「ジェームズ・ブライス」の版間の差分
m Category:イギリスの子爵を除去; Category:連合王国貴族の子爵を追加 (HotCat使用) |
編集の要約なし |
||
(6人の利用者による、間の9版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{出典の明記|date=2016-07-10}} |
|||
{{政治家 |
{{政治家 |
||
|人名 = 初代ブライス子爵<br/>ジェームズ・ブライス |
|人名 = 初代ブライス子爵<br/>ジェームズ・ブライス |
||
15行目: | 14行目: | ||
|現職 = |
|現職 = |
||
|所属政党 = [[自由党 (イギリス)|自由党]] |
|所属政党 = [[自由党 (イギリス)|自由党]] |
||
|称号・勲章 = [[メリット勲章]] (OM)<br/>[[ロイヤル・ヴィクトリア勲章#ナイト・グランド・クロス|ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス]] (GCVO)<br/>[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]] (PC)<br/>[[王立協会]]フェロー (FRS)<br/>[[イギリス学士院]]フェロー (FBA) |
|称号・勲章 = [[メリット勲章]] (OM)<br/>[[ロイヤル・ヴィクトリア勲章#ナイト・グランド・クロス及びデイム・グランド・クロス|ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス]] (GCVO)<br/>[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]] (PC)<br/>[[王立協会]]フェロー (FRS)<br/>[[イギリス学士院]]フェロー (FBA) |
||
|配偶者 = |
|配偶者 = |
||
|子女 = |
|子女 = |
||
46行目: | 45行目: | ||
|退任日3 = [[1895年]][[6月21日]] |
|退任日3 = [[1895年]][[6月21日]] |
||
|元首職3 = [[イギリス国王|女王]] |
|元首職3 = [[イギリス国王|女王]] |
||
|元首3 = [[ヴィクトリア]] |
|元首3 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]] |
||
|国旗4 = UK |
|国旗4 = UK |
||
|職名4 = [[ランカスター公領大臣]] |
|職名4 = [[ランカスター公領大臣]] |
||
72行目: | 71行目: | ||
[[アイルランド]]の[[ベルファスト]]に生まれ、[[グラスゴー]]で教育を受ける。[[オックスフォード大学]]に進み、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]に留学中、[[中世]]文学・ドイツ史に関する資料を蒐集し、アーノルド懸賞論文として『神聖ローマ帝国』(''The Holy Empire'', 1864年)を提出・出版。たちまち版を重ねて、[[ドイツ語]]・[[イタリア語]]・[[フランス語]]・[[ポルトガル語]]の諸国語に翻訳され、史家としての名声を確立した。オックスフォード大学ローマ法[[欽定教授|欽定講座担任教授]]となり、[[1870年]]から[[1893年]]まで務める。[[1894年]]には[[英国学士院]]の会員。[[1914年]]に叙爵され、第1代ブライス[[子爵]]となる。 |
[[アイルランド]]の[[ベルファスト]]に生まれ、[[グラスゴー]]で教育を受ける。[[オックスフォード大学]]に進み、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]に留学中、[[中世]]文学・ドイツ史に関する資料を蒐集し、アーノルド懸賞論文として『神聖ローマ帝国』(''The Holy Empire'', 1864年)を提出・出版。たちまち版を重ねて、[[ドイツ語]]・[[イタリア語]]・[[フランス語]]・[[ポルトガル語]]の諸国語に翻訳され、史家としての名声を確立した。オックスフォード大学ローマ法[[欽定教授|欽定講座担任教授]]となり、[[1870年]]から[[1893年]]まで務める。[[1894年]]には[[英国学士院]]の会員。[[1914年]]に叙爵され、第1代ブライス[[子爵]]となる。 |
||
[[自由党 (イギリス)|自由党]]議員として[[1880年]]にタワーハムレッツ区から選出されて[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]に入り、[[第3次グラッドストン内閣]]では外務次官(1886年)、[[1892年]]から[[1894年]]の[[第4次グラッドストン内閣]]では[[ランカスター公領大臣]]、[[1894年]]から[[1895年]]の[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|ローズベリー]]内閣では[[商務院総裁]]、[[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]内閣ではアイルランド事務相、ついで[[1907年]]から[[1913年]]には[[在アメリカ合衆国イギリス大使|駐米イギリス大使]]となる。[[アメリカ合衆国]]へは3度ほど渡りその旅行の成果としては『アメリカ共和国』(''American Comonwealth'', 1888年)がある。「[[ニューヨーク・タイムズ]]」紙は、「かつて一英国人、 |
