咸臨丸
幕府海軍が保有していた軍艦
咸臨丸︵かんりんまる︶は、幕府海軍が保有していた軍艦。木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットである。オランダ語の旧名は﹁Japan﹂で、ヤパン号、ヤッパン号、ヤーパン号とも書かれる。﹁咸臨﹂とは﹃易経﹄より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。
咸臨丸 | |
---|---|
1960年発行、日米修好通商百周年記念切手のうち、咸臨丸を描く切手 | |
基本情報 | |
建造所 |
船体:ホップ・スミット(Fop Smit)造船所[1](オランダ・キンデルダイク市[2]) その他:ヘレフートスライス(Hellevoetsluis)海軍工廠[1] |
運用者 | 江戸幕府[2] |
艦種 | コルベット[2] |
建造費 | 買価:100,000ドル[3] |
艦歴 | |
発注 | 1855年(江戸幕府[2]) |
起工 | 1855年[4] |
竣工 | 1857年3月[5](安政4年2月[1]) |
就役 | 安政4年9月5日受領[3] |
最期 | 1871年沈没 |
要目(出典の無い値は[1]による) | |
排水量 | 625英トン |
トン数 | 620トン[6] |
全長 | 48.80m(船首飾の先端から船尾端まで) |
垂線間長 | 41.00m(中甲板と船首材の交点から船尾端まで) |
幅 | 型幅:8.50m |
最大幅 | 8.74m |
深さ |
5.60m(キール下面から上甲板下面まで) 5.00m(キール上面から同) |
吃水 | 前部:3.40m、後部:3.85m |
ボイラー | 箱型煙管式(鉄製) 2基 |
主機 | 2気筒横置傾斜直動機関 1基 |
推進 | 2翼引き上げ式プロペラ、1軸 |
出力 | 100馬力(公称馬力と推定) |
帆装 | 3檣バーク型 |
速力 | 6ノット[7] |
燃料 | 石炭 |
乗員 |
オランダ海軍定員:85名 江戸幕府時:約95名 太平洋横断時:96名 |
兵装 |
砲 12門[8] 1857年推定:30ポンド・カロネード砲 8門、12ポンド長カノン砲 4門[注釈 1] |
その他 | 船材:木 |
概要
編集艦型
編集艦歴
編集この節の加筆が望まれています。 |
江戸幕府
編集
●1855年︵安政2年︶7月、オランダのキンデルダイクにて起工。
●1857年︵安政4年︶3月、完成。8月4日 (旧暦)、日本へ送られ、長崎海軍伝習所の練習艦となる。
●1860年︵万延元年︶、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣された際、正使一行が乗艦するアメリカ軍艦﹁ポーハタン﹂の別船として派米。福澤諭吉らも便乗していた。
米国派遣
編集
日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節団がアメリカへ派遣される際、使節団はアメリカ軍艦﹁ポーハタン﹂に乗艦することになったが、別船派遣の求めがあり、安政6年︵1859年︶11月24日に別船派遣が決定した[10]。派遣艦は当初は﹁朝陽丸﹂、次いで﹁観光丸﹂となり、最終的に﹁咸臨丸﹂となった[11]。この混乱は乗員の不満を招き、また﹁咸臨丸﹂の整備も不十分なものとなった[12]。﹁咸臨丸﹂には軍艦奉行・木村摂津守喜毅や軍艦操練教授方頭取出役・勝海舟以下の者が乗り組んだ[13]。遣米副使としての任も与えられた木村以外の乗り組み士官の役職は決められず、指揮系統の混乱を招いた[14]。なお対外的には、通訳の中浜万次郎︵ジョン万次郎︶は勝が艦長、木村が提督との説明で押し通している[15]。
旧暦1月13日品川を出港。浦賀では、難破したアメリカ海軍測量船﹁フェニモア・クーパー﹂の船長ジョン・ブルック大尉指揮下11名が乗艦した[16]。旧暦1月19日の浦賀出港直後から荒天となり、各所を破損[16]。日本人は役に立たなくなり、艦は実質的にアメリカ人による運用となった[17]。また当直体制にも不備があり[18]、金澤は﹁少なくとも往路では、日本人単独での航海は困難だったと言わざるを得ない﹂[18]としている。
