崇福寺跡

滋賀県大津市にある寺院の遺跡

[1]3
「崇福寺旧址」碑
崇福寺跡の位置(滋賀県内)
崇福寺跡

崇福寺跡

崇福寺跡の位置

崇福寺跡

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金仙滝 横の岩窟は崇福寺創建縁起にある霊窟を想起させる[1]

2調33西[2]

1941[3][4]

調[2]調[5]

崇福寺跡発掘の経緯

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崇福寺跡の調査は近江大津宮(以下、大津宮)の所在地論争と不可分であった。天智天皇が遷都した宮殿について『今昔物語集』には粟津宮(大津市粟津町付近か?)と記載されるなど、遅くとも平安末期にはその所在が不明となっていたが、明治に至ると天智天皇のいわば聖蹟である大津宮の所在を明らかにしようという機運が高まっていた。この頃の考古学会では大津宮はわずか5年で廃された事や、当時の宮殿が礎石や瓦を用いないことからその痕跡を求めることは困難であり、大津宮から北西の山中にあるとされる崇福寺や、その近隣にあるとされる梵釈寺から間接的に位置を探ろうとする考えが主流であった[6][7]

大津宮と崇福寺

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434殿[6][7]

調34調調調3[8][9] 調[10][8]

26001314調調調調調調調[11][12][13] [13]調16[14]

崇福寺・梵釈寺論争

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16[2][14]706[15][16][17][18][19] 17調[3][20]

梵釈寺の所在地と現在の定説

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21[21][22][14][23]32[24]54[25]

伽藍

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72[2][26]

北尾根

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弥勒堂基壇

西40m×25m[27]西53西231.8m[28][2][29]

沿西17m1.2m西西3m[4][2][29]

中尾根

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中尾根北側の二重基壇
 
塔基壇

40m×18m[27]西西33m[5][30]

36.2m1.2m[6]1.8m1.5m52cm10cm穿21cm18cm穿[30][31]75cm[32]

3332[30][33][34]

32[30][35]

南尾根

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金堂基壇 手前の礎石は講堂

42m×43m[36]西5475cm232[37][36]

542[37]32[37]

西西439調[36][2]調[38]

崇福寺塔心礎納置品

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塔心礎納置品のうち舎利容器

1927[39][40]

納置品盗掘騒動

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調調宿[30][41][42]

調21[30][41][42]

調1001[30][41][42]

納置品と制作年代

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3410cm7.4cm7.6cm2.4cm2118cm5.6cm4cm6.2cm4.3cm3.4cm8[43]3cm3cm1.8cm13214[7][44]

1213cm10g10穿2[44]

7cm0.3cm[8]7[43]

23[45]

その他の出土品

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[46][47]550[9][47]

16cm12cm2[49][50]45cm[51][50]

10cm3[52]

[36][53]調[54]

[54]

文献資料にみる崇福寺

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8[29]

崇福寺の歴史

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66672西()1[55]1.6m[56]

[57][26][58]

766818211067132687[10][34][59][60]

3689[11][57] 7017005729[59]

51057[61]1163[62]5[61]

21230[61][63]

31377[64]西51464[65]

所在地と伽藍

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西137西9[29]





西2


[58][29] 姿西1012姿姿[66][58][62][67][68]

文学にみる崇福寺

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2-115




    


13689使使[69]6692使[60]

() 


略歴

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[62]

7668 

701 30

6713 

729 

12740 

8756 

8756 

5774 

5786 

17794 

806 

6815 

10829 20

4837 20

2849 

3856 14

14914 

5927 

2965 

4976 西

31019 

21022 

91036 

51057 

31076 

1081 

寿21155 

1163 

21230 

31377 西

191734 輿

その他

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[70]

1180.8cm9[71]

[72]

18901821[73][74]

脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、いつまで崇福寺跡に存していたかは不明である。#その他の出土品#崇福寺の歴史を参照
  2. ^ 須弥壇などに設けられる透かし装飾
  3. ^ 2年後の昭和19年に奈良時代の考古資料として旧国宝指定される
  4. ^ このような瓦積基壇は珍しく、他には朝鮮半島扶余の軍守里廃寺や田辺廃寺(大阪府)にみられる
  5. ^ 法隆寺金堂の基壇など飛鳥寺院の特徴の一つとされる
  6. ^ 地下に塔心礎があるのは白鳳時代の特徴
  7. ^ 『舎利感応記』『重蔵舎利記』などに舎利容器を香泥で封したと記されるがどのような物かは不明
  8. ^ 先端が小さな円形の鏨を打つ彫金技法
  9. ^ 長尾瓦窯跡からは「南」と陽刻された瓦が出土しており、梵釈寺は「南寺」と呼ばれていた可能性が指摘されている。また瓦窯跡から南滋賀町廃寺と同笵の瓦も出土しているが、古い瓦は瓦窯を構築するために廃材利用されたと考えられている[48]
  10. ^ 『日本書紀』では朱鳥の年号は一年で終わり、翌年を持統天皇元年とするが、『万葉集』や『日本霊異記』には元年以降の表記もみられる
  11. ^ 『延喜玄蕃寮式』には「崇福寺では毎年4月13日(草壁皇子の国忌)と12月3日(天智天皇の国忌)に悔過が行われる」と記されている

