長楽寺 (千曲市)
長野県千曲市にある天台宗の寺院。信濃三十三観音霊場第14番札所
長楽寺 | |
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長楽寺全景 | |
所在地 | 長野県千曲市八幡4984 |
位置 | 北緯36度30分16.6秒 東経138度5分43.9秒 / 北緯36.504611度 東経138.095528度座標: 北緯36度30分16.6秒 東経138度5分43.9秒 / 北緯36.504611度 東経138.095528度 |
山号 | 姨捨山 |
院号 | 放光院 |
宗旨 | 天台宗 |
本尊 | 聖観世音菩薩 |
開山 | 10世紀? |
正式名 | 姨捨山放光院長楽寺 |
札所等 | 信濃三十三観音霊場第14番札所 |
文化財 | 姨捨(田毎の月)(名勝) |
公式サイト | 千曲市観光課ホームページ |
法人番号 | 5100005002662 |
歴史
編集境内
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眼下に眺望の広がる境内には多くの歌碑や句碑がある。中でも門脇の松尾芭蕉の句﹁俤や姥一人なく月の友﹂を刻んだおもかげ塚︵芭蕉翁面影塚︶が著名である。なお、芭蕉が姨捨山の月を眺めに木曽路から当地を訪れた更科紀行でこの句を詠んだのは貞享5年・元禄元年︵1688年︶のことであるが、おもかげ塚の建立は明和6年︵1769年︶に加舎白雄︵かやしらお︶の手によってである。また小林一茶は4度の来訪があったとされているほか、伊能忠敬も文化11年に訪れて日記に13の古詠を書きとめている。
本堂・庫裏は、天保5年︵1834年︶に再建されたとあるが、建築様式から文化・文政年間︵1804-1829年︶の建築と推定されている。本堂に接する観月殿は、元治元年︵1864年︶の奉納額が飾られていることや、建築様式からこの頃の建築と推定されている︵2007年︵平成19年︶度保存修理︶。
おもかげ塚の上方に建つ月見堂は、本堂と同じ頃の建築とされており、2003年︵平成15年︶度に保存修理が行われた。また、境内の上方に建つ観音堂は、元禄4年︵1691年︶に再建されたとあるが、虹梁の絵様の様式から宝暦・明和年間︵1751-1771年︶の再建と推定されている︵2004年︵平成16年︶度保存修理︶。
境内にある﹁姨石︵姨岩︶﹂は、高さ約15 m、幅約25 m、奥行約25 mあり、頂上からは長野盆地を一望でき、月の眺めも別格である。江戸時代後期の紀行文作家であった菅江真澄は夥しい人々がこの岩の上からの月見をしている様子を絵︵秋田県立博物館所蔵︶に残している。なお、この岩が姨捨山縁起から伝説の姨捨山[1]だと伝えられている。
姨捨︵田毎の月︶は国の名勝に指定されている︵後述︶。
千枚田や四十八枚田と言われる棚田の向こうに広がる長野盆地は善光寺平、川中島平[2]とも言われる。その景色は全てが武田氏、上杉氏の12年間5度に亘る川中島の戦いの戦場でもあった。
文化財
編集名勝(国指定)
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姨捨︵田毎の月︶[3] - 広い意味では棚田に映し見る月を言うが、この場合は﹁姨捨山放光院長楽寺﹂の持田である四十八枚田に映る月を言う。この田のある地籍を﹁月見田﹂とも言い、古い文献では﹁月夜田﹂と記されているものもある。今も多くの地図上に名所を示す﹁∴﹂印はこの田の位置に示されている。古来、仲秋の名月をここの田に映しての句会や歌会を開く事がステータスとされていた。多くの団体が申し入れた中から寺に許された会派は総出で穫り入れ前の稲を刈り取り、桟敷を組んで田には水を引き入れて月を映し、句や歌に詠んだと伝えられる。それがいつの頃からかは不明であるが上杉謙信が麓の武水別神社︵更級八幡神宮寺︶にあげた武田信玄討滅の願文には﹁祖母捨山田毎潤満月の影﹂とのくだりがある。また謡曲﹁木賊﹂︵四番目物の内の尉物︶にも﹁田毎の月﹂の名があり、さらには狂言の﹁木賊﹂では平安時代から著名であった浅間山噴火や善光寺と並べて語られることから室町時代以前から既に広く知られていたと考えるのが相当である。ただし、このような宴が催されたのは1927年︵昭和2年︶が最後と伝えられている。
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長野県千曲市、長楽寺。春桜風景。
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長野県千曲市、長楽寺。紅葉風景。
千曲市指定天然記念物
編集姨捨長楽寺の桂ノ木 - 樹齢は史料により幅があるが、500年以上とも800年-1000年とも伝えられている。
交通
編集出典
編集- ^ “千曲市観光課ホームページ → さらしな・おばすて名月の里エリア → 「姨捨山」 ・「姨捨山」はどこか?”. 2010年9月25日閲覧。
- ^ 長野県方言で盆地を「平」と呼称する
- ^ 1999年(平成11年)5月10日文部省告示第104号「記念物を名勝に指定する件」