復路はハワイ経由での航海となった。往路で同乗したアメリカ人水夫のうち5名を雇った以外は日本人のみでの運用となっており、往路の反省から、アメリカ滞在中に得た知見も踏まえて、当直などの運用体制が整備されたものの、45日間・6,146海里 (11,382 km)の航海はおおむね好天に恵まれ、その練度向上を確かめる機会はなかった[19]。この航海では、出入港時以外は基本的に機関は使用されなかった[20]。
この派米任務は、往復83日間・合計10,775海里 (19,955 km)の大航海を成功させたことで、幕府海軍に大きな自信を与えた。しかし一方で、往路でのアメリカ人乗員による助力は過小評価され、航海・運用の技量不足という重大な問題点が見過ごされたことは、蝦夷共和国時代に艦隊主力を海難で喪失する遠因となるなど、大きな禍根を残すこととなった[21]。
この任務時、小笠原諸島の調査が命じられていたが、往路では航路を外れており、また復路でも実施されずに終わった[22]。復路について木村はボイラーの漏れ発生や石炭不足といったことを述べているが、航海士小野友五郎の﹃咸臨丸航米日誌﹄にはボイラー故障の記述はなく、小笠原に立ち寄らなかった理由は定かではない[23]。
帰国後の旧暦6月には﹁咸臨丸﹂は神奈川港警備に充当されている[24]。文久元年5月、ポサドニック号事件の際に﹁咸臨丸﹂は対馬へ派遣された小栗忠順を運んだ[25]。
小笠原派遣
編集
文久元年1月、幕府は小笠原諸島の回収を決定[26]。派遣艦として最初にその候補となった﹁朝陽丸﹂は修理中、次に考えられたオランダ艦借用案も実現に至らず、最終的に﹁咸臨丸﹂が派遣されることになった[26]。派遣団を率いるのは外国奉行水野忠徳で[27]、この時﹁咸臨丸﹂を指揮したのは軍艦頭取小野友五郎であった[25]。
﹁咸臨丸﹂は文久元年12月4日に品川沖より出航し、同日浦賀に到着[28]。12月7日、﹁咸臨丸﹂は浦賀から出航した[28]。まず八丈島に立ち寄ることになっていたが、荒天で針路を外れたため、八丈島には寄らず小笠原へ向かった[28]。12月16日に南硫黄島を発見し、12月19日に﹁咸臨丸﹂は父島の二見湾に投錨した[29]。その際、水野は現地民威圧のため老中安藤信正に反対されていたにもかかわらず、祝砲7発を発射した[30]。3日後、﹁咸臨丸﹂は強風で流され左舷の錨鎖を切断した[31]。文久2年1月20日、﹁咸臨丸﹂は水野以下を母島へ運び、その後父島に戻った[32]。水野一行は2月26日に﹁咸臨丸﹂父島に戻り、3月6日に父島を離れた[33]。3月16日、﹁咸臨丸﹂は下田に到着[34]。そこで水野一行は艦を降り、陸路で江戸へ向かった[34]。
慶応3年、老朽化により機関が撤去され、﹁咸臨丸﹂は帆船となった[35]。同年12月25日、薩摩藩邸焼き討ちが発生。薩摩藩邸の浪人が乗り逃走を図る﹁翔凰丸﹂を﹁回天﹂と共に追跡したが、帆船の﹁咸臨丸﹂は脱落した[35]。
戊辰戦争
編集
●1868年︵慶応4年︶、戊辰戦争が起こる。
●8月19日 (旧暦)、海軍副総裁榎本武揚の指揮下で、旧幕府艦隊として江戸︵品川湊︶から奥羽越列藩同盟の支援に向かう。
●8月23日 (旧暦)、銚子沖で暴風雨に遭い榎本艦隊とはぐれ、下田港に漂着。救助に来た﹁蟠竜丸﹂と共に清水へ入港。
●9月11日 (旧暦)、﹁蟠竜丸﹂は先に出航。﹁咸臨丸﹂は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれる。新政府軍艦隊に敗北し、乗組員の多くは戦死または捕虜となる。逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長が清水市築地町に埋葬。山岡鉄舟の揮毫した墓が残っている。
明治政府
編集
明治2年9月︵1869年10月から11月︶、﹁咸臨丸﹂は兵部省から民部省回漕方に交付された[36]。