[[自由党 (イギリス)|自由党]]議員として[[1880年]]にタワーハムレッツ区から選出されて[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]に入り、[[第3次グラッドストン内閣]]では外務次官(1886年)、[[1892年]]から[[1894年]]の[[第4次グラッドストン内閣]]では[[ランカスター公領大臣]]、[[1894年]]から[[1895年]]の[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|ローズベリー]]内閣では[[商務院総裁]]、[[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]内閣ではアイルランド事務相、ついで[[1907年]]から[[1913年]]には[[在アメリカ合衆国イギリス大使|駐米イギリス大使]]となる。[[アメリカ合衆国]]へは3度ほど渡りその旅行の成果としては『アメリカ共和国』(''American Comonwealth'', 1888年)がある。「[[ニューヨーク・タイムズ]]」紙は、「かつて一英国人、否イギリスによって与えられた、もっとも意義深く感謝に値する贈り物」と評し、「[[ニューヨーク・トリビューン]]」紙はアメリカ人が自国の政治組織を知る上で最良の教科書として推薦した。 |
||
ブライスは非常な旅行家で、また[[1876年]]には[[アララト山]]に登頂し、[[1899年]]から[[1901年]]には[[英国山岳会]]の会長であった。中央[[カフカース]]についての著書もある。[[1897年]]に[[南アフリカ共和国]]についての印象記を公表し、それは[[ボーア戦争]]を論議していた自由党のサークルに重視された。 |
ブライスは非常な旅行家で、また[[1876年]]には[[アララト山]]に登頂し、[[1899年]]から[[1901年]]には[[英国山岳会]]の会長であった。中央[[カフカース]]についての著書もある。[[1897年]]に[[南アフリカ共和国]]についての印象記を公表し、それは[[ボーア戦争]]を論議していた自由党のサークルに重視された。 |
||
80行目: | 79行目: | ||
日本でも早くからブライスの著作は紹介され、﹃平民政治﹄︵[[1890年]]、明治23年︶、﹃神聖羅馬帝国﹄︵[[1924年]]、大正13年︶、﹃近代民主政治﹄︵[[1928年]]、昭和3年︶と主著が翻訳・出版されている。
|
日本でも早くからブライスの著作は紹介され、﹃平民政治﹄︵[[1890年]]、明治23年︶、﹃神聖羅馬帝国﹄︵[[1924年]]、大正13年︶、﹃近代民主政治﹄︵[[1928年]]、昭和3年︶と主著が翻訳・出版されている。
|
||
「地方自治は民主主義の |
﹁地方自治は民主主義の最良学校であり、その成功の最良の保証人である﹂という箴言を残している。{{sfn|ジェームズ・プライス著、松山武訳﹃近代民主政治﹄第1巻|1929|p=160}}
|
||
== 脚注 == |
|||
<references/> |
|||
{{s-start}} |
{{s-start}} |
||
112行目: | 114行目: | ||
{{s-non |reason=廃絶}} |
{{s-non |reason=廃絶}} |
||
{{s-end}} |
{{s-end}} |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
{{DEFAULTSORT:ふらいす しえむす}} |
{{DEFAULTSORT:ふらいす しえむす}} |
||
[[Category: |
[[Category:ミドルセックス選出のイギリス庶民院議員]] |
||
[[Category:スコットランド選出のイギリス庶民院議員]] |
[[Category:スコットランド選出のイギリス庶民院議員]] |
||
[[Category:アイルランドの政治家]] |
[[Category:アイルランドの政治家]] |
||
123行目: | 125行目: | ||
[[Category:在アメリカ合衆国イギリス大使]] |
[[Category:在アメリカ合衆国イギリス大使]] |
||
[[Category:王立協会フェロー]] |
[[Category:王立協会フェロー]] |
||
[[Category:イギリス学士院フェロー]] |
|||
[[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] |
|||
[[Category:アッカデーミア・デイ・リンチェイ会員]] |
|||
[[Category:メリット勲章]] |
[[Category:メリット勲章]] |
||
[[Category:ロイヤル・ヴィクトリア勲章]] |
[[Category:ロイヤル・ヴィクトリア勲章]] |
||
[[Category:プール・ル・メリット勲章平和章受章者]] |
|||
[[Category:イギリスの枢密顧問官]] |
[[Category:イギリスの枢密顧問官]] |
||
[[Category:商務庁長官]] |
|||
[[Category:オックスフォード大学の教員]] |
[[Category:オックスフォード大学の教員]] |
||
[[Category:オックスフォード大学出身の人物]] |
[[Category:オックスフォード大学出身の人物]] |
2023年12月16日 (土) 16:53時点における最新版
初代ブライス子爵 ジェームズ・ブライス James Bryce | |
---|---|
![]() 1902年撮影 | |
生年月日 | 1838年5月10日 |
出生地 |
![]() アイルランド ベルファスト |
没年月日 | 1922年1月22日 (83歳没) |
死没地 |
![]() ![]() ![]() |