出典

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  1. ^ 林博通 2001, p. 168.
  2. ^ a b c d e f 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 124-130.
  3. ^ 百穴古墳群現地案内板、大津市教育委員会(1992年)、2020年12月28日閲覧
  4. ^ 中西常雄 2008, p. 31.
  5. ^ 中西常雄 2008, p. 38-39.
  6. ^ a b 梅原末治 1946, p. 191-193.
  7. ^ a b 林博通 2001, p. 13-19.
  8. ^ a b 梅原末治 1946, p. 193-194.
  9. ^ 林博通 2001, p. 19-21.
  10. ^ 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 序.
  11. ^ 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 109-117.
  12. ^ 梅原末治 1946, p. 194-196.
  13. ^ a b 林博通 2001, p. 22-27.
  14. ^ a b c 林博通 2001, p. 27-29.
  15. ^ 梅原末治 1945, p. 23-42.
  16. ^ 梅原末治 1946, p. 201-204.
  17. ^ 石田茂作 1947a, p. 9-18.
  18. ^ 石田茂作 1947b, p. 108-112.
  19. ^ 石田茂作 1953, p. 14-16.
  20. ^ 梅原末治 1946, p. 201.
  21. ^ 福山敏男 1968, p. 303-314.
  22. ^ 田中重久 1946, p. 247-249.
  23. ^ 中西常雄 2008, p. 44-46.
  24. ^ 国指定文化財等データベース2021年1月6日閲覧
  25. ^ 国指定文化財等データベース2021年1月6日閲覧
  26. ^ a b 櫻井信也 1988, p. 96-101.
  27. ^ a b 中西常雄 2008, p. 34.
  28. ^ 肥後和男 1930, p. 141-144.
  29. ^ a b c d e 櫻井信也 1988, p. 76-88.
  30. ^ a b c d e f g 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 117-124.
  31. ^ 林博通 2001, p. 26.
  32. ^ 肥後和男 1930, p. 137-141.
  33. ^ 中西常雄 2008, p. 35.
  34. ^ a b 櫻井信也 1989, p. 47-51.
  35. ^ 梶原義実 2002, p. 110.
  36. ^ a b c d 中西常雄 2008, p. 36.
  37. ^ a b c 肥後和男 1930, p. 116-124.
  38. ^ 肥後和男 1930, p. 124-125.
  39. ^ 京都国立博物館HP2021年1月6日閲覧
  40. ^ 国指定文化財等データベースHP2021年1月6日閲覧
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  48. ^ 林博通 2001, p. 124-132.
  49. ^ 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 157-159.
  50. ^ a b 大津市歴史博物館 2017, p. 32.
  51. ^ 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 159-160.
  52. ^ 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 160-161.
  53. ^ 梶原義実 2002, p. 107-110.
  54. ^ a b 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 161-178.
  55. ^ 大津市歴史博物館 2017, p. 28.
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  62. ^ a b c 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 211-217.
  63. ^ 福山敏男 1968, p. 302-303.
  64. ^ 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 186-189.
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  66. ^ 中西常雄 2008, p. 42-43.
  67. ^ 肥後和男 1930, p. 49-50.
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  69. ^ 櫻井信也 1988, p. 93-94.
  70. ^ 滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査會 1941, p. 189-190.
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  73. ^ 石田肇 1988, p. 264-277.
  74. ^ 福家俊彦 2016, p. 8-9.

参考文献

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 --  58-71988 

 -  17-11947a 

   17-31947b 

  Museum241953 

-212010 [1]

   9(2)(34)1945 

   16-71946 

  2017 

   2652002 

   51988 

  31989 

   201996 

調調 () 1941 

   16-81946 

-1986 

西   2992008ISBN 978-4-620-90299-9 

   1881990 

2001ISBN 4-7842-1073-3 

1930 

   52016 

1968doi:10.11501/2517520 

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯35度2分43.9秒 東経135度50分46.2秒 / 北緯35.045528度 東経135.846167度 / 35.045528; 135.846167