明見彦山古墳群
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編集1号墳
編集明見彦山1号墳
石室俯瞰図
明見彦山1号墳︵北緯33度34分13.39秒 東経133度36分57.68秒 / 北緯33.5703861度 東経133.6160222度座標: 北緯33度34分13.39秒 東経133度36分57.68秒 / 北緯33.5703861度 東経133.6160222度︶は古墳群の南西に位置し、朝倉古墳︵高知市朝倉︶・小蓮古墳︵南国市岡豊町小蓮︶と合わせて﹁土佐三大古墳﹂と総称される。近年では2005年度︵平成17年度︶に墳丘測量・石室実測調査が[4]、2010年度︵平成22年度︶に発掘調査が実施されている[5]。
直径14メートルの円墳と見られ︵一辺14メートルの方墳の可能性もある︶、中央に両袖式横穴式石室を開口する[6]。石室規模は次の通り[4][5]。
●石室全長‥8.96メートル
●玄室
●長さ‥5.64メートル
●幅‥2.16メートル︵奥壁付近︶、2.14メートル︵玄門付近︶
●高さ‥2.8メートル
●羨道
●長さ‥3.32メートル
●幅‥1.20メートル
1号墳は盗掘を受けているが、発掘調査では須恵器・玉類などの副葬品が出土している[5]。出土品より、築造時期は古墳時代後期の6世紀末-7世紀初頭頃と推定される[5]。
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石室展開図
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玄室(奥壁方向)
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玄室(羨道方向)
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羨道(開口部方向)
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羨道(玄室方向)
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開口部
2号墳
編集明見彦山2号墳は1号墳の東にあったとされるが、現在は破壊され消滅しており詳細は不明。3号墳よりも大きな横穴式石室を持ち、首長墓的位置づけであったといわれる[3]。
3号墳
編集明見彦山3号墳
石室俯瞰図
明見彦山3号墳︵北緯33度34分17.81秒 東経133度37分1.18秒 / 北緯33.5716139度 東経133.6169944度︶は、1号墳の北東約200メートルの地に位置する。直径5メートル・高さ2.3メートルの円墳で、両袖式の横穴式石室を開口する[7]。石室規模は次の通り[3]。
●石室全長‥5.8メートル
●羨道長さ‥1.8メートル
3号墳からは、人骨とともに須恵器・直刀・刀子・馬具・鉄鎌・鉄製鋤先・勾玉・管玉などの副葬品が出土している[7]。出土品より、築造時期は古墳時代後期の6世紀後半頃と推定される[7]。
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石室展開図
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玄室(奥壁方向)
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玄室(開口部方向)
文化財
編集南国市指定文化財
編集- 史跡
- 明見彦山古墳群 - 1966年(昭和41年)4月30日指定[8]。
脚注
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(一)^ ﹃古墳時代終末期の大型横穴式石室にみる瀬戸内とその周辺の政治的関係︵高知大学考古学調査研究報告 第10冊︶﹄ 高知大学人文学部考古学研究室、2012年、pp.7-20︵リンクは奈良文化財研究所﹁全国遺跡報告総覧﹂︶。
(二)^ 科学研究費助成事業︵科学研究費補助金︶研究成果報告書﹁横穴式石室導入に見る南四国と瀬戸内の古墳展開の研究﹂ (PDF) 清家章、2013年。
(三)^ abc明見彦山古墳群︵平凡社︶ 1983.
(四)^ ab南国市における大型後期古墳の調査 2006, pp. 1–4, 5–11, 23–29.
(五)^ abcd埋文こうち 第25号 2012, p. 7.
(六)^ 南国市における大型後期古墳の調査 2006, pp. 5–11, 23–29.
(七)^ abc史跡説明板。
(八)^ ﹁明見彦山古墳群﹂﹃南国市史 下巻﹄ 南国市史編纂委員会編、南国市、1982年、pp. 1020-1021。
参考文献
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●史跡説明板︵南国市教育委員会設置︶
●﹁明見彦山古墳群﹂﹃日本歴史地名大系40高知県の地名﹄平凡社、1983年。ISBN 4582490409。
●﹃南国市における大型後期古墳の調査︵高知大学考古学調査研究報告 第3冊︶﹄高知大学人文学部考古学研究室、2006年。 - リンクは奈良文化財研究所﹁全国遺跡報告総覧﹂。
●﹁南国市 明見彦山1号墳﹂﹃埋文こうち 第25号 (PDF)﹄高知県教育委員会文化財課、2012年、7頁。
外部リンク
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