「サッポー」の版間の差分
改名にともなう修正 |
|||
1行目: | 1行目: | ||
{{改名提案|サッポー|date=2022年6月18日}} |
|||
{{Redirect|サッフォー}} |
{{Redirect|サッフォー}} |
||
{{Infobox 作家 |
{{Infobox 作家 |
||
| name = サッ |
| name = サッポー |
||
| image = Bust Sappho Musei Capitolini MC1164.jpg |
| image = Bust Sappho Musei Capitolini MC1164.jpg |
||
| imagesize = |
| imagesize = |
||
| caption = サッ |
| caption = サッポーだと推定されているもので、手前に「{{仮リンク|エレソス|en|Eresos}}のサッポー」と書かれている。古代ギリシアの像を古代ローマ時代に模刻したもの。([[紀元前5世紀]]初期) |
||
| birth_date = [[紀元前7世紀]]末 |
| birth_date = [[紀元前7世紀]]末 |
||
| birth_place = [[レスボス島]] |
| birth_place = [[レスボス島]] |
||
14行目: | 13行目: | ||
| genre = [[抒情詩]] |
| genre = [[抒情詩]] |
||
}} |
}} |
||
'''サッ |
'''サッポー'''︵[[古代ギリシア語]]アッティカ方言{{enlink|Attic Greek||a=on}}: {{lang|grc|'''Σαπφώ'''}} / {{lang|grc-Latn|Sapphō}}、[[紀元前7世紀]]末 – [[紀元前6世紀]]初︶は、[[古代ギリシア]]の女性[[詩人]]である。
|
||
出身地[[レスボス島]]で用いられた[[アイオリス]]方言{{enlink|Aeolic Greek||a=on}}では'''プサッ |
出身地[[レスボス島]]で用いられた[[アイオリス]]方言{{enlink|Aeolic Greek||a=on}}では'''プサッパ'''({{lang|grc|'''Ψάπφα'''}} / {{lang|grc-Latn|Psappha}})あるいは'''プサッポー'''({{lang|grc|'''Ψάπφω'''}} / {{lang|grc-Latn|Psappho}})と呼ばれる。名は'''サッフォー'''({{lang-en-short|Sappho}})とも表記される。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
[[File:1877_Charles_Mengin_-_Sappho.jpg|thumb|left|alt=|『サッポー』(1877年)[[シャルル・メンギン]](1853年-1933年)、ある伝統的な説では、サッ |
[[File:1877_Charles_Mengin_-_Sappho.jpg|thumb|left|alt=|『サッポー』(1877年)[[シャルル・メンギン]](1853年-1933年)、ある伝統的な説では、サッポーはレウカディアンの崖から飛び降りて自殺したという{{sfn|Lidov|2002|pp=205–6|loc=n.7}}。]] |
||
サッ |
サッポーは生前から詩人として著名であり、[[シチリア|シケリア島]]の[[シュラクサイ]]に亡命の時期に彫像が立てられたという。また[[プラトン|プラトーン]]はサッポーの詩を高く評価し、彼女を「十番目の[[ムーサ]]」とも呼んでいる。ムーサとはアポローンに仕える9柱の芸術の女神である。 |
||
歴史学([[パピルス]])上ではっきりしているのは、サッ |
歴史学([[パピルス]])上ではっきりしているのは、サッポーはレスボス島で生まれ、[[紀元前596年]]にシケリア島に亡命し、その後、[[レスボス島]]に戻ったということのみである。 |
||
サッ |
サッポーに関する文献は少なく、その生涯ははっきりしない。紀元前630年から紀元前612年の間のいずれかの年に生まれ、紀元前570年頃に亡くなったと考えられている。 |
||
「サッポーは、富裕な商人である"Kerkylas of Andros"(アンドロス島のケルキューラース)と結婚した」という伝承があった。しかし、ケルキューラースという名前は(現存する)サッ |
