「エコール・デ・ボザール」の版間の差分
m 曖昧さ回避ページオーダーへのリンクを解消、リンク先をオーダー (建築)に変更(DisamAssist使用) |
出典 |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{Otheruses|フランスの美術学校全般|パリのエコール・デ・ボザール|パリ国立高等美術学校}} |
{{Otheruses|フランスの美術学校全般|パリのエコール・デ・ボザール|パリ国立高等美術学校}} |
||
{{出典の明記|date=2012年12月}} |
|||
{{Infobox university |
{{Infobox university |
||
| name = エコール・デ・ボザール |
| name = エコール・デ・ボザール |
||
29行目: | 28行目: | ||
'''エコール・デ・ボザール'''︵{{Llang|言語記事名=フランス語|fr|École des Beaux-Arts}}, ENSBA︶は、17世紀[[パリ]]に設立された[[フランス]]の[[高等教育機関|高等]][[美術学校]]である。
|
'''エコール・デ・ボザール'''︵{{Llang|言語記事名=フランス語|fr|École des Beaux-Arts}}, ENSBA︶は、17世紀[[パリ]]に設立された[[フランス]]の[[高等教育機関|高等]][[美術学校]]である。
|
||
350年間以上にわたる[[歴史]]があり、[[建築]]、[[絵画]]、[[彫刻]]の分野に[[芸術家]]を輩出してきた。現在は[[建築]]がここから切り離されている。
|
350年間以上にわたる[[歴史]]があり、[[建築]]、[[絵画]]、[[彫刻]]の分野に[[芸術家]]を輩出してきた。現在は[[建築]]がここから切り離されている。パリ6区マラケ河岸から入ってボナパルト街︵ボナパルト通り︶に面して構えたパリ・ボザール校の正面には、[[ニコラ・プッサン]]とピエール・ビュジエの胸像を頂部に載せた門柱が目に入り、[[ルネサンス建築|フランス・ルネサンス建築]]の断片で創造された壮大な中庭が目の前に展開する。一般的にボザールと言えば、[[パリ国立高等美術学校]]を指す。
|
||
⚫ | |||
パリ6区マラケ河岸から入ってボナパルト街(ボナパルト通り)に面して構えたパリ・ボザール校の正面には、[[ニコラ・プッサン]]とピエール・ビュジエの胸像を頂部に載せた門柱が目に入り、[[ルネサンス建築|フランス・ルネサンス建築]]の断片でくみ上げられた壮大な中庭が目の前に展開する。一般的にボザールと言えば、[[パリ国立高等美術学校]]を指す。 |
|||
⚫ | |||
[[File:Paris 6 - ENSBA 03.jpg|right|thumb|300px|パリ国立高等美術学校の入り口(2012年撮影)]] |
[[File:Paris 6 - ENSBA 03.jpg|right|thumb|300px|パリ国立高等美術学校の入り口(2012年撮影)]] |
||
{{see|芸術アカデミー}} |
{{see|芸術アカデミー}} |
||
ボザールでの教育は伝統的、[[古典主義]]的な作品が理想とされ、これらの理想化された[[様式]]を踏襲させていく、世界にもまれな教育システムであった。 |
ボザールでの教育は伝統的、[[古典主義]]的な作品が理想とされ、これらの理想化された[[様式]]を踏襲させていく、世界にもまれな教育システムであった。ジェリコ、ドガ、ドラクロワ、モロー、アングル、ルノアール、スーラらが、この美術学校で教育を受けた。セザンヌは2回、入学に失敗している<ref>{{cite book |last1=Riviere |last2=Schnerb |title=Conversations with Cezanne |date=10 July 2001 |publisher=UC Press |isbn=0-520-22519-8 |page=86}}</ref>。エミール・ベルナールは、文体を疑われ処分された<ref>{{cite web |title=Emile Bernard |url=http://www.visual-arts-cork.com/famous-artists/emile-bernard.htm |website=Visual Arts Cork | access-date=16 March 2020}}</ref>。
