「ジョージ・クレイトン・フォーク」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
Homura magica (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
12行目: | 12行目: | ||
彼は朝鮮駐箚中、[[輿]]で朝鮮各地を視察した。大きな視察は2回あり、1回目は43日かけて[[公州市|公州]]、[[光州広域市|光州]]、[[海印寺 (慶尚南道陜川郡)|海印寺]]、[[釜山広域市|釜山]]、[[大邱広域市|大邱]]、[[聞慶市|聞慶]]などを訪問。2回目は[[漢城府|漢城]]を訪問したが、このとき[[壬午事変]]が発生。このクーデターを機に、朝鮮人は彼を日本のスパイと疑い、敵意を向けた。
|
彼は朝鮮駐箚中、[[輿]]で朝鮮各地を視察した。大きな視察は2回あり、1回目は43日かけて[[公州市|公州]]、[[光州広域市|光州]]、[[海印寺 (慶尚南道陜川郡)|海印寺]]、[[釜山広域市|釜山]]、[[大邱広域市|大邱]]、[[聞慶市|聞慶]]などを訪問。2回目は[[漢城府|漢城]]を訪問したが、このとき[[壬午事変]]が発生。このクーデターを機に、朝鮮人は彼を日本のスパイと疑い、敵意を向けた。
|
||
彼は1885年から1886年まで、および1886年から1887年まで2度、駐朝鮮公使を務めた。フォークは1886年に任務を一度[[ウィリアム・ハーウォー・パーカー]]に引き継いだが、まもなくパーカーについて「常習的に飲酒をしている」とアルコール |
彼は1885年から1886年まで、および1886年から1887年まで2度、駐朝鮮公使を務めた。フォークは1886年に任務を一度[[ウィリアム・ハーウォー・パーカー]]に引き継いだが、まもなくパーカーについて「常習的に飲酒をしている」と[[アルコール使用障害]]の報告が[[ワシントンD.C.]]になされた。連邦政府はこれを深刻な事態と判断し、フォークを可及的速やかに朝鮮に戻すことを決定した。このときフォークは客船で帰国の途についていたが、その客船を引き止めるために[[アメリカ合衆国海軍|アメリカ海軍]]の艦隊が使用された。再任から数ヵ月後の1887年、清の要請を受けたアメリカ政府の人事により、フォークは駐朝鮮公使を退任。 |
||
== 晩年 == |
== 晩年 == |
2014年6月5日 (木) 19:15時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a1/Ensign_George_Clayton_Foulk%2C_USN_%E2%80%94_NH_85539.jpg/220px-Ensign_George_Clayton_Foulk%2C_USN_%E2%80%94_NH_85539.jpg)
ジョージ・クレイトン・フォーク︵George Clayton Foulk, 1856年10月30日 - 1893年8月6日︶は、アメリカ合衆国の外交官。
生い立ち
1856年にペンシルバニア州マリエッタにて誕生[1]。1876年に海軍兵学校を卒業[1]。同年、客船アラート号にてアジア旅行へ発ち、ニューヨーク港から大西洋を渡って地中海、スエズ運河を経てインド洋へ、そして日本に続く航海をした。この航海の間、フォークは中国語と日本語を独学で勉強。1877年に少尉に任官され、アジア分艦隊で6年間勤仕。 1882年、ベンジャミン・バッキンガム中尉およびウォルター・マクレーン少尉とともに、アメリカに帰還。1882年6月3日に日本を出発し、李氏朝鮮の釜山港と元山港、シベリア、ヨーロッパを経て、9月8日に到着。帰国後は海軍本部の資料部に配属され、中国語と日本語と朝鮮語を勉強。朝鮮駐在時代
1883年9月、李氏朝鮮から閔泳翊ら遣米報聘使の一行が訪米すると、朝鮮語を扱えるほぼ唯一の通訳者として、フォークが起用された。フォークは閔泳翊の要請で、アメリカ東海岸およびヨーロッパの視察に同行。1884年5月、報聘使一行が李氏朝鮮に帰国する際、チェスター・アーサー大統領はフォークを朝鮮のアメリカ大使館付の海軍武官に任命。報聘使一行とともにトレントン号で朝鮮に入国。 彼は朝鮮駐箚中、輿で朝鮮各地を視察した。大きな視察は2回あり、1回目は43日かけて公州、光州、海印寺、釜山、大邱、聞慶などを訪問。2回目は漢城を訪問したが、このとき壬午事変が発生。このクーデターを機に、朝鮮人は彼を日本のスパイと疑い、敵意を向けた。 彼は1885年から1886年まで、および1886年から1887年まで2度、駐朝鮮公使を務めた。フォークは1886年に任務を一度ウィリアム・ハーウォー・パーカーに引き継いだが、まもなくパーカーについて﹁常習的に飲酒をしている﹂とアルコール使用障害の報告がワシントンD.C.になされた。連邦政府はこれを深刻な事態と判断し、フォークを可及的速やかに朝鮮に戻すことを決定した。このときフォークは客船で帰国の途についていたが、その客船を引き止めるためにアメリカ海軍の艦隊が使用された。再任から数ヵ月後の1887年、清の要請を受けたアメリカ政府の人事により、フォークは駐朝鮮公使を退任。晩年
公使退任後、フォークは同志社学院に講師として就職[1]。1887年9月7日、朝鮮駐在時代から文通を続けていた日本人と結婚[1]。1888年から1890年まで横浜のアメリカン貿易に勤務[1]。1890年から1893年まで同志社学院で数学教授として勤務[1]。1893年に京都で死去[2]。出典
- ^ a b c d e f “Guide to the George Clayton Foulk Papers, ca. 1876-1889”. University of California. 2012年1月3日閲覧。
- ^ 武内博. “近代来韓(朝)西洋人名一覧”. 2012年1月3日閲覧。
外交職 | ||
---|---|---|
先代 ルーシャス・ハーウッド・フット |
在李氏朝鮮アメリカ合衆国公使 1885年 - 1886年 |
次代 ウィリアム・ハーウォー・パーカー |
先代 ウィリアム・ハーウォー・パーカー |
在李氏朝鮮アメリカ合衆国公使 1886年 - 1887年 |
次代 ヒュー・アンダーソン・ディンスモア |