「サッポーは、富裕な商人である"Kerkylas of Andros"(アンドロス島のケルキューラース)と結婚した」という伝承があった。しかし、ケルキューラースという名前は(現存する)サッポーの詩に全く登場しない上、19世紀半ばに歴史学者の{{仮リンク|William Mure|en|William Mure (scholar)}}が、"Kerkylas of Andros" は "Penis of Man" を意味する古代ギリシア語とよく似た音になることを発見し指摘したため、この伝承は歴史的事実でなく、サッポーが同性愛と結びつけられることを踏まえた上での創作による民間伝説であると考えられている。 |
||
サッ |
サッポーは、彼女によって選ばれた若い娘しか入れないある種の[[学校]]をレスボス島に作った。また、様々な女性に対する愛の詩を多く残した。そのため、サッポーと同性愛を結びつける指摘は紀元前7世紀ごろから存在した。サッポーの学校では、文芸・音楽・舞踊を始めとする教育が行われたといわれるが、具体的な内容についてはよくわかっていない。サッポーの詩のうちの一部は、それら生徒のために書かれたものである。 |
||
[[File:Édouard-Henri Avril (24).jpg|thumb|400px|「サッ |
[[File:Édouard-Henri Avril (24).jpg|thumb|400px|「サッポー」[[エドゥアール=アンリ・アヴリル]](1843 - 1928)、サッポーはこのように性愛画の題材となった]] |
||
同じレスボス島出身の詩人[[アルカイオス]]とは詩の交換などで交遊があった。サッ |
同じレスボス島出身の詩人[[アルカイオス]]とは詩の交換などで交遊があった。サッポー自身はアルカイオスと異なり、詩作において政治と関わることはせず、主観の方向は内的情熱に傾倒し、亡命の際以外、政治への関与は避けた。<ref>注 - サッポーの最後については、遡れば[[メナンドロス (作家)|メナンドロス]](紀元前342-292)あたりから、渡し守の[[パオーン]]に恋をしてルーカディアの崖から飛び降りたのだろう、などと語られてきたが、これは現代の学者からは、歴史的な事実ではないと見なされており、おそらく[[ギリシア喜劇|喜劇詩人]]が作り出した話か、あるいはサッポーの非自伝的な詩を彼女自身の話として[[誤読]]してしまったことが原因で作り出された話だろうと推測されている(Joel Lidov, "Sappho, Herodotus and the Hetaira", in Classical Philology, July 2002, pp.203–237. pp.205-206)。</ref> |
||
== 作風 == |
== 作風 == |
||
サッ |
サッポーの作品には5脚の3行と2脚の1行からなる四行詩が多く、この形式は[[サッポー詩体]]として知られる。またその詩の内容は好んで[[恋愛]]を主題とする。古来サッポーの作として著名なものに「[[アプロディテ]]への讃歌」がある。 |
||
== 評価 == |
== 評価 == |
||
[[ファイル:Sappho-drawing.jpg|180px|thumb|サッポー<br />(ロマン主義的なイメージで描かれたもの)(1883年の作品)]] |
[[ファイル:Sappho-drawing.jpg|180px|thumb|サッポー<br />(ロマン主義的なイメージで描かれたもの)(1883年の作品)]] |
||
恋愛詩人としてのサッ |
恋愛詩人としてのサッポーは[[古代ローマ]]時代にもよく知られ、[[オウィディウス]]は抒情詩「愛について」の中で「いまやサッポーの名はあらゆる国々に知られている」(Ars Amatoria, 第28行)と述べている。 |
||
その一方で後世にはサッ |
その一方で後世にはサッポーの作品は頽廃的であるとみなされ、さまざまな非難を浴びた。[[古代ローマ時代]]にもサッポーは非難の的となっていたが、その後、[[キリスト教]]が興隆し、[[神学|キリスト教学]]が独善的な性格を強めてゆくに従い、サッポーの詩は「反聖書的である」とされた。そして、[[キリスト教]]の力がエジプトにまで及ぶに至って、サッポーの作品の多くが失われた。 |
||
[[File:Godward-In the Days of Sappho-1904.jpg|thumb|left|300px|「サッ |
[[File:Godward-In the Days of Sappho-1904.jpg|thumb|left|300px|「サッポーの時間」ジョン・エドワード・ゴットワード]] |
||
当時、サッ |