|
||
[[1648年]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は王立建築物の各種美術工芸や装飾を担当させる人材の育成を要請し、[[枢機卿]][[ジュール・マザラン]]が[[アカデミー・フランセーズ]](フランス王立アカデミー)の付属学校として美術学校を設立した。その後[[古典主義建築]]の母体となる建築アカデミーが[[1671年]]に時の宰相[[ジャン=バティスト・コルベール]]によって創設された。これらのアカデミーは古典主義芸術の進展を促す母体となっていき、ルイ14世から[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]までの旧制度化においてフランスで絶対的な地位を確立するにいたった。また1666年にはローマにフランス・アカデミーを設置し、本国から選りすぐりの芸術家を古典文化の発掘と接収を目的に派遣するようになった。留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせているのはこのためで、この毎年各芸術分野ごとに1名をローマ留学生を選抜し数年滞在させる制度はのちのボザールにも引き継がれたが、総括する美術アカデミーの終身書記に就任した[[カトルメール・ド・カンシー]]などは新古典主義芸術に対して深い造詣を発揮し、とくに古代建築に関心を寄せ[[ウィトルウィウス]]を再解釈した大著を著し、古代建築の復元を試み、後に自身が主宰して編纂した建築辞典には古代ギリシャの建築に建築の原型を求め、さらに建築史的な理解の必要性を説いている。こうしたカンシーの一連の作業は[[パエストゥム]]の古代ギリシャ神殿の発掘からギリシャ建築再評価・[[グリーク・リバイバル]]の思潮をさらに一段と高める。そうした古代建築を深く学ぶために大半が崩れ落ちた古代の遺跡を[[建築家]]が自らの観念に基づいて復元する主張はのちのフランス・アカデミーにおける留学生の研修方法に大きな影響を与えた。ボザール建築アカデミー発足に当たって建築史講座の設置を唱え、J・H・ヌイノーをその教授に任命したのはそのためとされる。 |
[[1648年]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は王立建築物の各種美術工芸や装飾を担当させる人材の育成を要請し、[[枢機卿]][[ジュール・マザラン]]が[[アカデミー・フランセーズ]](フランス王立アカデミー)の付属学校として美術学校を設立した。その後[[古典主義建築]]の母体となる建築アカデミーが[[1671年]]に時の宰相[[ジャン=バティスト・コルベール]]によって創設された。これらのアカデミーは古典主義芸術の進展を促す母体となっていき、ルイ14世から[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]までの旧制度化においてフランスで絶対的な地位を確立するにいたった。また1666年にはローマにフランス・アカデミーを設置し、本国から選りすぐりの芸術家を古典文化の発掘と接収を目的に派遣するようになった。留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせているのはこのためで、この毎年各芸術分野ごとに1名をローマ留学生を選抜し数年滞在させる制度はのちのボザールにも引き継がれたが、総括する美術アカデミーの終身書記に就任した[[カトルメール・ド・カンシー]]などは新古典主義芸術に対して深い造詣を発揮し、とくに古代建築に関心を寄せ[[ウィトルウィウス]]を再解釈した大著を著し、古代建築の復元を試み、後に自身が主宰して編纂した建築辞典には古代ギリシャの建築に建築の原型を求め、さらに建築史的な理解の必要性を説いている。こうしたカンシーの一連の作業は[[パエストゥム]]の古代ギリシャ神殿の発掘からギリシャ建築再評価・[[グリーク・リバイバル]]の思潮をさらに一段と高める。そうした古代建築を深く学ぶために大半が崩れ落ちた古代の遺跡を[[建築家]]が自らの観念に基づいて復元する主張はのちのフランス・アカデミーにおける留学生の研修方法に大きな影響を与えた。ボザール建築アカデミー発足に当たって建築史講座の設置を唱え、J・H・ヌイノーをその教授に任命したのはそのためとされる。 |
