額田六福
生涯
編集
岡山県勝南郡勝田村︵現在の勝田郡勝央町︶に生まれた。本来の名前はむつとみ。5男2女の末子であった。勝間田尋常小学校のとき父を亡くしたが、家は豊かであった。勝南高等小学校を経て、明治37年︵1904年︶、津山中学へ進んだが、校則に触れ、京都市の立命館中学へ転じた。
明治41年︵1908年︶17歳のとき、結核性関節炎になり、翌年右腕切断の手術を受けた。脊髄カリエスも病んだ。
明治44年の﹁演藝画報﹂誌の懸賞に、勝間田町から﹃踏絵﹄を応募して落選したが、その選者岡本綺堂に、入門を願って快諾を得、原稿を送り添削を受け推敲を重ねるという、通信指導を受けた。大正3年︵1914年︶から、俳句や小説を、雑誌や新聞へ投稿するようになった。
大正5年︵1916年︶26歳のとき、上京し、綺堂の世話も受けて下宿生活を始め、早稲田大学文学部英文科に編入入学した。この年﹁新演芸﹂誌の懸賞に、﹃出陣﹄が坪内逍遙の評価を得て当選し、大正6年正月の歌舞伎座で上演された。また、同4月新富座で旗揚げした沢田正二郎の新国劇に、﹃暴風雨のあと﹄が取り上げられるなど、作家生活への道が開けた。
さかんに書き、当選もした。大正8年︵1919年︶﹃小梶丸﹄を新国劇が演じて当て、沢田正二郎と近づいた。大正9年4月、綺堂夫妻の媒酌のもとに結婚し、東京市外高田町︵現在の東京都豊島区目白︶に住んだ。のち2男1女を得た。同年7月、早稲田大学を卒業した。大衆雑誌・少年少女雑誌にも書いた。
大正15年︵1926年︶1月、沢田正二郎の﹃白野弁十郎﹄が大当たりし、以降新国劇の得意狂言となり、沢田正二郎、島田正吾、緒形拳と、﹁弁十郎﹂の系譜が続いている。エドモン・ロスタン作シラノ・ド・ベルジュラックの、楠山正雄訳を、六福が翻案した台本である。
昭和2年︵1927年︶37歳のとき、杉並町阿佐ヶ谷︵現在の杉並区阿佐ヶ谷北3丁目︶に家を建てて移転した。あたかも実家が破産し、資金は、綺堂からの借金に頼った。
昭和5年︵1930年︶1月、岡本綺堂監修の月刊演劇雑誌﹁舞台﹂が創刊され、六福宅が﹁舞台社編輯部﹂となり、投稿への短評や編集後記などの執筆が、多用を増した。頭痛・肉腫・
痔・蓄膿など多病でもあった。
綺堂が没した昭和14年︵1939年︶からは、﹁舞台﹂誌発行の中心になったが、十五年戦争下の世情で翌年廃刊に追い込まれた。
戦争中は、時局にかなう愛国的な作品も書いた。太平洋戦争開戦直後、脳溢血の発作を起こした。農村青年劇に力を入れた。空襲の始まった昭和19年︵1944年︶末、郷里へ疎開し、翌年秋、阿佐ヶ谷の自宅へ戻り、2回目の発作に倒れた。それでも、2巻の児童劇集を編んだ。
昭和22年︵1947年︶7月に﹃舞台﹄誌の復刊に漕ぎつけたものの、誌友間の対立で頓挫した。その対立の調停中、3回目の発作に倒れ、昭和23年︵1948年︶12月21日、呼吸不全のために没した。58歳。多磨霊園20区に葬った。
おもな著作
編集著作年表は、『近代文学研究叢書第65巻』に、詳細にまとめられているので、このページの記述に関係ある分の初出のみ、列記する。標題が太字の本は、2008年現在、古書の目録に見られる。
- 戯曲『出陣』:新演芸(1917年1月)
- 戯曲『小梶丸』:1918年 初、新演芸に応募落選
- 戯曲『月光の下に』:新演芸(1918年9月)
- 戯曲『晩鐘』:舞台評論(1921年3月)
- 戯曲『冬木心中』:演芸画報(1921年4月)
- 戯曲『真如』:新演芸(1921年4月)
- 戯曲『彼岸の夕』:ふたば集2(1921年5月)
- 戯曲『山本勘助』:ふたば集3(1921年10月)
- 戯曲『寛永遺聞』:演劇画報(1922年2月)
- 戯曲『天一坊』:舞台評論(1924年9月)
- 戯曲『坊主才右衛門』:週刊朝日(1925年1月)
- 戯曲『白野弁十郎』:舞台評論(1926年2月)
- 小説『青貝師』:講談倶楽部(1926年2月)
- 戯曲『義満と世阿弥』:演芸画報(1929年12月)