出身校 |
グラスゴー大学 オックスフォード大学トリニティ・カレッジ |
所属政党 | 自由党 |
称号 |
メリット勲章 (OM) ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス (GCVO) 枢密顧問官 (PC) 王立協会フェロー (FRS) イギリス学士院フェロー (FBA) |
サイン |
![]() |
内閣 |
キャンベル=バナマン内閣 第1次アスキス内閣 |
在任期間 | 1907年 - 1913年 |
国王 |
エドワード7世 ジョージ5世 |
内閣 | キャンベル=バナマン内閣 |
在任期間 | 1905年12月5日 - 1907年1月23日 |
国王 | エドワード7世 |
内閣 | ローズベリー伯爵内閣 |
在任期間 | 1894年5月28日 - 1895年6月21日 |
女王 | ヴィクトリア |
内閣 | 第4次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1892年8月18日 - 1894年5月28日 |
女王 | ヴィクトリア |
内閣 | 第3次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1886年2月7日 - 1886年7月20日 |
女王 | ヴィクトリア |
生涯[編集]
アイルランドのベルファストに生まれ、グラスゴーで教育を受ける。オックスフォード大学に進み、ハイデルベルク大学に留学中、中世文学・ドイツ史に関する資料を蒐集し、アーノルド懸賞論文として﹃神聖ローマ帝国﹄︵The Holy Empire, 1864年︶を提出・出版。たちまち版を重ねて、ドイツ語・イタリア語・フランス語・ポルトガル語の諸国語に翻訳され、史家としての名声を確立した。オックスフォード大学ローマ法欽定講座担任教授となり、1870年から1893年まで務める。1894年には英国学士院の会員。1914年に叙爵され、第1代ブライス子爵となる。 自由党議員として1880年にタワーハムレッツ区から選出されて庶民院に入り、第3次グラッドストン内閣では外務次官︵1886年︶、1892年から1894年の第4次グラッドストン内閣ではランカスター公領大臣、1894年から1895年のローズベリー内閣では商務院総裁、キャンベル=バナマン内閣ではアイルランド事務相、ついで1907年から1913年には駐米イギリス大使となる。アメリカ合衆国へは3度ほど渡りその旅行の成果としては﹃アメリカ共和国﹄︵American Comonwealth, 1888年︶がある。﹁ニューヨーク・タイムズ﹂紙は、﹁かつて一英国人、否イギリスによって与えられた、もっとも意義深く感謝に値する贈り物﹂と評し、﹁ニューヨーク・トリビューン﹂紙はアメリカ人が自国の政治組織を知る上で最良の教科書として推薦した。 ブライスは非常な旅行家で、また1876年にはアララト山に登頂し、1899年から1901年には英国山岳会の会長であった。中央カフカースについての著書もある。1897年に南アフリカ共和国についての印象記を公表し、それはボーア戦争を論議していた自由党のサークルに重視された。 1913年に公職を退いたあとも、日本・オーストラリア・ニュージーランドを歴訪し、第一次世界大戦勃発後に﹁ドイツのベルギーにおける暴力調査委員会﹂に挙げられ、1915年に発表されたその報告は、ブライスの名声と相まって、アメリカの参戦に影響を与えたという。しかしこの﹁ブライス報告﹂は、イギリス政府が仕掛けたプロパガンダであり、第一次世界大戦後の検証の結果、報告されたようなドイツ兵による残虐な行為の証拠は見つからなかった。国際的に著名で信頼のある学者によるプロパガンダは大きな効果を発揮し、アメリカでドイツ兵による残虐な行為の有無を疑っていた人さえも、ブライスの名を聞いて信じてしまったほどであった。その多忙な晩年に執筆・公刊された﹃近代民主政治﹄︵Modern democracies, 1921年︶について、﹁ロンドン・タイムズ﹂紙は﹁82歳の高齢でたゆまぬ研究と旅行の結果として1200ページもの大著を出した事例が他にあるだろうか﹂と称えた。 日本でも早くからブライスの著作は紹介され、﹃平民政治﹄︵1890年、明治23年︶、﹃神聖羅馬帝国﹄︵1924年、大正13年︶、﹃近代民主政治﹄︵1928年、昭和3年︶と主著が翻訳・出版されている。 ﹁地方自治は民主主義の最良学校であり、その成功の最良の保証人である﹂という箴言を残している。[1]脚注[編集]
- ^ ジェームズ・プライス著、松山武訳『近代民主政治』第1巻 1929, p. 160.
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
---|---|---|
先代 ジョセフ・ダグイラー・サミューダ |
タワー・ハムレット選挙区選出庶民院議員 1880年 - 1885年 |
廃止 |
新設 | アバディーン南選挙区選出庶民院議員 1885年 - 1907年 |
次代 ジョージ・バーニー・エスルモント |
公職 | ||
先代 サー・ロバート・ブーク |
外務省政務次官 1886年 |
次代 サー・ジェームズ・ファーガソン準男爵 |
先代 第7代ラトランド公爵 |
ランカスター公領大臣 1892年 - 1894年 |
次代 第2代トウィードマス男爵 |
先代 A・J・マンデラ |
商務大臣 1894年 - 1895年 |
次代 チャールズ・リッチー |
先代 ウォルター・ロング |
アイルランド担当大臣 1905年 - 1907年 |
次代 オーガスティン・ビレル |
外交職 | ||
先代 サー・ヘンリー・モーティマー・デュランド |
在アメリカ合衆国イギリス大使 1907年 - 1913年 |
次代 サー・セシル・スプリング・ライス |
爵位・家督 | ||
新設 | ブライス子爵 1914年 - 1922年 |
廃絶 |