||
46行目: | 43行目: | ||
両方のプログラムは、留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせ、当然のことながら入学、その後の学習に対し学生全員が古典芸術の教養と絵画表現の基本技量を求められた。また、年1回グラン・プリ・ドゥ・ローム︵[[ローマ大賞]]︶というコンクールを主催し、受賞者にはローマで研究するために全額給与の奨学金を与えていた。賞を入手する3つのトライアルがおよそ3カ月に1回続く。前身のアカデミー時代から実施されていた制度である、各分野の専門家がパトロン・担当教育者となるアトリエ制を採用し、その後150年にわたって[[徒弟制度]]に似せた方式で学生を教育していった。大革命から第一帝政にかけてすでにアカデミーを取り巻く形でいくつかのアトリエが存在し、入学を許可された学生らが[[師匠]]たる[[芸術家]]のもとで修行に励んだ。
|
両方のプログラムは、留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせ、当然のことながら入学、その後の学習に対し学生全員が古典芸術の教養と絵画表現の基本技量を求められた。また、年1回グラン・プリ・ドゥ・ローム︵[[ローマ大賞]]︶というコンクールを主催し、受賞者にはローマで研究するために全額給与の奨学金を与えていた。賞を入手する3つのトライアルがおよそ3カ月に1回続く。前身のアカデミー時代から実施されていた制度である、各分野の専門家がパトロン・担当教育者となるアトリエ制を採用し、その後150年にわたって[[徒弟制度]]に似せた方式で学生を教育していった。大革命から第一帝政にかけてすでにアカデミーを取り巻く形でいくつかのアトリエが存在し、入学を許可された学生らが[[師匠]]たる[[芸術家]]のもとで修行に励んだ。
|
||
|
*第二次世界大戦後の改革 |
||
1960年、アカデミー・デ・ボザール会員に独占されていたローマ大賞の審査委員会にボザールのパトロンの参加が決定される。続いて1962年には文化省が建築教育の改革を検討する委員会を設立し、これと平行してでボザール卒業生の建築家を中心として利益を保護する同窓会のような組織であるグランド・マスも同様の目的の委員会を設置するが、これはあくまで建築家と建築の学生の利益を守るための団体でありのちに立ち消えとなるが、この結果[[ジョルジュ・キャンディリス]]や[[エミール・アヨー]]ら、集合住宅などを中心に活躍する建築家たちのアトリエ開設につながり、1965年に建築のアトリエがA、B、Cと三つのグループに分割する制度が取り入れられる。この中でCグループが住宅問題を取り上げより改革色、政治色の強いグループと化していき、この中からさらにC'グループが分離、セーヌ右岸の8区[[グラン・パレ]]にアトリエを移動させる。このグループはその後の1967年には縦割り制のアトリエ制度を廃止し、同一学年の横割りクラス制を採用、設計演習も建築家とアシスタントとのグループでの合同審査制となり、パトロンも教授グループとして教育を行うことにした。こうした改革が進む中、[[1968年]]2月に文化省まで次年度からの制度変更を発表した。 |
1960年、アカデミー・デ・ボザール会員に独占されていたローマ大賞の審査委員会にボザールのパトロンの参加が決定される。続いて1962年には文化省が建築教育の改革を検討する委員会を設立し、これと平行してでボザール卒業生の建築家を中心として利益を保護する同窓会のような組織であるグランド・マスも同様の目的の委員会を設置するが、これはあくまで建築家と建築の学生の利益を守るための団体でありのちに立ち消えとなるが、この結果[[ジョルジュ・キャンディリス]]や[[エミール・アヨー]]ら、集合住宅などを中心に活躍する建築家たちのアトリエ開設につながり、1965年に建築のアトリエがA、B、Cと三つのグループに分割する制度が取り入れられる。この中でCグループが住宅問題を取り上げより改革色、政治色の強いグループと化していき、この中からさらにC'グループが分離、セーヌ右岸の8区[[グラン・パレ]]にアトリエを移動させる。このグループはその後の1967年には縦割り制のアトリエ制度を廃止し、同一学年の横割りクラス制を採用、設計演習も建築家とアシスタントとのグループでの合同審査制となり、パトロンも教授グループとして教育を行うことにした。こうした改革が進む中、[[1968年]]2月に文化省まで次年度からの制度変更を発表した。 |