当時、サッポーの詩はエジプトの[[アレクサンドリア図書館]]に所蔵されていた。これは、アレクサンドリアが学問の都市であっただけでなく、キリスト教信徒や[[東ローマ帝国]]皇帝が、無神論を含むギリシア哲学や観察に基づく科学を「聖書を冒涜するもの」として非常に迫害するようになると、ギリシアの学者たちはキリスト教の力の及びにくいエジプト属州へ逃げて学問を続けていたためである(390年には、[[東ローマ帝国]]皇帝[[テオドシウス1世]]によって、“同性愛の罪を犯した”とするゴート人のギリシア学者を捕らえるという名目の下、[[テッサロニカの虐殺]]が起こる)。 |
||
しかし、そのエジプトにも[[キリスト教]]の力が及ぶようになり、415年には、アレクサンドリアで、ギリシア学問の学校の女性校長であり著名な数学者・哲学者・無神論者でもあった[[ヒュパティア]]がキリスト教徒によって裸にされて吊され全身の肉を牡蠣の貝殻でそぎ落とされて惨殺されるという虐殺事件が起こった。さらに、エジプトを統括する司祭の指揮のもと、キリスト教徒は[[アレクサンドリア図書館]]をも破壊し蔵書を焼き払った。所蔵されていた大量の貴重なギリシア学問やヘレニズム学術の成果がすべて消失し、サッ |
しかし、そのエジプトにも[[キリスト教]]の力が及ぶようになり、415年には、アレクサンドリアで、ギリシア学問の学校の女性校長であり著名な数学者・哲学者・無神論者でもあった[[ヒュパティア]]がキリスト教徒によって裸にされて吊され全身の肉を牡蠣の貝殻でそぎ落とされて惨殺されるという虐殺事件が起こった。さらに、エジプトを統括する司祭の指揮のもと、キリスト教徒は[[アレクサンドリア図書館]]をも破壊し蔵書を焼き払った。所蔵されていた大量の貴重なギリシア学問やヘレニズム学術の成果がすべて消失し、サッポーの詩もまた失われた。サッポーの一部の詩は、キリスト教徒の迫害を逃れて[[サーサーン朝]]ペルシアへ亡命した学者たちにより現在まで残っている。 |
||
前述のようにサッ |
前述のようにサッポーは非常に女性同性愛と結びつけられやすかったため、現代では、Sapphic(サッポー風の)は女性同性愛者を、Sapphismは女性同性愛を示すのに用いられる。また、女性同性愛者を呼ぶ一般的な呼称である「レスビアン」もサッポーが[[レスボス島]]出身であることに由来する。ちなみに、英語で「レスボス人」は"lesbian"と表記されるが、これは「レズビアン」の"lesbian"と同じつづりである。そのことから、同島の現代の一般名称は[[レスボス島|ミティリーニ島]]の名称に好んで替えられて呼ばれている。 |
||
== 日本語文献 == |
== 日本語文献 == |
2022年6月26日 (日) 02:23時点における版
サッポー | |
---|---|
誕生 |
紀元前7世紀末 レスボス島 |
死没 | 紀元前6世紀初 |
職業 | 詩人 |
活動期間 | 古代ギリシア |
ジャンル | 抒情詩 |
ウィキポータル 文学 |
生涯
作風
サッポーの作品には5脚の3行と2脚の1行からなる四行詩が多く、この形式はサッポー詩体として知られる。またその詩の内容は好んで恋愛を主題とする。古来サッポーの作として著名なものに﹁アプロディテへの讃歌﹂がある。評価
日本語文献
脚注
(一)^ Lidov 2002, pp. 205–6, n.7. (二)^ 注 - サッポーの最後については、遡ればメナンドロス︵紀元前342-292)あたりから、渡し守のパオーンに恋をしてルーカディアの崖から飛び降りたのだろう、などと語られてきたが、これは現代の学者からは、歴史的な事実ではないと見なされており、おそらく喜劇詩人が作り出した話か、あるいはサッポーの非自伝的な詩を彼女自身の話として誤読してしまったことが原因で作り出された話だろうと推測されている(Joel Lidov, "Sappho, Herodotus and the Hetaira", in Classical Philology, July 2002, pp.203–237. pp.205-206)。参考文献
●Lidov, Joel (2002). “Sappho, Herodotus and the Hetaira”. Classical Philology 97 (3).関連項目
●9歌唱詩人 ●マルーシャ・チュラーイ - ﹁ウクライナのサッフォー﹂と呼ばれる17世紀の女性詩人 ●エーゲ海の誘惑 - 2008年のウクライナ映画。原題が﹁サッポー﹂︵ウクライナ語: Сафо) ●パオーン外部リンク
- サッフォ:作家別作品リスト - 青空文庫
- サッポー日本語訳詩番号逆引き対照表 - ウェイバックマシン(2002年2月20日アーカイブ分)
- ギリシアの壺絵におけるサッポーの描写