明治4年5月︵1871年6月︶、木村万平に貸与される[37]。同年9月20日︵11月2日︶、北海道へ移住する旧仙台藩片倉邦憲旧家臣400名余を乗せて函館から小樽へ向かう途中、泉沢沖で座礁[38]。翌日沈没した[37]。座礁原因は暴風とも、米人船長の操船ミス説とも[37][39]。
その後
編集
●1887年︵明治20年︶、清水次郎長が清水市興津の清見寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立。
●1984年︵昭和59年︶、サラキ岬沖で鉄製の朽ちた錨が発見され、﹁咸臨丸﹂のものかと話題になる。
●2006年︵平成18年︶9月20日、錨は﹁咸臨丸﹂のものと発表される[40][41]。
●2021年︵令和3年︶、咸臨丸終焉150周年にあたりふね遺産に認定された[42][43]。
特記事項
編集脚注
編集注釈
編集- ^ #元綱(2010-11)による。姉妹船朝陽丸と同一砲と推定。
出典
編集
(一)^ abcde#元綱(2010-11)
(二)^ abcde#日本近世造船史明治(1973)80頁。
(三)^ ab勝海舟﹃海軍歴史巻之二十三﹄船譜、政府軍艦
(四)^ #帝国海軍機関史(1975)上巻p.203(第1巻171頁)
(五)^ #片桐(1969)p.8
(六)^ ab#咸臨丸の仕様/要目
(七)^ #帝国海軍機関史(1975)別冊表1
(八)^ ab#艦船名考(1928)pp.11-12
(九)^ #山田(2010-11)
(十)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄75-76ページ
(11)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄77ページ
(12)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄77-78ページ
(13)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄76ページ
(14)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄76-77ページ
(15)^ 松浦 2010, p. 136.
(16)^ ab﹃幕府海軍の興亡﹄78ページ
(17)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄78-79ページ
(18)^ ab﹃幕府海軍の興亡﹄80ページ
(19)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄80-81ページ
(20)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄84ページ
(21)^ 金澤 2017.
(22)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄153ページ
(23)^ ﹃幕末の小笠原﹄116-117ページ
(24)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄103ページ
(25)^ ab﹃幕府海軍の興亡﹄105ページ
(26)^ ab﹃幕末の小笠原﹄118ページ
(27)^ ﹃幕末の小笠原﹄136ページ
(28)^ abc﹃幕末の小笠原﹄141ページ
(29)^ ﹃幕末の小笠原﹄145、148ページ
(30)^ ﹃幕府海軍の興亡﹄154ページ、﹃幕末の小笠原﹄148ページ
(31)^ ﹃幕末の小笠原﹄148ページ
(32)^ ﹃幕末の小笠原﹄168ページ
(33)^ ﹃幕末の小笠原﹄174、177ページ
(34)^ ab﹃幕末の小笠原﹄178ページ
(35)^ ab﹃幕府海軍の興亡﹄209ページ
(36)^ #M1-M9海軍省報告書画像10、明治二年己巳 軍務官 兵部省、9月。
(37)^ abc元綱数道﹃幕末の蒸気船物語﹄117ページ
(38)^ 齊藤虎之介︵編︶﹃函館海運史﹄180ページ。元綱数道﹃幕末の蒸気船物語﹄117ページ
(39)^ 合田 2000, pp. 225–233.