||
53行目: | 50行目: | ||
[[2009年]]現在ではフランス国内には59の国公立の美術芸術系の学校があり、それらの美術学校(日本国内における芸術・美術大学)を総称としてボザールと呼ぶ。 |
[[2009年]]現在ではフランス国内には59の国公立の美術芸術系の学校があり、それらの美術学校(日本国内における芸術・美術大学)を総称としてボザールと呼ぶ。 |
||
== ボザール様式とアメリカン・ボザール == |
|||
建築セクションの場合、美術のアカデミーで実権を掌握していたカトルメール・ド・カンシーは、ローマ留学生に対して厳しい制約を課していて、実測はローマ建築に限らせていた。しかし若手の建築家はより深遠なる古代の歴史を求めて様々の試みを行っている。後のポザール建築史教授ユイヨーは1817年からギリシアやアジアにまで足を運び、数々の実測図をき 持ち返り、その後の講義に用いている。この頃は[[ギリシア建築]]に対する認識は一段と高まっていたが、そこに新たな論争の種が加わることになる。古代ギリシア建築が多彩色を用いて派手やかに彩られていたかいなかったかという問題で、[[ジャック・イニャス・イトルフ]]のローマから送りつけた実測図はその問題を最初に投げかけ、古代建築彩色論を登場させた。 |
建築セクションの場合、美術のアカデミーで実権を掌握していたカトルメール・ド・カンシーは、ローマ留学生に対して厳しい制約を課していて、実測はローマ建築に限らせていた。しかし若手の建築家はより深遠なる古代の歴史を求めて様々の試みを行っている。後のポザール建築史教授ユイヨーは1817年からギリシアやアジアにまで足を運び、数々の実測図をき 持ち返り、その後の講義に用いている。この頃は[[ギリシア建築]]に対する認識は一段と高まっていたが、そこに新たな論争の種が加わることになる。古代ギリシア建築が多彩色を用いて派手やかに彩られていたかいなかったかという問題で、[[ジャック・イニャス・イトルフ]]のローマから送りつけた実測図はその問題を最初に投げかけ、古代建築彩色論を登場させた。 |
||
72行目: | 68行目: | ||
{{See also|歴史主義建築}} |
{{See also|歴史主義建築}} |
||
== その他 == |
|||
[[ニューヨーク近代美術館]]で1975年から76年にかけて開催されたエコール・デ・ボザールの建築展は、フランスでもめったに公開されない図面類までも展示され、大変な反響を呼んだ。ボザールで建築史を講じ、のちに美術アカデミーの終身書記の役職に就任したルイ・オートクールはボザールに関する詳しい記録を7巻にもおよぶ大著で残している。 |
[[ニューヨーク近代美術館]]で1975年から76年にかけて開催されたエコール・デ・ボザールの建築展は、フランスでもめったに公開されない図面類までも展示され、大変な反響を呼んだ。ボザールで建築史を講じ、のちに美術アカデミーの終身書記の役職に就任したルイ・オートクールはボザールに関する詳しい記録を7巻にもおよぶ大著で残している。 |
||
入学方法は、所属するアトリエで修行をしながら、志願者は入学試験準備にとりかかり、めでたく入学試験に合格したものが、ボザール下級の学生として登録されることになる。学生の生活基盤は常にアトリエにあって、○○アトリエ所属というかたちで認定を受けた。アトリエは国や学校やアカデミーから費用等が出費されているものではなく、学生たちがみずから組織し、上下関係の序列の中に組みたてられ、その上に先生を招いているという形式で、学生の間で選出された長がそのアトリエの管理運営を行い、建築家に謝礼を支払っていた。アトリエ主宰者の存在は絶対的存在であり、学生修行や教育に対して必要な助言と指導を与え、またボザールで講義を行う教授とは区別され、アトリエのパトロンと呼ばれる。各アトリエはボザール校舎内ではなく町中の適当な場所、大体はボザールの周辺に構えて、学生たちはそこで修行の合間にボザールに通って講義を聴いていたのである。 |
