「サッポー」の版間の差分
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'''サッフォー'''︵[[古代ギリシア語]]アッティカ方言{{enlink|Attic Greek||a=on}}: {{lang|grc|'''Σαπφώ'''}} / {{lang|grc-Latn|Sapphō}}、[[紀元前7世紀]]末 – [[紀元前6世紀]]初︶は、[[古代ギリシア]]の女性[[詩人]]である。
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出身地[[レスボス島]]で用いられた[[アイオリス]]方言{{enlink|Aeolic Greek||a=on}}では'''プサッ |
出身地[[レスボス島]]で用いられた[[アイオリス]]方言{{enlink|Aeolic Greek||a=on}}では'''プサッフォー'''({{lang|grc|'''Ψάπφω'''}} / {{lang|grc-Latn|Psappho}})と呼ばれる。名は「'''サッポー'''」、「'''サッフォ'''」({{lang-en-short|Sappho}})とも表記される。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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[[File:1877_Charles_Mengin_-_Sappho.jpg|thumb|left|alt=|『サッポー』(1877年)[[シャルル・メンギン]] (1853年-1933年)、ある伝統的な説では、サッポーはレウカディアンの崖から飛び降りて自殺したという{{sfn|Lidov|2002|pp=205–6|loc=n.7}}。]] |
[[File:1877_Charles_Mengin_-_Sappho.jpg|thumb|left|alt=|『サッポー』(1877年)[[シャルル・メンギン]] (1853年-1933年)、ある伝統的な説では、サッポーはレウカディアンの崖から飛び降りて自殺したという{{sfn|Lidov|2002|pp=205–6|loc=n.7}}。]] |
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サッ |
サッフォーは生前から詩人として著名であり、[[シチリア|シケリア島]]の[[シュラクサイ]]に亡命の時期に彫像が立てられたという。また[[プラトン|プラトーン]]はサッポーの詩を高く評価し、彼女を「十番目の[[ムーサ]]」とも呼んでいる。ムーサとはアポローンに仕える9柱の芸術の女神である。 |
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歴史学([[パピルス]])上ではっきりしているのは、サッポーはレスボス島で生まれ、[[紀元前596年]]にシケリア島に亡命し、その後、[[レスボス島]]に戻ったということのみである。 |
歴史学([[パピルス]])上ではっきりしているのは、サッポーはレスボス島で生まれ、[[紀元前596年]]にシケリア島に亡命し、その後、[[レスボス島]]に戻ったということのみである。 |
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その一方で後世にはサッポーの作品は頽廃的であるとみなされ、さまざまな非難を浴びた。[[古代ローマ時代]]にもサッポーは非難の的となっていたが、その後、[[キリスト教]]が興隆し、[[神学|キリスト教学]]が独善的な性格を強めてゆくに従い、サッポーの詩は「反聖書的である」とされた。そして、[[キリスト教]]の力がエジプトにまで及ぶに至って、サッポーの作品の多くが失われた。 |
その一方で後世にはサッポーの作品は頽廃的であるとみなされ、さまざまな非難を浴びた。[[古代ローマ時代]]にもサッポーは非難の的となっていたが、その後、[[キリスト教]]が興隆し、[[神学|キリスト教学]]が独善的な性格を強めてゆくに従い、サッポーの詩は「反聖書的である」とされた。そして、[[キリスト教]]の力がエジプトにまで及ぶに至って、サッポーの作品の多くが失われた。 |
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[[File:Godward-In the Days of Sappho-1904.jpg|thumb|left|300px|「サッフォーの時間」ジョン・エドワード・ゴットワード]] |
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当時、サッポーの詩はエジプトの[[アレクサンドリア図書館]]に所蔵されていた。これは、アレクサンドリアが学問の都市であっただけでなく、キリスト教信徒や[[東ローマ帝国]]皇帝が、無神論を含むギリシア哲学や観察に基づく科学を「聖書を冒涜するもの」として非常に迫害するようになると、ギリシアの学者たちはキリスト教の力の及びにくいエジプト属州へ逃げて学問を続けていたためである(390年には、[[東ローマ帝国]]皇帝[[テオドシウス1世]]によって、“同性愛の罪を犯した”とするゴート人のギリシア学者を捕らえるという名目の下、[[テッサロニカの虐殺]]が起こる)。 |
当時、サッポーの詩はエジプトの[[アレクサンドリア図書館]]に所蔵されていた。これは、アレクサンドリアが学問の都市であっただけでなく、キリスト教信徒や[[東ローマ帝国]]皇帝が、無神論を含むギリシア哲学や観察に基づく科学を「聖書を冒涜するもの」として非常に迫害するようになると、ギリシアの学者たちはキリスト教の力の及びにくいエジプト属州へ逃げて学問を続けていたためである(390年には、[[東ローマ帝国]]皇帝[[テオドシウス1世]]によって、“同性愛の罪を犯した”とするゴート人のギリシア学者を捕らえるという名目の下、[[テッサロニカの虐殺]]が起こる)。 |
