国府台城
現在の千葉県市川市国府台付近にあった日本の城
国府台城︵こうのだいじょう︶は、千葉県市川市国府台付近にあった日本の城。別名市河城・鴻之台城とも。ただし市河城︵市川城︶に関しては、国府台城東側の真間山︵現在の市川市真間︶上の弘法寺付近にあったともされ、別の城、あるいは存在時期からみて、元となった城とみる説もある。
![]() (千葉県) | |
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![]() 国府台城遠景 | |
別名 | 市川城、市河城、鴻之台城 |
城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 太田資忠 |
築城年 | 文明11年(1479年) |
主な城主 | 千葉氏、里見氏、北条氏 |
廃城年 | 天正18年(1590年) |
遺構 | 堀、土塁、井戸 |
指定文化財 | なし |
位置 | 北緯35度44分53.53秒 東経139度53分53.97秒 / 北緯35.7482028度 東経139.8983250度 |
地図 |
概要
編集太日川(現在の江戸川)と坂川の合流地点に隣接する標高20メートル~30メートルほどの河岸段丘上端にあり、南北650メートルほど東西150メートルほどの細長い城域で、連郭式の平山城を構えるには適した場所であるといえる。
城の歴史
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市河城︵市川城︶は、享徳の乱の初期に発生した下総千葉氏の内紛の際に、宗家側の生き残りであった千葉実胤・自胤兄弟が籠城したが、1456年︵康正2年︶に陥落︵市川合戦︶、水運にて栄えた市河津を背後に持ち府中として栄えた市川は大きく衰退し、軍事的・経済的な要所は宗家方勢力︵武蔵千葉氏︶が落ち延びた武蔵国石浜城や江戸城、反宗家勢力︵下総千葉氏︶の拠点の1つであった小金城に移ることになる[1]。
国府台城のは、その後、扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が1478年︵文明10年︶12月に武蔵千葉氏を継承した千葉自胤を援けて下総国境根原︵現在の千葉県柏市酒井根付近︶での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いたことに始まる。この際に城地として相応しいと見立て、翌1479年︵文明11年︶に臼井城にいた千葉氏の千葉孝胤を攻めた際、道灌の弟太田資忠らが、この地に城を築いたと記録に残る。
当城は要所であるが故に後北条氏、千葉氏、高城氏と里見氏、太田氏、上杉氏らの度重なる勢力争いの舞台となっており、争奪戦が繰り返され︵国府台合戦の項参照︶、城もまた堅固な城郭として整備された。しかし、豊臣秀吉による小田原征伐後、後北条氏に代わって江戸に入府した徳川家康によって廃城にされた。江戸を見下ろす場所にあったからとも言われている。
現在の城
編集明戸古墳
編集脚注
編集参考文献
編集- 長塚孝「戦国期関東における府中の一様態」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3)