入学方法は、所属するアトリエで修行をしながら、志願者は入学試験準備にとりかかり、めでたく入学試験に合格したものが、ボザール下級の学生として登録されることになる。学生の生活基盤は常にアトリエにあって、○○アトリエ所属というかたちで認定を受けた。アトリエは国や学校やアカデミーから費用等が出費されているものではなく、学生たちがみずから組織し、上下関係の序列の中に組みたてられ、その上に先生を招いているという形式で、学生の間で選出された長がそのアトリエの管理運営を行い、建築家に謝礼を支払っていた。アトリエ主宰者の存在は絶対的存在であり、学生修行や教育に対して必要な助言と指導を与え、またボザールで講義を行う教授とは区別され、アトリエのパトロンと呼ばれる。各アトリエはボザール校舎内ではなく町中の適当な場所、大体はボザールの周辺に構えて、学生たちはそこで修行の合間にボザールに通って講義を聴いていたのである。 |
||
== |
== 書籍 == |
||
* [[三宅理一]]・アニー・ジャック ﹃ボザール建築図集﹄ [[求龍堂]]、1987年、{{ISBN2|4-7630-8710-X}}。ISBN-13: 978-4-7630-8710-2。
|
* [[三宅理一]]・アニー・ジャック ﹃ボザール建築図集﹄ [[求龍堂]]、1987年、{{ISBN2|4-7630-8710-X}}。ISBN-13: 978-4-7630-8710-2。
|
||
94行目: | 89行目: | ||
* {{Official website|https://www.beauxartsparis.fr/en/}}(フランス語、英語) |
* {{Official website|https://www.beauxartsparis.fr/en/}}(フランス語、英語) |
||
{{architecture-stub}} |
|||
{{france-stub}} |
|||
{{school-stub}} |
|||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
{{DEFAULTSORT:えこおるてほさある}} |
{{DEFAULTSORT:えこおるてほさある}} |
2024年1月6日 (土) 04:41時点における版
パリ国立高等美術学校(2010年撮影) | |
種別 | 特別高等教育機関(Grands établissements) |
---|---|
設立年 | 1682年または1671年[1] |
予算 | 10,6 millions € |
校長 | Jean de loisy |
学生総数 | 530 |
所在地 |
フランス パリ6区やリヨンなどフランス各地 座標: 北緯48度51分24.16秒 東経2度20分0.68秒 / 北緯48.8567111度 東経2.3335222度 |
キャンパス | 都市型 |
公式サイト | Ecole Nationale Supérieure des Beaux-Arts |
歴史
書籍
●三宅理一・アニー・ジャック ﹃ボザール建築図集﹄ 求龍堂、1987年、ISBN 4-7630-8710-X。ISBN-13: 978-4-7630-8710-2。関連項目
●パリ国立高等美術学校 - 上記、フランス国内にあるボザール各校の内、パリ校。 ●リヨン国立高等美術学校 - 同、リヨン校。 ●ナント高等美術学校 ●芸術アカデミー ●アカデミック美術 ●アカデミー・ジュリアン - アカデミー・コラロッシ出典
- ^ The New Encyclopaedia Britannica - 15th Edition vol.2. p. 25
- ^ Riviere; Schnerb (10 July 2001). Conversations with Cezanne. UC Press. p. 86. ISBN 0-520-22519-8
- ^ “Emile Bernard”. Visual Arts Cork. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
外部リンク
- 公式ウェブサイト(フランス語、英語)