藤井松平家
藤井松平家︵ふじいまつだいらけ︶は、松平氏の庶流にあたる武家・華族の家。松平長親の五男・利長を祖とし、江戸時代には宗家と分家1家が譜代大名︵廃藩時出羽上山藩と信濃上田藩︶となり、明治維新後両家とも華族の子爵家に列するが、宗家の方は当主の不行跡により爵位返上となった[1]。
藤井松平家 | |
---|---|
![]() 丸に酢漿草 | |
本姓 | 称・清和源氏 |
家祖 | 松平利長 |
種別 |
武家 華族(子爵) 平民 |
出身地 | 三河国額田郡深溝 |
主な根拠地 |
三河国額田郡深溝 東京府東京市荏原区 |
著名な人物 | 松平信通、松平忠固 |
支流、分家 | 上田松平家(武家・子爵) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要
編集宗家
編集
松平長親の五男・利長を祖とする。三河国碧海郡藤井︵現在の愛知県安城市藤井町︶を領したことから藤井松平家と称する。利長は永禄3年︵1560年︶に尾張国丸根城攻撃で戦死したが、その子信一が江戸時代初期の慶長6年︵1601年︶に大名に取り立てられ、常陸国新治郡土浦藩3万5千石を領した[2]。その後、上野国高崎藩5万石、丹波国篠山藩5万石、播磨国明石藩7万石、大和国郡山藩8万石と加増転封が繰り返された後、貞享2年︵1685年︶に下総国古河藩9万石へ移封された[3]。
元禄6年︵1693年︶に忠之が失心ありとして改易されるが、忠之の同母弟で大和国興留藩主だった松平信通に家督相続が認められ備中国庭瀬藩3万石を経て、元禄10年︵1697年︶に出羽国上山藩3万石に移封となった[4]。以降上山藩に定着して廃藩置県まで存続したが、明治元年︵1868年︶に信庸が奥羽越列藩同盟に加わって官軍に背いた廉で信庸は官位褫奪・蟄居となり、3000石減封の2万7000石が弟信安に相続が許された[5]。明治2年︵1869年︶6月20日版籍奉還により上山藩知事に任じられ、明治4年︵1871年︶7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[6]。
明治2年︵1869年︶6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると同家も大名家として華族に列した[7][8]。明治17年︵1884年︶7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈1]として信安が子爵に列せられたが[1]、放蕩生活を送って身を崩し明治41年︵1908年︶10月19日に爵位を返上している[1][10]。
その後信安は浅草区栄久町から芝区二本榎町に移住し、大正6年10月23日に死去[10]。
信安未亡人たま︵松平助長娘︶は、息子の信英に然るべき家から嫁撮りして華族の地位の復爵を図ろうとしたが、信英は母や一族の反対する女と結婚して家を出ると、悪仲間と共に犯罪をかさねるようになり、前科2犯となる。昭和7年10月1日付けの﹃東京朝日新聞﹄にも﹁若い時から放蕩悪事をしつくして家に近寄らず﹂と報道されている。松平家は信英を廃嫡し、次男の信安が家督を継いでいる。信英は一族の恥として家系図からも消し去られたらしく﹃旧華族家系大成﹄にも名前の記載がない[11]。
分家
編集
宗家の松平信吉の次男・忠晴を初代とする分家。駿河国田中藩2万5千石、遠江国掛川藩2万5千石、丹波国亀山藩3万8千石、武蔵国岩槻藩4万8千石、但馬国出石藩4万8千石を経て、宝永3年︵1706年︶に信濃国上田藩5万8千石で定着し、廃藩置県まで存続した[12]。最後の藩主忠礼は戊辰戦争で官軍に参加して戦功を上げ3000石の賞典禄を下賜された[13]。
明治2年︵1869年︶6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると同家も大名家として華族に列した[7][8]。明治17年︵1884年︶7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈2]として忠礼が子爵に列せられた[1]
忠正の代の昭和前期に同子爵家の邸宅は東京市荏原区下神明町にあった[14]。
系図
編集凡例 1) 実線は実子、点線は養子 2) 数字は家督継承順。
藤井松平家(宗家・山城守家)系図
藤井松平家(伊賀守家)系図
系図注
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d 小田部雄次 2006, p. 337.
- ^ 新田完三 1984, p. 234.
- ^ 新田完三 1984, p. 235.
- ^ 新田完三 1984, p. 236-237.
- ^ 新田完三 1984, p. 237-238.
- ^ 新田完三 1984, p. 238.
- ^ a b 浅見雅男 1994, p. 24.
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 13-14.
- ^ a b 浅見雅男 1994, p. 151.
- ^ a b 千田稔 2002, p. 60.
- ^ 千田稔 2002, p. 66.
- ^ 新田完三 1984, p. 112.
- ^ 新田完三 1984, p. 114.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 231.