歌棄郡
日本の北海道(後志国)後志支庁にあった郡
歌棄郡(うたすつぐん)は、北海道(後志国)後志支庁にあった郡。
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郡域
編集歴史
編集郡発足までの沿革
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郡名の由来は、アイヌ語の﹁オタ・シュツ︵砂浜の端︶﹂から。
江戸時代、歌棄郡域は和人地となる。松前藩によってヲタスツ場所が開かれ、陸上交通は渡島国から天塩国増毛郡へ至る道︵国道229号の前身︶が通じ、また安政年間︵1854年 - 1860年︶になると歌棄場所請負人桝屋栄五郎の父・定右衛門によって黒松内以北が開削され、寿都郡追分から分岐していた黒松内越︵道道寿都黒松内線の前身︶が通じていた。
江戸時代後期の文化4年︵1807年︶には、歌棄郡域は幕府領とされたが、文政4年︵1821年︶に一旦松前藩の元に戻された。文政6年︵1823年︶5月、美谷︵寿都町字歌棄町美谷︶の稲荷神社が、ヲタスツ場所請負人の柳谷庄兵衛によって創建されている。また郡域内の厳島神社は天保3年︵1832年︶5月よりも前の創建。安政2年︵1855年︶、歌棄郡域は再び幕府領となり、庄内藩が警固にあたった。安政6年︵1859年︶には歌棄竜昌寺と、後に榎本武揚も訪れた観音寺︵後の黒松内町南作開地区︶が開山している。戊辰戦争︵箱館戦争︶終結直後の1869年︵明治2年︶、大宝律令の国郡里制を踏襲して歌棄郡が置かれた。
郡発足以降の沿革
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明治9年の大区小区
- 第7大区
- 2小区 : 美谷村、種前村、有戸村、潮路村
- 3小区 : 作開村、熱郛村
- 第7大区
●明治12年︵1879年︶7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての歌棄郡が発足。
●明治13年︵1880年︶1月 - 寿都郡外三郡役所︵寿都磯谷歌棄島牧郡役所︶の管轄となる。
●明治15年︵1882年︶2月8日 - 廃使置県により函館県の管轄となる。
●明治19年︵1886年︶
●1月26日 - 廃県置庁により北海道庁函館支庁の管轄となる。
●12月 - 函館支庁が廃止。
●明治30年︵1897年︶11月5日 - 郡役所が廃止され、寿都支庁の管轄となる。
●明治39年︵1906年︶4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、潮路村、有戸村、種前村、美谷村の区域をもって歌棄村︵二級村︶が発足。
●明治43年︵1910年︶3月1日 - 寿都支庁が廃止され、後志支庁の管轄となる。
●大正4年︵1915年︶4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、熱郛村、作開村の区域をもって熱郛村︵二級村︶が発足。
●昭和18年︵1943年︶6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
●昭和21年︵1946年︶10月5日 - 指定町村を廃止。
●昭和22年︵1947年︶5月3日 - 地方自治法の施行により北海道後志支庁の管轄となる。
●昭和30年︵1955年︶1月15日 - 下記の変更により歌棄郡廃止。1947年の北海道の発足以来、初の郡消滅となった。
●歌棄村が寿都郡寿都町および樽岸村の一部︵字建岩・樽岸・小川・浜中・上湯別・下湯別および五十嵐・丸山の一部︶、磯谷郡磯谷村と合併し、改めて寿都郡寿都町が発足。
●熱郛村が寿都郡黒松内村および樽岸村の残部︵字中ノ川・添別・目名・月越および五十嵐・丸山の一部︶と合併して寿都郡三和村︵現・黒松内町︶が発足。
参考文献
編集- 角川日本地名大辞典 1 北海道