(40)^ “サラキ岬沖から引き揚げられた錨は咸臨丸の錨なのか?”. 木古内町観光協会. 2012年5月13日閲覧。
(41)^ 小泉まや (2006年9月26日). “更木岬沖で発見のいかりは咸臨丸 フォーラムで調査内容報告”. 函館新聞 (函館新聞社) 2012年5月13日閲覧。
(42)^ ﹁特集 艦とサムライと赤れんが﹂ - The JR Hokkaido 2022年10月号7項
(43)^ “第5回 ふね遺産認定のお知らせ”. 日本船舶海洋工学会. 2022年9月30日閲覧。
(44)^ “遊覧船﹁咸臨丸﹂27日で運休-坂出・与島”. 四国新聞 (四国新聞社). (2008年1月17日). オリジナルの2008年1月19日時点におけるアーカイブ。 2013年6月7日閲覧。
参考文献
編集
●アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
●﹃記録材料・海軍省報告書第一﹄。Ref.A07062089000。(国立公文書館)
●﹃海軍歴史 巻之23船譜(2)﹄。Ref.C10123646600。(勝海舟﹃海軍歴史﹄巻23。)
●浅井将秀/編﹃日本海軍艦船名考﹄東京水交社、1928年12月。
●片桐一男﹁幕末の異国船に対する検問書類と咸臨丸﹂﹃海事史研究第9号﹄1969年10月。
●金澤裕之﹃幕府海軍の興亡:幕末期における日本の海軍建設﹄慶應義塾大学出版会、2017年、71-99頁。ISBN 4766424212。
●合田一道﹃咸臨丸 栄光と悲劇の5000日﹄北海道新聞社︿道新選書37﹀、2000年11月。ISBN 4-89453-125-9。
●齊藤虎之介︵編︶﹃函館海運史﹄函館市、1958年
●造船協会﹃日本近世造船史 明治時代﹄ 明治百年史叢書、原書房、1973年︵原著1911年︶。
●田中弘之﹃幕末の小笠原 欧米の捕鯨船で栄えた緑の島﹄中央公論社、1997年、ISBN 4-12-101388-3
●土居良三﹃咸臨丸 海を渡る﹄中央公論社︿中公文庫﹀、1998年12月18日。ISBN 4-12-203312-8。
●日本舶用機関史編集委員会/編﹃帝国海軍機関史﹄ 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
●橋本進﹃咸臨丸還る 蒸気方 小杉雅之進の軌跡﹄中央公論新社、2001年2月。ISBN 4-12-003107-1。
●文倉平次郎﹃幕末軍艦咸臨丸﹄巌松堂、1938年。
●﹃幕末軍艦咸臨丸﹄︵限定版︶名著刊行会、1969年。 - 巌松堂(1938年刊)の複製。
●﹃幕末軍艦咸臨丸﹄ 上巻、中央公論社︿中公文庫﹀、1993年。ISBN 4-12-202004-2。
●﹃幕末軍艦咸臨丸﹄ 下巻、中央公論社︿中公文庫﹀、1993年。ISBN 4-12-202019-0。
●松浦玲﹃勝海舟﹄筑摩書房、2010年。ISBN 978-4-480-88527-2。
●元綱数道﹁近年明らかになった咸臨丸の主要目、構造等について﹂﹃LA MER2010 11-12﹄2010年11月。
●元綱数道﹃幕末の蒸気船物語﹄成山堂書店、2004年、ISBN 4-425-30251-6
●聞き手・山田廸生﹁長年の執念で咸臨丸の図面を入手 小川 一男 さん﹂﹃LA MER2010 11-12﹄2010年11月。
●﹁咸臨丸の仕様/要目﹂。
関連文献
編集
●加藤貞仁﹃箱館戦争﹄無明舎出版︿んだんだブックス﹀、2004年3月。ISBN 4-89544-363-9。
●田中弘之﹃幕末の小笠原 欧米の捕鯨船で栄えた緑の島﹄中央公論社︿中公新書﹀、1997年10月。ISBN 4-12-101388-3。
●宮永孝﹃万延元年のアメリカ報告﹄新潮社︿新潮選書﹀、1990年10月。ISBN 4-10-600388-0。
●宮永孝﹃万延元年の遣米使節団﹄講談社︿講談社学術文庫﹀、2005年3月。ISBN 4-06-159699-3。 - ﹃万延元年のアメリカ報告﹄︵新潮社、1990年刊︶の改訂版。