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「ジェームズ・ブライス」の版間の差分

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{{政治家

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[[アイルランド]]の[[ベルファスト]]に生まれ、[[グラスゴー]]で教育を受ける。[[オックスフォード大学]]に進み、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]に留学中、[[中世]]文学・ドイツ史に関する資料を蒐集し、アーノルド懸賞論文として『神聖ローマ帝国』(''The Holy Empire'', 1864年)を提出・出版。たちまち版を重ねて、[[ドイツ語]]・[[イタリア語]]・[[フランス語]]・[[ポルトガル語]]の諸国語に翻訳され、史家としての名声を確立した。オックスフォード大学ローマ法[[欽定教授|欽定講座担任教授]]となり、[[1870年]]から[[1893年]]まで務める。[[1894年]]には[[英国学士院]]の会員。[[1914年]]に叙爵され、第1代ブライス[[子爵]]となる。

[[アイルランド]]の[[ベルファスト]]に生まれ、[[グラスゴー]]で教育を受ける。[[オックスフォード大学]]に進み、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]に留学中、[[中世]]文学・ドイツ史に関する資料を蒐集し、アーノルド懸賞論文として『神聖ローマ帝国』(''The Holy Empire'', 1864年)を提出・出版。たちまち版を重ねて、[[ドイツ語]]・[[イタリア語]]・[[フランス語]]・[[ポルトガル語]]の諸国語に翻訳され、史家としての名声を確立した。オックスフォード大学ローマ法[[欽定教授|欽定講座担任教授]]となり、[[1870年]]から[[1893年]]まで務める。[[1894年]]には[[英国学士院]]の会員。[[1914年]]に叙爵され、第1代ブライス[[子爵]]となる。



[[自由党 (イギリス)|自由党]]議員として[[1880年]]にタワーハムレッツ区から選出されて[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]に入り、[[第3次グラッドストン内閣]]では外務次官(1886年)、[[1892年]]から[[1894年]]の[[第4次グラッドストン内閣]]では[[ランカスター公領大臣]]、[[1894年]]から[[1895年]]の[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|ローズベリー]]内閣では[[商務院総裁]]、[[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]内閣ではアイルランド事務相、ついで[[1907年]]から[[1913年]]には[[在アメリカ合衆国イギリス大使|駐米イギリス大使]]となる。[[アメリカ合衆国]]へは3度ほど渡りその旅行の成果としては『アメリカ共和国』(''American Comonwealth'', 1888年)がある。「[[ニューヨーク・タイムズ]]」紙は、「かつて一英国人、いなイギリスによって与えられた、もっとも意義深く感謝に値する贈り物」と評し、「[[ニューヨーク・トリビューン]]」紙はアメリカ人が自国の政治組織を知る上で最良の教科書として推薦した。

[[自由党 (イギリス)|自由党]]議員として[[1880年]]にタワーハムレッツ区から選出されて[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]に入り、[[第3次グラッドストン内閣]]では外務次官(1886年)、[[1892年]]から[[1894年]]の[[第4次グラッドストン内閣]]では[[ランカスター公領大臣]]、[[1894年]]から[[1895年]]の[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|ローズベリー]]内閣では[[商務院総裁]]、[[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]内閣ではアイルランド事務相、ついで[[1907年]]から[[1913年]]には[[在アメリカ合衆国イギリス大使|駐米イギリス大使]]となる。[[アメリカ合衆国]]へは3度ほど渡りその旅行の成果としては『アメリカ共和国』(''American Comonwealth'', 1888年)がある。「[[ニューヨーク・タイムズ]]」紙は、「かつて一英国人、イギリスによって与えられた、もっとも意義深く感謝に値する贈り物」と評し、「[[ニューヨーク・トリビューン]]」紙はアメリカ人が自国の政治組織を知る上で最良の教科書として推薦した。



ブライスは非常な旅行家で、また[[1876年]]には[[アララト山]]に登頂し、[[1899年]]から[[1901年]]には[[英国山岳会]]の会長であった。中央[[カフカース]]についての著書もある。[[1897年]]に[[南アフリカ共和国]]についての印象記を公表し、それは[[ボーア戦争]]を論議していた自由党のサークルに重視された。

ブライスは非常な旅行家で、また[[1876年]]には[[アララト山]]に登頂し、[[1899年]]から[[1901年]]には[[英国山岳会]]の会長であった。中央[[カフカース]]についての著書もある。[[1897年]]に[[南アフリカ共和国]]についての印象記を公表し、それは[[ボーア戦争]]を論議していた自由党のサークルに重視された。