- 戯曲『大岡越前守と天一坊』:舞台戯曲(1930年7月)
- 戯曲『呼子鳥』:日曜報知(1931年6月)
- 戯曲『物くさ太郎』:舞台(1931年8月)
- 戯曲『夕霧供養』:舞台社 舞台叢書4(1934年8月)
- 戯曲『金鉱』:舞台(1936年1月)
- 大楠公 (1936年)
- 戯曲『静と義経』: (1937年12月)
- 戯曲『鳥人』:舞台(1939年6月)
- 小説『お役者文三江戸捕物帖』:楽浪書店(1940年)
- 小説『建武報告記』:古明地書店(1942年5月)
- 勤労青年脚本集『忠霊塔』:国民社(1942年12月)
- 小説『川中島』、三国出版社(1943年6月)
- 児童劇集『光の塔』、愛育社(1946年11月)
- 児童脚本集『世界の花』:世界社(1948年9月)(『百花物語』を含む)
上演・映画化など
編集六福が創作・脚色・翻案した台本の、88篇が舞台で上演され、3篇が映画化によって初公開され、数篇がラジオ・ドラマになっている。再演や、映画化されたのちに舞台上演されたなどは、これらの数字に含まない。
上演
編集
1917年から2006年までに上演された525件の、年ごとの変化はつぎであって、六福の才が大正末期に開き、昭和の戦争に凋んだ経過が知られる。︵同じ劇団の同じ劇場における連続上演を1件、と数えている︶
1917年︵3件︶。18年︵3︶。19︵4︶。21︵3︶。22︵18︶。23︵5︶。24︵12︶。25︵4︶。26︵13︶。27︵11︶。28︵9︶。29︵5︶。30︵8︶。31︵10︶。32︵14︶。33︵13︶。34︵10︶。35︵7︶。36︵12︶。37︵9︶。38︵4︶。39︵1︶。40︵2︶。41︵10︶。42︵5︶。43︵1︶。44︵1︶。1947年︵3件︶。以降略。
上演件数のベスト・テンは、つぎである。
﹃白野弁十郎﹄︵28件︶。﹃真如﹄︵21︶。﹃冬木心中﹄︵20︶。﹃大岡越前守と天一坊﹄︵9︶。﹃小梶丸﹄︵7︶。﹃晩鐘﹄︵7︶。﹃月光の下に﹄︵5︶。﹃天一坊﹄︵5︶。﹃坊主才右衛門﹄︵5︶。﹃彼岸の夕﹄︵4件︶。
映画化
編集外部リンクの「額田六福の映画」に、16本が載っている。うち最古の1924年作と最新の1955年作(映画の題名は『いろは囃子』)とを含む5本が、『冬木心中』である。
つぎの3本は映画化により「初演」された。
- 『天一坊と伊賀亮』、牧野省三・衣笠貞之助監督、市川猿之助・市川八百蔵出演、マキノ・プロ(1926)
- 『金鉱』、寺門静吉監督、夏川大二郎・歌川絹枝出演、第一映画(1936)
- 『鳥人』、丸根賛太郎監督、嵐寛寿郎出演、日活京都(1940)
閲覧出来そうな図書
編集
●﹁志村有弘編 捕物時代小説選集1春陽文庫︵1999︶﹂の中の、額田六福‥﹃青貝師﹄
●渡辺やえ子編‥額田六福戯曲集、青蛙房︵1969︶︵﹃出陣﹄﹃小梶丸﹄﹃寛永異聞﹄﹃冬木心中﹄﹃真如﹄﹃山本勘助﹄﹃天一坊﹄﹃物くさ太郎﹄﹃夕霧供養﹄﹃静と義経﹄﹃百花村物語﹄﹃お山の小坊主﹄︶
編者は、六福の長女額田やえ子。
●夕霧供養、舞台社 舞台叢書4︵1934︶︵﹃義満と世阿弥﹄﹃夕霧供養﹄﹃英雄﹄﹃呼子鳥﹄︶
●﹁日本戯曲全集第37巻 現代篇第5輯、春陽堂︵1928︶﹂の中の﹁額田六福篇﹂。︵﹃出陣﹄﹃真如﹄﹃冬木心中﹄﹃天一坊﹄﹃山本勘助﹄﹃月光の下に﹄﹃小梶丸﹄︶
出典
編集外部リンク
編集- 『額田六福』 - コトバンク
- 『額田 六福』 - コトバンク
- 額田 六福:作家別作品リスト - 青空文庫
- 額田六福 - 吉備路文学館
- 額田 六福 【劇作家】 | 勝央町美術文学館
- 額田六福 | 歌舞伎演目案内 - Kabuki Play Guide -
- 額田六福 - 日本映画データベース
- 額田六福(ぬかだろっぷく)について知りたい。 | レファレンス協同データベース
- 早稲田と文学(額田六福) - ウェイバックマシン(2015年10月5日アーカイブ分)