「うるまの島」の版間の差分
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用語としての初出は、[[平安時代]]の歌人[[藤原公任]]の[[千載和歌集|千載集]]に載せられた歌、﹁おぼつかなうるまの島の人なれやわが言の葉を知らず顔なる︵心もとないことだ。うるまの島の人だからだろうか、わたしの贈った和歌に知らぬ顔をしているのは︶﹂とされる。
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用語としての初出は、[[平安時代]]の歌人[[藤原公任]]の[[千載和歌集|千載集]]に載せられた歌、﹁おぼつかなうるまの島の人なれやわが言の葉を知らず顔なる︵心もとないことだ。うるまの島の人だからだろうか、わたしの贈った和歌に知らぬ顔をしているのは︶﹂とされる。
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この場合﹁うるまの島の人のここに放たれて来てここの人の物言ふを聞きも知らでなんあるといふ頃返事せぬ女に遣はしける︵うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌︶﹂と前書されてあり、ここでの﹁うるま﹂が[[朝鮮半島]]領の[[鬱陵島]]︵ウルルン島︶であることは、古典文学、和歌研究者の間での定説である。﹃[[大日本史]]﹄︵巻236︶によれば、[[藤原行成]]の﹃[[権記]]﹄に[[寛弘]]元年︵[[1004年]]︶[[高麗]]人の[[因幡国|因幡]]漂着が記述され、食料を与え帰国させたと﹃[[本朝麗藻]]﹄にある。この漂流者は﹃公任集﹄にある[[新羅]]宇流麻島人で、﹃[[東国通鑑]]﹄の芋陵島人であるという︵本朝麗藻では迂陵島︶。
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この場合﹁うるまの島の人のここに放たれて来てここの人の物言ふを聞きも知らでなんあるといふ頃返事せぬ女に遣はしける︵うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌︶﹂と前書されてあり、ここでの﹁うるま﹂が[[朝鮮半島]]領の[[鬱陵島]]︵ウルルン島︶であることは、古典文学、和歌研究者の間での定説である。﹃[[大日本史]]﹄︵巻236︶によれば、[[藤原行成]]の﹃[[権記]]﹄に[[寛弘]]元年︵[[1004年]]︶[[高麗]]人の[[因幡国|因幡]]漂着が記述され、食料を与え帰国させたと﹃[[本朝麗藻]]﹄にある。この漂流者は﹃公任集﹄にある[[新羅]]宇流麻島人で、﹃[[東国通鑑]]﹄の芋陵島人であるという︵本朝麗藻では迂陵島︶。日本語の通用しない相手としての﹁うるま﹂としては、同じく平安時代の﹃[[狭衣物語]]﹄にも﹁こはいかにとよ うるまの島の人とも覚え侍るかな︵どうしたものか、言葉の通じないうるまの島の人のようにこちらの心が通じない︶﹂と使われている。
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これが後に、辺境の異邦人の島の代名詞となり、異郷の島の呼び名となった。 |
これが後に、辺境の異邦人の島の代名詞となり、異郷の島の呼び名となった。 |
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[[室町時代]]には、当時の[[琉球王国|琉球国]]が[[室町幕府]]に遣使し、本土との交易を行ったころから、辺境の島としての「うるま」が沖縄を指すようになり、 |
[[室町時代]]には、当時の[[琉球王国|琉球国]]が[[室町幕府]]に遣使し、本土との交易を行ったころから、辺境の島としての「うるま」が沖縄を指すようになり、 |
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[[安土桃山時代]]に[[里村紹巴]]が﹃ |
[[安土桃山時代]]に[[里村紹巴]]が﹃狭衣物語﹄の注釈書﹃下紐﹄に﹁琉球をうるまの島と云と也﹂と書いて定着したものと考えられ、[[江戸時代]]前期に成立した和歌用語辞典﹃和歌呉竹集﹄には﹁うるまのしま国 又うるまの国ともいふ琉球国の事也﹂と明記されている。17世紀末に琉球の識名盛命︵唐名は毛起龍︶が和文体の紀行文﹃思出草﹄に琉球の別称として記したことから、琉球人の間でも知られるようになったが、一般への定着はならなかった。
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20世紀に入り、[[大正]]時代以降に本土の文人が沖縄の美称として「うるま」と呼ぶようになったことから、沖縄県民の間にも広がるようになる。 |
20世紀に入り、[[大正]]時代以降に本土の文人が沖縄の美称として「うるま」と呼ぶようになったことから、沖縄県民の間にも広がるようになる。 |
2016年5月5日 (木) 09:27時点における版
うるまの島︵うるまのしま、うるま︶は、沖縄県の雅称。宇流麻とも当て字される。