「エーリヒ・ラインスドルフ」の版間の差分
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[[File:Leinsdorf Czech Philharmonic 1988.jpg|thumb|[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]]を指揮するエーリヒ・ラインスドルフ、ドヴォルザークホール、[[プラハ]]、[[チェコ共和国|チェコ]]、[[1988年]][[7月23日]]]] |
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'''エーリヒ・ラインスドルフ'''('''Erich Leinsdorf''' [[1912年]][[2月4日]] - [[1993年]][[9月11日]])は[[オーストリア]]出身で、後にアメリカに帰化した[[指揮者]]である<ref name="slonimsky">{{cite book | last=Slonimsky | first=N. | edition=8th edition | pages=559| title=The Concise Baker's Biographical Dictionary of Musicians | location=New York | publisher=G. Schirmer | year=1994 | isbn=002872416X}}</ref>。アメリカやヨーロッパを渡り歩いて一流のオーケストラや歌劇団を指揮し、演奏に求める水準の高さとともにその辛辣な人柄で有名になった<ref name="eder">{{cite web | url=http://www.allmusic.com/artist/erich-leinsdorf-p199300 | title=Erich Leinsdorf Biography | publisher=All Music | author=Bruce Eder| date= | accessdate=2007-05-25}}</ref>。音楽に関する著書やエッセーもある。 |
'''エーリヒ・ラインスドルフ'''('''Erich Leinsdorf''' [[1912年]][[2月4日]] - [[1993年]][[9月11日]])は[[オーストリア]]出身で、後にアメリカに帰化した[[指揮者]]である<ref name="slonimsky">{{cite book | last=Slonimsky | first=N. | edition=8th edition | pages=559| title=The Concise Baker's Biographical Dictionary of Musicians | location=New York | publisher=G. Schirmer | year=1994 | isbn=002872416X}}</ref>。アメリカやヨーロッパを渡り歩いて一流のオーケストラや歌劇団を指揮し、演奏に求める水準の高さとともにその辛辣な人柄で有名になった<ref name="eder">{{cite web | url=http://www.allmusic.com/artist/erich-leinsdorf-p199300 | title=Erich Leinsdorf Biography | publisher=All Music | author=Bruce Eder| date= | accessdate=2007-05-25}}</ref>。音楽に関する著書やエッセーもある。 |
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2016年8月14日 (日) 08:53時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/Leinsdorf_Czech_Philharmonic_1988.jpg/220px-Leinsdorf_Czech_Philharmonic_1988.jpg)
経歴
ラインスドルフはウィーンのユダヤ人家庭に生まれ、5歳から地元の学校で音楽を学び始めた。父はアマチュアのピアニストだった[3]。ザルツブルクのモーツァルテウムで指揮法を学び、その後はウィーン大学、ウィーン国立音楽大学でチェロとピアノを学んだ[4]。 1934年から1937年までザルツブルク音楽祭で著名な指揮者であったブルーノ・ワルターやアルトゥーロ・トスカニーニの助手を務める。1936年にはイタリアのボローニャで歌劇を指揮している。1937年にアメリカのメトロポリタン歌劇場でワルキューレを指揮[3]。その後はフランス、イタリアなどで活動する[3]。 1937年11月、ラインスドルフはアメリカに向かい、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で副指揮者の地位を得た。オーストリアがナチス・ドイツに占領されるのは、彼が祖国を発ってわずか数ヶ月後のことであった。当時新人の上院議員であった(そして後の大統領である)リンドン・ジョンソンの支援をうけてラインスドルフはアメリカに留まることが可能になり、また1942年にはアメリカ市民権をえて帰化することができた[1]。 1938年からニューヨーク市のメトロポリタン歌劇場で常任指揮者を務め、とりわけリヒャルト・ワーグナーの解釈で名声を博す。メトロポリタン時代はとりわけ彼の指揮するワーグナーに注目が集まった。1939年にアルトゥル・ボダンツキーが突然の死を迎えると、ラインスドルフはメトロポリタン歌劇場のドイツ物レパートリーの責任者となった[5][1][6]。 1943年には3年契約でクリーヴランド管弦楽団音楽監督の地位を得たが、実際にはほとんど在職期間がなかった。第二次世界大戦のためにアメリカ軍に徴兵されてしまい、契約も更新されなかったからだ。1982年から1984年にかけてクリーヴランド管弦楽団の音楽監督がロリン・マゼールからクリストフ・フォン・ドホナーニへと移行していた時期に、ラインスドルフは何度か同楽団でコンサートを指揮したことがある。彼の言葉を借りればラインスドルフは﹁政権交代の橋渡し﹂役だった[6]。 1947年から1955年の間、ニューヨーク州ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督[5]を務めた。しかしそこで出会ったものはロチェスター市民の偏狭な音楽理解であり、それは彼を絶望させることになる。ラインスドルフの﹁ロチェスターは世界一小奇麗な行き止まりだ!(Rochester is the best disguised dead end in the world!)﹂という言葉は有名である。短い期間ではあるがニューヨーク・シティ・オペラの音楽監督を務めたのち、再びメトロポリタン歌劇団と提携を結んでいる[1]。1962年には高名なボストン交響楽団の音楽監督に就任した。ボストンではもっぱらRCAレコードと組んでレコーティングすることが多かったが、演奏家や管理者と揉めることもしょっちゅうであった[2]。 一度ならずラインスドルフの指揮は歴史的事件の影響を受けている。1963年11月22日、ボストン交響楽団の公演中にラインスドルフは演奏を中断して、ダラスでのケネディ大統領暗殺というショッキングなニュースを聴衆に知らせるとともに、テロリストへの憤りと大統領への哀悼の意を述べ、ベートーヴェンの交響曲第3番から葬送行進曲を披露した[7]。なお、ケネディ追悼ミサでモーツァルト作曲﹁レクイエム﹂を演奏し、現在もCD化され発売されている。 1967年、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団を客演指揮することになっていたが、第三次中東戦争勃発のため急遽帰国している。タキシードを脱ぐのも忘れるほど慌てての帰国であった。演奏会自体は戦争中であったがズービン・メータが代振りをして開催されている[8]。 1969年にボストン交響楽団を辞め、全ての常任指揮者から外れた後は、メトロポリタン歌劇場やニューヨーク・フィルハーモニックなど、数々のオーケストラに客演した。 1974年にラインスドルフはメトロポリタン歌劇場でトリスタンとイゾルデを客演指揮することになるが、経営悪化の関係で歌手のキャンセルなどが相次ぎ、それに対して当時音楽監督のラファエル・クーベリックや首席指揮者のジェームズ・レヴァインが無力だったとしてニューヨーク・タイムズ紙に苦言を呈してる。これがクーベリックの音楽監督辞任に影響を与えたという説もある[9]:138。その後もラインスドルフはメトロポリタン歌劇場で客演指揮を務めるが、彼の要求は厳しく、たびたびトラブルとなっている[9]:194。 1978年から1980年の間はベルリン放送交響楽団︵現‥ベルリン・ドイツ交響楽団︶の首席指揮者を務めている[2]。 回想録︵Cadenza: A Musical Career ︶は1976年に上梓された。1981年にもThe Composer's Advocate. A Radical Orthodoxy for Musiciansを書いている[4]。 1993年、ガンのため、スイスのチューリッヒで81歳で亡くなった。参考文献
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