「ニュー・アカデミズム」の版間の差分
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学問・研究の領域における流行り廃りは以前から散見されたものの、この一連の流れは研究者のみならず、特定の雑誌を中心としたマスコミが果たした役割が大きいことから、それまでの流行とは形態や意味合いが異なっている。この観点に立つなら[[中野幹隆]]が主宰した雑誌﹃[[パイデイア]]﹄が発端であり、ここからその後活躍する多くの思想家や研究者が巣立っていった。その後中野幹隆が﹃パイデイア﹄を継承する形で創刊した﹃[[エピステーメー (雑誌)|エピステーメー]]﹄や、エディトリアル・デザイナーの[[松岡正剛]]を主宰者とする﹃[[遊]]﹄などの同系統の雑誌が発刊されたが、特定の読者層に限られていた。
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学問・研究の領域における流行り廃りは以前から散見されたものの、この一連の流れは研究者のみならず、特定の雑誌を中心としたマスコミが果たした役割が大きいことから、それまでの流行とは形態や意味合いが異なっている。この観点に立つなら[[中野幹隆]]が主宰した雑誌﹃[[パイデイア]]﹄が発端であり、ここからその後活躍する多くの思想家や研究者が巣立っていった。その後中野幹隆が﹃パイデイア﹄を継承する形で創刊した﹃[[エピステーメー (雑誌)|エピステーメー]]﹄や、エディトリアル・デザイナーの[[松岡正剛]]を主宰者とする﹃[[遊]]﹄などの同系統の雑誌が発刊されたが、特定の読者層に限られていた。
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読者層を大きく広げその後の流れを決定的にしたのは、当時[[三浦雅士]]が編集長を務めていた『現代思想』である。三浦雅士は、持ち前の行動力と嗅覚で新しい才能を発掘すると共に積極的に論文掲載を進め、『現代思想』を特定の読者を対象とした専門書的な位置付けから半ば大衆的な雑誌にまで持ち上げること成功し、最盛期で公称数万部の発行部数を弾き出した。柔らかい読み物は一切なく、生硬で学術的な論文で固められた雑誌としては驚異的な発行部数だったと言える。その結果、『現代思想』は数多くの「思想界のスター」を生み出した。既に雑誌に論文を掲載していた[[吉本隆明]]、[[廣松渉]]、[[柄谷行人]]、[[蓮實重彦]]らを始め、この雑誌が「思想界へのデビュー」となった[[丸山圭三郎]]、[[木田元]]、[[栗本慎一郎]]、[[岸田秀]]、[[粉川哲夫]]、[[今村仁司]]、[[岩井克人]]など、枚挙に暇がない。 |
読者層を大きく広げその後の流れを決定的にしたのは、当時[[三浦雅士]]が編集長を務めていた『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]]』である。三浦雅士は、持ち前の行動力と嗅覚で新しい才能を発掘すると共に積極的に論文掲載を進め、『現代思想』を特定の読者を対象とした専門書的な位置付けから半ば大衆的な雑誌にまで持ち上げること成功し、最盛期で公称数万部の発行部数を弾き出した。柔らかい読み物は一切なく、生硬で学術的な論文で固められた雑誌としては驚異的な発行部数だったと言える。その結果、『現代思想』は数多くの「思想界のスター」を生み出した。既に雑誌に論文を掲載していた[[吉本隆明]]、[[廣松渉]]、[[柄谷行人]]、[[蓮實重彦]]らを始め、この雑誌が「思想界へのデビュー」となった[[丸山圭三郎]]、[[木田元]]、[[栗本慎一郎]]、[[岸田秀]]、[[粉川哲夫]]、[[今村仁司]]、[[岩井克人]]など、枚挙に暇がない。 |