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しかし、そのエジプトにも[[キリスト教]]の力が及ぶようになり、415年には、アレクサンドリアで、ギリシア学問の学校の女性校長であり著名な数学者・哲学者・無神論者でもあった[[ヒュパティア]]がキリスト教徒によって裸にされて吊され全身の肉を牡蠣の貝殻でそぎ落とされて惨殺されるという虐殺事件が起こった。さらに、エジプトを統括する司祭の指揮のもと、キリスト教徒は[[アレクサンドリア図書館]]をも破壊し蔵書を焼き払った。所蔵されていた大量の貴重なギリシア学問やヘレニズム学術の成果がすべて消失し、サッポーの詩もまた失われた。サッポーの一部の詩は、キリスト教徒の迫害を逃れて[[サーサーン朝]]ペルシアへ亡命した学者たちにより現在まで残っている。 |
しかし、そのエジプトにも[[キリスト教]]の力が及ぶようになり、415年には、アレクサンドリアで、ギリシア学問の学校の女性校長であり著名な数学者・哲学者・無神論者でもあった[[ヒュパティア]]がキリスト教徒によって裸にされて吊され全身の肉を牡蠣の貝殻でそぎ落とされて惨殺されるという虐殺事件が起こった。さらに、エジプトを統括する司祭の指揮のもと、キリスト教徒は[[アレクサンドリア図書館]]をも破壊し蔵書を焼き払った。所蔵されていた大量の貴重なギリシア学問やヘレニズム学術の成果がすべて消失し、サッポーの詩もまた失われた。サッポーの一部の詩は、キリスト教徒の迫害を逃れて[[サーサーン朝]]ペルシアへ亡命した学者たちにより現在まで残っている。 |
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== 日本語文献 == |
== 日本語文献 == |
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[[File:Ostrakon PSI XIII 1300, II sec. ac, frammento di un'ode di saffo sul culto di afrodite.JPG|thumb|200px|器の断片に残る写本]] |
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* {{Cite book|和書|author=[[八木橋正雄]]|title=サッフォー詩集|series=原文のギリシア語と対訳の全詩集|publisher=八木橋正雄刊|date=1980年:日本語初出}} |
* {{Cite book|和書|author=[[八木橋正雄]]|title=サッフォー詩集|series=原文のギリシア語と対訳の全詩集|publisher=八木橋正雄刊|date=1980年:日本語初出}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[沓掛良彦]]|title=サッフォー 詩と生涯|series=|publisher=[[平凡社]]|date=1988年(2006年[[水声社]]再刊)}} |
* {{Cite book|和書|author=[[沓掛良彦]]|title=サッフォー 詩と生涯|series=|publisher=[[平凡社]]|date=1988年(2006年[[水声社]]再刊)}} |
2021年4月2日 (金) 11:49時点における版
サッポー | |
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サッポーの胸像だと推定されているもので、手前に「エレソスのサッポー」と書かれている。古代ギリシアの像を古代ローマ時代に模刻したもの。(紀元前5世紀初期) | |
誕生 |
紀元前7世紀末 レスボス島 |
死没 | 紀元前6世紀初 |
職業 | 詩人 |
活動期間 | 古代ギリシア |
ジャンル | 抒情詩 |
ウィキポータル 文学 |
生涯
作風
サッポーの作品には5脚の3行と2脚の1行からなる四行詩が多く、この形式はサッポー詩体として知られる。またその詩の内容は好んで恋愛を主題とする。古来サッポーの作として著名なものに﹁アプロディテへの讃歌﹂がある。評価
日本語文献
参考文献
●Lidov, Joel (2002). “Sappho, Herodotus and the Hetaira”. Classical Philology 97 (3).脚注
(一)^ Lidov 2002, pp. 205–6, n.7. (二)^ 注 - サッポーの最後については、遡ればメナンドロス︵紀元前342-292)あたりから、渡し守のパオーンに恋をしてルーカディアの崖から飛び降りたのだろう、などと語られてきたが、これは現代の学者からは、歴史的な事実ではないと見なされており、おそらく喜劇詩人が作り出した話か、あるいはサッポーの非自伝的な詩を彼女自身の話として誤読してしまったことが原因で作り出された話だろうと推測されている︵Joel Lidov, "Sappho, Herodotus and the Hetaira", in Classical Philology, July 2002, pp.203–237. pp.205-206︶。関連項目
●9歌唱詩人 ●マルーシャ・チュラーイ - ﹁ウクライナのサッフォー﹂と呼ばれる17世紀の女性詩人 ●エーゲ海の誘惑 - 2008年のウクライナ映画。原題が﹁サッポー﹂︵ウクライナ語: Сафо) ●パオーン外部リンク
- サッフォ:作家別作品リスト - 青空文庫
- サッポー日本語訳詩番号逆引き対照表 - ウェイバックマシン(2002年2月20日アーカイブ分)
- ギリシアの壺絵におけるサッポーの描写