坊領紛失証文)。この証文によれば金峯山寺の所領の確認の他に、東使(二階堂)道蘊が数万騎で吉野に攻め入った時に吉水院真遍(宗信)が宮のお供して当山(吉野山)が没落したこと、兇徒が山中に充満坊々に乱入し資財を捜し取り放火狼藉をしたこと、吉水院を悉く焼失させられ本尊聖教以下一物も残さないようにされたこと、真遍が老齢を押して身命を捨てて親王家に勤仕した、とある。

この戦いにおける明確な被害を記したものが存在しないため、実際の被害がどの程度であったかは不明瞭だが、紛失証文にもあるように、この戦いで多数の吉野山の寺院宝塔や仏像が戦火で失われたようである。

その後の吉野山

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元弘の乱時の吉野城とその遺構

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4

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 - 164.85

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 - 1336-13401455-1457

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 - 西

 - 使14

 - 

 - 西沿


金峯山寺総門・黒門
  • 銅の鳥居
  • 金峯山寺・仁王門
  • 金峯山寺・蔵王堂
  • 金峯山寺・蔵王堂前の4本の桜。護良親王が最期の酒宴をしたと伝えられる
  • 金峯山寺・二天門跡
  • 注釈

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    1. ^ 厳密には現在の奈良県吉野郡十津川村ではなく上流域の同県五條市大塔町であり、大塔地名の由来となる。
    2. ^ 『太平記』巻七「吉野城軍事」
    3. ^ 太平記巻第七「吉野城軍事」では正月18日となっているが、幕府が軍を三手に分けたのは正月晦日(『太平記』巻六「関東大勢上洛事」)であることから2月が正しい(中世城郭研究論集(村田修三、1990年)も参照)。
    4. ^ 日本歴史文庫内212コマ(光明寺残篇)
    5. ^ 日本仏教人名辞典 p.345

    参考文献・外部サイト

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    • 吉野町史上下巻(昭和47年刊)
    • 奈良県遺跡地図Web[1]

    関連項目

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