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中でも最も影響が大きかったのは、論文掲載時26歳で[[京都大学人文科学研究所]]の助手になったばかりの[[浅田彰]]である。後に﹃構造と力﹄として書籍化される論文は、浅田が大学院在学中に執筆したものである。26歳という年齢と、その年齢にそぐわない非常に明快、明晰な持論を展開したことで研究者の間で話題を呼んだ。﹁余りに図式的すぎる﹂﹁独自性がない﹂という批判もあったが、本人は﹁元々現代思想のチャート式入門書を書こうと思ったのだから、図式的であり独自性がないのは当然のこと。﹂﹁そもそも現代思想に本質的な意味での独自性などありはしない。﹂と臆することなく反論した。その若さと挑戦的なキャラクターに加え、﹁[[スキゾ]]﹂﹁[[パラノ]]﹂というある意味分かりやすい二項対立を主張の軸に据えたことから新聞や一般誌にもたびたび取り上げられ、処女作﹃構造と力﹄は15万部を売り上げ、﹁スキゾ﹂と﹁パラノ﹂は流行語にすらなった。
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中でも最も影響が大きかったのは、論文掲載時26歳で[[京都大学人文科学研究所]]の助手になったばかりの[[浅田彰]]である。後に﹃[[構造と力]]﹄として書籍化される論文は、浅田が大学院在学中に執筆したものである。26歳という年齢と、その年齢にそぐわない非常に明快、明晰な持論を展開したことで研究者の間で話題を呼んだ。﹁余りに図式的すぎる﹂﹁独自性がない﹂という批判もあったが、本人は﹁元々現代思想のチャート式入門書を書こうと思ったのだから、図式的であり独自性がないのは当然のこと。﹂﹁そもそも現代思想に本質的な意味での独自性などありはしない。﹂と臆することなく反論した。その若さと挑戦的なキャラクターに加え、﹁[[スキゾ]]﹂﹁[[パラノ]]﹂というある意味分かりやすい二項対立を主張の軸に据えたことから新聞や一般誌にもたびたび取り上げられ、処女作﹃構造と力﹄は15万部を売り上げ、﹁スキゾ﹂と﹁パラノ﹂は流行語にすらなった。
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その後、仕掛け人の三浦雅士が独立して﹃現代思想﹄から手を引き、論文を掲載していた﹁スター﹂達が知名度を得て独立して活動するようになり、さらにマスコミや大衆から飽きられてしまったことから、潮流としてのニュー・アカデミズムは後退して行った。
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その後、仕掛け人の三浦雅士が独立して﹃現代思想﹄から手を引き、論文を掲載していた﹁スター﹂達が知名度を得て独立して活動するようになり、さらにマスコミや大衆から飽きられてしまったことから、潮流としてのニュー・アカデミズムは後退して行った。
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2012年4月18日 (水) 02:30時点における版
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発生の経緯
1960年代末から、学問の大衆化やサブカルチャー化に伴い、構造主義を端緒とする人文・社会科学における学際的領域の研究が流行する。 学問・研究の領域における流行り廃りは以前から散見されたものの、この一連の流れは研究者のみならず、特定の雑誌を中心としたマスコミが果たした役割が大きいことから、それまでの流行とは形態や意味合いが異なっている。この観点に立つなら中野幹隆が主宰した雑誌﹃パイデイア﹄が発端であり、ここからその後活躍する多くの思想家や研究者が巣立っていった。その後中野幹隆が﹃パイデイア﹄を継承する形で創刊した﹃エピステーメー﹄や、エディトリアル・デザイナーの松岡正剛を主宰者とする﹃遊﹄などの同系統の雑誌が発刊されたが、特定の読者層に限られていた。 読者層を大きく広げその後の流れを決定的にしたのは、当時三浦雅士が編集長を務めていた﹃現代思想﹄である。三浦雅士は、持ち前の行動力と嗅覚で新しい才能を発掘すると共に積極的に論文掲載を進め、﹃現代思想﹄を特定の読者を対象とした専門書的な位置付けから半ば大衆的な雑誌にまで持ち上げること成功し、最盛期で公称数万部の発行部数を弾き出した。