足利泰氏
鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人
足利 泰氏 | |
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時代 | 鎌倉時代前期 |
生誕 | 建保4年(1216年) |
死没 | 文永7年5月10日(1270年5月31日) |
改名 | 泰氏、證阿(法名) |
別名 | 足利三郎(通称)[1]、平石殿 |
官位 | 丹後守、左衛門佐、右馬助、宮内少輔、正五位下 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 |
将軍:藤原頼経→頼嗣 得宗:北条泰時→時氏→経時→時頼 |
氏族 | 河内源氏義国流足利氏 |
父母 |
父:足利義氏 母:北条泰時娘もしくは北条義時娘[注釈 1] |
兄弟 | 吉良長氏、泰氏、吉良義継、新田政義室 |
妻 |
正室:北条時氏娘[注釈 2] 側室:北条朝時娘 |
子 | 斯波家氏、渋川義顕、頼氏、石塔頼茂、一色公深、上野義弁、小俣賢宝、加古基氏、覚海、麻植氏継 |
略歴
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元服に際して、外祖父もしくは伯父にあたる、鎌倉幕府第3代執権の北条泰時から偏諱を賜わり[6][注釈3]、泰氏と名乗った。
嘉禎2年︵1236年︶丹後守、嘉禎3年︵1237年︶に宮内少輔になり、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経に近仕した[4]。宝治合戦の直前、宝治元年︵1247年︶3月2日に、時頼の姉妹である泰氏の正室が死去。宮騒動、宝治合戦に続く執権・北条時頼による得宗専制体制強化の過程で、有力御家人の勢力が削がれていく中でも、父の義氏は幕府宿老として重んじられていたが、建長3年︵1251年︶12月2日、泰氏は36歳で無断出家した[8]。幕府の許可無く出家したことを咎められ、所領である下総国埴生荘を没収されて[8]足利の本領に閉居した[4][5]。以降、政治の舞台に出ることはなくなったとされる。泰氏の出家の翌年3月には5代将軍藤原頼嗣が京へ強制送還されていることから、何らかの関連性があったとする推測もあるが、無断出家をした原因は不明である[4]。なお義氏は、泰氏出家後も地位や所領を保ち、頼氏には義氏の所領が相続されている[5]。
家内にあっては、はじめ名越流北条氏の北条朝時の娘を正室に迎え、斯波家氏、渋川義顕を儲けるが、後に得宗家の北条時氏の娘と婚姻することになり、これを正室として足利頼氏を儲けた。得宗家との婚姻により、朝時の娘は側室に移され、後継者と目されていた家氏は廃嫡、尾張足利家として後の斯波氏の祖となり、足利宗家嫡男も正室の子である頼氏となった[4][5]。このような経緯もあり、足利一門の中でも斯波氏と渋川氏は格別の家格を誇ることとなる[4]。六男の基氏は下野の足利荘のうち加古郷を分領され加古氏の祖となった。さらに後には桜井判官代俊光の娘との間に、一色公深を儲ける。公深は桜井判官代俊光より三河国幡豆郡吉良荘の地頭の身分を譲り受け、吉良荘一色郷︵愛知県西尾市一色町︶に住み、足利家の四職のひとつの家となる一色氏の祖となる。
文永2年︵1265年︶に智光寺を建立した。室町幕府を開府する前の足利氏の勢力は、父・義氏と泰氏の頃が最大だった。
泰氏が足利氏の氏寺・鑁阿寺︵足利市︶の南大門に足利一党の武者500騎を勢揃いさせた故事に因んだ節分鎧年越という行事があり[9]、1915年︵大正4年︶に地元の繊維業者の有志によって武者行列として復活した[10]。
子女
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泰氏は数多くの子女を儲け、その多くが後の有力な足利一門の祖となる。
●斯波家氏 …… 初め三郎、のち太郎。管領・斯波氏、奥州探題・大崎氏、羽州探題・最上氏、石橋氏の祖
●渋川兼氏︵のち義顕︶ …… 次郎。九州探題・渋川氏、板倉氏の祖。
●足利頼氏 …… 三郎。家督を継いで足利氏第5代当主。
●覚玄 ………… 伊豆走湯山密厳院4代別当。
●直翁智侃 …… 東福寺10世。
