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ウラジーミル・オセチキン (ロシア語: Владимир Осечкин、英語: Vladimir Osechkin、1981年6月14日 - ) は、ロシアの元実業家で人権擁護者である。ロシアの汚職撲滅や囚人の人権擁護などを目的としたグラグ・ネットの創設・運営者である。
経歴
生い立ち
1981年にサマラで生まれた。母親は心臓専門医、父親はジャーナリストである。子供時代の夢は、ロシア保安庁︵FSB︶で働き、サマラのギャングと戦うことだったという。サマラ大学法学部に入学したが、卒業していない。学生時代に洗車のアルバイトやイベントの企画・チケット販売をしており、その後に軽油の販売もしていた。
2000年代初頭、サマラで殺人罪で逮捕され、自白を強要されたが、弁護士の援けを受けて無実を証明し、3ヶ月の拘留後に釈放された[1]。その後、モスクワに移って中古車販売業に従事し、2004年にモスクワ地方のクラスノゴルスク近くに販売店をオープンしている。
実業家から人権擁護者に転身
2007年、経営していた販売店にロシア内務省の調査が入ったとき、賄賂を要求されたが拒んだ。このことから詐欺罪で告発され、7年の懲役刑を宣告された。オセチキンは眠ることを許されず、届いた小包も台無しにされ、トイレも水もない独房に入れられて自白を強要された。妻は﹁子どもを孤児院に入れる﹂と脅迫されたという。
2008年8月に捜査は終了し、判決は2010年7月に懲役7年が言い渡された。耐えかねた妻が判決前に離婚を申し出てきたこともあり、オセチキンは検察庁、調査委員会、大統領など各方面に抗議を始めた。このため、刑務所当局と裁判所は、オセチキンの刑期を4年1ヶ月として2011年6月15日に仮釈放した。
この事件の担当者の一人であるモスクワ州副検察官アレクサンドル・イグナテンコは指名手配され、オセチキンが3ヶ月間収容されていたオゼーリ市の市長アルトゥール・シュマトコと調査官ヴァディム・ヴァシチェンコは収賄罪で有罪になっている[2][3]。
仮釈放されたときには、事業・アパート・自家用車はモスクワ近郊の検察当局と密接な関係にある者たちに乗っ取られていたという。事件が起こされた目的を﹁資産の差し押さえ﹂と見ており、ロシアでは安全にビジネスが出来ないと思ったことや、刑務所内での虐待の横行を目にしたことから、囚人の権利の擁護のためグラグ・ネット︵露‥Гулагу-нет、Gulagu.net︶を立ち上げ人権擁護者となった[4]。
2013年、ロシア議会で﹁囚人の権利を保護するためのワーキング グループ﹂を設立し、2年間議長を務めた[5]。当局はオセチキンに対してロシア連邦刑執行庁︵FSIN︶への協力やグラグ・ネットの内部検閲、利用者のデータ提供を求めてきた。拒否したところ、﹁信用を傷つけるキャンペーンを行う﹂と脅迫を受けたという。
フランスに亡命
2015年9月、オセチキンとグラグ・ネットのサイト・コーディネーターの家宅捜索が行われ、サイト・コーディネーターが逮捕された。同月13日にオセチキンはフランスに出国、亡命申請を行った[6]。かけられた嫌疑︵父親の釈放を求める女性から100万ルーブルを詐取した疑い︶については、1年後、オセチキンの弁護士が検察庁と調査委員会から﹁容疑は全て確認されていない﹂との回答を受け取った[7]。しかし、このときFSBからの圧力は義父や親戚一同にも及んだため、家族ともどもロシアから連れ出した[8]。
現在はフランスのビアリッツに在住して、グラグ・ネットの活動を続けている。
2020年7月3日、ロシアで不在逮捕された。本人はこのことを偶然に知ったかたちであり、捜査官や裁判官からは何の連絡もなく、治安機関がグラグ・ネットを破壊する目的であるとFacebookで述べている[9]。
2022年2月8日、フランスのチェチェン移民より、自らの殺害計画を知らされたことを公表した。これに対して、チェチェン当局は同月11日に否定するコメントを出した[10]。
同年3月31日、欧州人権裁判所はロシア政府に対し、長期拘留 (3年と17日間の不当な逮捕延長) についてオセチキンに4100ユーロの賠償金の支払いを命じる判決を出した[11]。
同年5月22日、ウクライナへの軍事侵攻を始めたプーチン大統領と側近の体質について﹁彼らはロシア国内の全てを掌握し分配を終えたため、同じ手法で今度は国際的なレベルで新しい資産を求めている﹂﹁このマフィア体質と犯罪性・治安機関との融合の本質を理解しない限り、それに対する防御策を講じることは不可能である﹂と警告を行った[12][13]。