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[[1890]]23[[1924]]13[[1928]]3

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「地方自治は民主主義の源泉であるだけでなく、その最良の学校である」という言葉は有名である{{誰2|date=2015年10月}}


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== 脚注 ==

<references/>



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[[Category:イングランド選出のイギリス庶民院議員]]

[[Category:ルセックス選出のイギリス庶民院議員]]

[[Category:スコットランド選出のイギリス庶民院議員]]

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[[Category:アイルランドの政治家]]

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[[Category:在アメリカ合衆国イギリス大使]]

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[[Category:王立協会フェロー]]

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[[Category:メリット勲章]]

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[[Category:ロイヤル・ヴィクトリア勲章]]

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[[Category:イギリスの枢密顧問官]]

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[[Category:オックスフォード大学の教員]]

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[[Category:オックスフォード大学出身の人物]]

[[Category:オックスフォード大学出身の人物]]


2023年12月16日 (土) 16:53時点における最新版

イギリスの旗 イギリス政治家

初代ブライス子爵
ジェームズ・ブライス

James Bryce
1st Viscount Bryce

1902年撮影

生年月日 (1838-05-10) 1838年5月10日
出生地 イギリスの旗 イギリス
アイルランド ベルファスト
没年月日 1922年1月22日(1922-01-22)(83歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
デヴォンシドマス英語版
出身校 グラスゴー大学
オックスフォード大学トリニティ・カレッジ
所属政党 自由党
称号 メリット勲章 (OM)
ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス (GCVO)
枢密顧問官 (PC)
王立協会フェロー (FRS)
イギリス学士院フェロー (FBA)
サイン

イギリスの旗 在アメリカ合衆国イギリス大使

内閣 キャンベル=バナマン内閣
第1次アスキス内閣
在任期間 1907年 - 1913年
国王 エドワード7世
ジョージ5世

イギリスの旗 アイルランド担当大臣英語版

内閣 キャンベル=バナマン内閣
在任期間 1905年12月5日 - 1907年1月23日
国王 エドワード7世

イギリスの旗 商務大臣

内閣 ローズベリー伯爵内閣
在任期間 1894年5月28日 - 1895年6月21日
女王 ヴィクトリア

イギリスの旗 ランカスター公領大臣

内閣 第4次グラッドストン内閣
在任期間 1892年8月18日 - 1894年5月28日
女王 ヴィクトリア

イギリスの旗 外務省政務次官英語版

内閣 第3次グラッドストン内閣
在任期間 1886年2月7日 - 1886年7月20日
女王 ヴィクトリア
テンプレートを表示

James Bryce, 1st Viscount Bryce, OM, GCVO, PC, FRS, FBA 1838510 - 1922122

[]


The Holy Empire, 186418701893189419141

1880318861892189441894189519071913使3American Comonwealth, 1888

1876189919011897

1913退調1915Modern democracies, 1921821200

18902319241319283

[1]

脚注[編集]

  1. ^ ジェームズ・プライス著、松山武訳『近代民主政治』第1巻 1929, p. 160.
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
ジョセフ・ダグイラー・サミューダ英語版
タワー・ハムレット選挙区英語版選出庶民院議員
1880年 - 1885年
廃止
新設 アバディーン南選挙区英語版選出庶民院議員
1885年 - 1907年
次代
ジョージ・バーニー・エスルモント英語版
公職
先代
サー・ロバート・ブーク英語版
外務省政務次官英語版
1886年
次代
サー・ジェームズ・ファーガソン準男爵英語版
先代
第7代ラトランド公爵
ランカスター公領大臣
1892年 - 1894年
次代
第2代トウィードマス男爵英語版
先代
A・J・マンデラ英語版
商務大臣
1894年 - 1895年
次代
チャールズ・リッチー英語版
先代
ウォルター・ロング英語版
アイルランド担当大臣英語版
1905年 - 1907年
次代
オーガスティン・ビレル英語版
外交職
先代
サー・ヘンリー・モーティマー・デュランド英語版
在アメリカ合衆国イギリス大使
1907年 - 1913年
次代
サー・セシル・スプリング・ライス英語版
爵位・家督
新設 ブライス子爵
1914年 - 1922年
廃絶