●相義 ………… 宰相坊阿闍梨。薬師寺別当。
●石塔頼茂 …… 四郎。石塔氏の祖。※相義︵義氏の兄︶の子とも。
●加古基氏 …… 六郎。加古氏の祖。
●一色公深 …… 七郎。初代・2代九州探題・四職・一色氏の祖
●上野義弁 …… 上野氏の祖。
●覚海 ………… 伊豆走湯山密厳院5代別当。
●小俣賢宝 …… 小俣氏の祖。
●賢弁 ………… 山崎法印。
●麻植氏継…………麻植氏の祖と伝わる。
●女子 ………… 普恩寺業時室
●女子 ………… 吉良満氏室
泰氏の出家について
編集家臣
編集関連作品
編集- テレビドラマ
脚注
編集注釈
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(一)^ ﹃今川記﹄
(二)^ ﹃吾妻鏡﹄宝治元年3月2日条。
寳治元年三月大二日乙卯。今曉寅刻。足利宮内少輔泰氏室卒去是左親衛妹公也云々。今日可摺寫不動并慈慧大師像之由。被仰政所之間。有其沙汰云々。
この記事から、左親衛︵=北条時頼︶の妹が足利泰氏室となっていたことが窺える。﹃尊卑分脈﹄の北条氏系図上で、北条時氏︵從五下・修理亮︶の娘︵=時頼の妹︶の項に﹁源頼氏母﹂と明記されており︵﹃尊卑分脈﹄︿国史大系本﹀第4篇 p.18︶、足利氏系図でも足利頼氏の傍注に﹁母修理亮平時氏女﹂との記載が見られる︵﹃尊卑分脈﹄︿国史大系本﹀第3篇 p.251︶。従って、この女性は泰氏の妻となって頼氏を生んだ、頼氏の母であったことが明らかである。﹃吾妻鏡﹄の記事に従えば、この女性は兄の時頼が生まれた安貞元年︵1227年︶以後、父の時氏が寛喜2年︵1230年︶に28歳で亡くなるよりも前に生まれたことになり、仮に時頼と同年の生まれだとしても数え年14歳で頼氏を生んだということになる[2][3]。
(三)^ 鎌倉期の足利嫡流家の歴代当主の諱は﹁得宗の当主の偏諱+通字の﹁氏﹂﹂で構成されていた[7]。
出典
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(一)^ ﹃尊卑分脈﹄による︵前田治幸 ﹁鎌倉幕府家格秩序における足利氏﹂︵田中、2013年、p.184︶︶。
(二)^ 臼井 2013, p. 64.
(三)^ 小谷 2013a, p. 119.
(四)^ abcdef奥富、2008年、p.92-111。
(五)^ abcd小谷、1980年。
(六)^ 臼井信義 ﹁尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-﹂︵田中、2013年、p.67︶
(七)^ 田中大喜﹁中世前期下野足利氏論﹂︵田中、2013年、p.25︶
(八)^ abcd細川 2022, p. 328.
(九)^ 節分 鎧年越︵せつぶん よろいとしこし︶のお知らせ 2012年4月19日閲覧。足利市公式topページ→組織でさがす→観光交流課→節分鎧年越
(十)^ “節分行事の﹁鎧年越﹂参加権、ふるさと納税返礼品に 栃木・足利”. 毎日新聞 (2023年12月15日). 2023年12月18日閲覧。
(11)^ 細川 2022, pp. 325–327.
参考文献
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●櫻井彦、樋口州男、錦昭江﹁足利家の歴史-尊氏以前の足利氏の歴史﹂﹃足利尊氏のすべて﹄新人物往来社、2008年10月。ISBN 978-4-404-03532-5。
●小谷俊彦﹁鎌倉期足利氏の族的関係について﹂﹃史学﹄第50巻記念号、慶應義塾大学文学部内三田史学会、1980年11月、pp.155-171、NAID 110007410343。
●田中大喜 編著﹃シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏﹄︵戎光祥出版、2013年︶ISBN 978-4-86403-070-0
●細川重男﹃宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争﹄朝日新聞出版︿朝日新書 876﹀、2022年8月30日。ISBN 978-4-02-295185-4。
足利尊氏の系譜 |
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