柔らかい読み物は一切なく、生硬で学術的な論文で固められた雑誌としては驚異的な発行部数だったと言える。その結果、﹃現代思想﹄は数多くの﹁思想界のスター﹂を生み出した。既に雑誌に論文を掲載していた吉本隆明、廣松渉、柄谷行人、蓮實重彦らを始め、この雑誌が﹁思想界へのデビュー﹂となった丸山圭三郎、木田元、栗本慎一郎、岸田秀、粉川哲夫、今村仁司、岩井克人など、枚挙に暇がない。 中でも最も影響が大きかったのは、論文掲載時26歳で京都大学人文科学研究所の助手になったばかりの浅田彰である。後に﹃構造と力﹄として書籍化される論文は、浅田が大学院在学中に執筆したものである。26歳という年齢と、その年齢にそぐわない非常に明快、明晰な持論を展開したことで研究者の間で話題を呼んだ。﹁余りに図式的すぎる﹂﹁独自性がない﹂という批判もあったが、本人は﹁元々現代思想のチャート式入門書を書こうと思ったのだから、図式的であり独自性がないのは当然のこと。﹂﹁そもそも現代思想に本質的な意味での独自性などありはしない。﹂と臆することなく反論した。その若さと挑戦的なキャラクターに加え、﹁スキゾ﹂﹁パラノ﹂というある意味分かりやすい二項対立を主張の軸に据えたことから新聞や一般誌にもたびたび取り上げられ、処女作﹃構造と力﹄は15万部を売り上げ、﹁スキゾ﹂と﹁パラノ﹂は流行語にすらなった。 その後、仕掛け人の三浦雅士が独立して﹃現代思想﹄から手を引き、論文を掲載していた﹁スター﹂達が知名度を得て独立して活動するようになり、さらにマスコミや大衆から飽きられてしまったことから、潮流としてのニュー・アカデミズムは後退して行った。ニュー・アカデミズムの定義
﹁ニュー・アカデミズム﹂とは浅田彰の活躍に代表される事象をマスコミが社会現象として捉えて名付けた造語であり、言葉自体に厳密な定義はない。しかし1970年代末から1980年代初頭にかけての人文・社会科学︵一部自然科学も含む︶においては、単なるブームとは言えない1つの潮流があった。それは、平明な言葉で言い表すなら﹁学際的﹂とでも言うような﹁特定の学問の領域を超えた思考、研究﹂ということになる。 この潮流は、構造主義及びその批判的継承と言える記号論を原点としている。ニューアカにおいては、構造主義︵レヴィ=ストロース、ラカン、アルチュセール等︶と記号論︵ソシュール、バルト等︶が参照され言及される。しかし、それよりも重要視されたのが構造主義や記号論をより根元的に批評、批判したフーコー、ドゥルーズ、デリダの﹁御三家﹂を筆頭とする、クリステヴァ、リオタール、ボードリヤール等の哲学者を中心とした面々だった。彼等はその後ポスト・モダニズムと総称されるようになるが、単純に言えばニュー・アカデミズムの思想的背景はこのポスト・モダニズムにあると言える。 しかし﹁ポストモダン﹂ではなく、略称ではあるがネガティブなニュアンスを含む﹁ニューアカ﹂という呼び名を用いる場合には、こうした思想的背景よりも﹁アカデミズムからのはみ出し者﹂の総称を意味することが多い。事実、栗本慎一郎や岸田秀などの﹁スター﹂は、特定の学会︵派閥︶に属せず独自の主張を唱えていた。中には丸山圭三郎のように、言語学会︵フランス語学会︶においてある程度の権威となっていたにもかかわらず、それでは飽き足らず独自の主張を展開していった者もいる。こうしたアナーキーな雰囲気がニュー・アカデミズムの特徴であり、多くの読者を得て注目を浴びた原因と言える。ニュー・アカデミズムの代表的な著作
- 今村仁司『労働のオントロギー』『排除の構造』
- 岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』
- 柄谷行人『日本近代文学の起源』『隠喩としての建築』
- 岸田秀『ものぐさ精神分析』
- 栗本慎一郎『幻想としての経済』『パンツをはいたサル』
- 蓮實重彦『表層批評宣言』『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』
- 丸山圭三郎『ソシュールの思想』
- 浅田彰『構造と力』『逃走論』
- 中沢新一『チベットのモーツァルト』『雪片曲線論』
- 四方田犬彦『クリティック』
- 細川周平『ウォークマンの修辞学』