「ハンガリー・アンジュー朝」の版間の差分
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===アールパード朝の断絶とカーロイ・ローベルトの選出=== |
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[[1301年]]に[[アンドラーシュ3世]]が嗣子をもうけることなく没したことにより、[[アールパード朝]]は断絶する。ハンガリー貴族はアールパード家の女系子孫から国王を迎えることにし、[[ボヘミア]]の[[プシェミスル家]]からヴェンツェル(のちに[[ヴァーツラフ3世]]としてボヘミア王に就き、ポーランド王も兼ねた)、[[バイエルン |
[[1301年]]に[[アンドラーシュ3世]]が嗣子をもうけることなく没したことにより、[[アールパード朝]]は断絶する。ハンガリー貴族はアールパード家の女系子孫から国王を迎えることにし、[[ボヘミア]]の[[プシェミスル家]]からヴェンツェル︵のちに[[ヴァーツラフ3世]]として[[ボヘミア王国|ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]]に就き、[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]]も兼ねた︶、[[バイエルン公国|バイエルン]]の[[ヴィッテルスバッハ家]]から[[バイエルン大公|下バイエルン公]][[オットー3世 (バイエルン公)|オットー3世]]が[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王位]]に就いたが、いずれも短期間の在位に終わった︵いずれも[[ベーラ4世]]の血を引いていた︶。
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[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]の[[ナポリ王国|ナポリ王]][[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]の長男[[カルロ・マルテッロ・ダンジョ|カルロ・マルテッロ]]はハンガリー王[[イシュトヴァーン5世]]の娘[[マリア・ドゥンゲリア|マーリア]]が母であり、1290年に叔父[[ラースロー4世]]が暗殺された後に自身の王位継承を主張してアンドラーシュ3世の即位を認めず、[[教皇]][[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]]の承認の下に名目上のハンガリー王を称していたが、すでに1295年に死去していた。しかしその息子カルロ・ロベルト(カーロイ・ローベルト)は、[[1308年]]に[[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]として即位することになった。これがハンガリー・アンジュー朝の始まりである。 |
[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]の[[ナポリ王国|ナポリ王]][[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]の長男[[カルロ・マルテッロ・ダンジョ|カルロ・マルテッロ]]はハンガリー王[[イシュトヴァーン5世]]の娘[[マリア・ドゥンゲリア|マーリア]]が母であり、1290年に叔父[[ラースロー4世]]が暗殺された後に自身の王位継承を主張してアンドラーシュ3世の即位を認めず、[[教皇]][[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]]の承認の下に名目上のハンガリー王を称していたが、すでに1295年に死去していた。しかしその息子カルロ・ロベルト(カーロイ・ローベルト)は、[[1308年]]に[[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]として即位することになった。これがハンガリー・アンジュー朝の始まりである。 |
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カーロイ1世の治世はハンガリーの再建にほとんど費やされた。即ち、金属の独占と通貨改革で国庫収入を安定させたのである。折からの銀山出高の増大が一層の拍車をかけた。 |
カーロイ1世の治世はハンガリーの再建にほとんど費やされた。即ち、金属の独占と通貨改革で国庫収入を安定させたのである。折からの銀山出高の増大が一層の拍車をかけた。 |
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カーロイ1世の守勢的な政策は対外政策にも表れた。[[ダルマチア]]を[[ヴェネツィア共和国]]に割譲し、[[ボスニア]]への支配を名目的なものに留めたからである。もっとも、カーロイ1世の対外政策は必ずしも守勢的ではなかった。膨張著しい[[ハプスブルク家]]に対抗するために、[[1335年]]にボヘミア王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]]と |
カーロイ1世の守勢的な政策は対外政策にも表れた。[[ダルマチア]]を[[ヴェネツィア共和国]]に割譲し、[[ボスニア]]への支配を名目的なものに留めたからである。もっとも、カーロイ1世の対外政策は必ずしも守勢的ではなかった。膨張著しい[[ハプスブルク家]]に対抗するために、[[1335年]]にボヘミア王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]]とポーランド王[[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世短身王]]を仲裁することによって、ハンガリー︵アンジュー家︶・ボヘミア︵[[ルクセンブルク家]]︶・[[ポーランド王国|ポーランド]]︵[[ピャスト家]]︶の3ヶ国連合を築こうとしたからである。これは婚姻政策にも現れており、カーロイ1世の最初の妃[[マリア・ビトムスカ|マリア]]はピャスト家の支族出身、2番目の妃[[ベアトリクス・フォン・ルクセンブルク|ベアトリクス]]はヨハンの妹、3番目の妃[[エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ|エルジュビェタ︵エルジェーベト︶]]はヴワディスワフ1世の娘であった。特に最後の結婚はハンガリー=ポーランド連合王国への道を開くものであった。
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===ラヨシュ大王の野望と挫折=== |
===ラヨシュ大王の野望と挫折=== |
2010年7月30日 (金) 13:24時点における版
歴史
アールパード朝の断絶とカーロイ・ローベルトの選出
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/22/Chronicon_Pictum_I_Karoly_Robert.jpg/150px-Chronicon_Pictum_I_Karoly_Robert.jpg)
ラヨシュ大王の野望と挫折
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/15/Ludwik_Wegierski.jpg/150px-Ludwik_Wegierski.jpg)
バルカン政策
元来、ハンガリーは13世紀以降からバルカン半島は自国の支配下にあると考えていたが、ラヨシュ1世はこれを実現しようとした。宿敵であったセルビア王ステファン・ドゥシャンの死がこれに拍車をかけた。ラヨシュ1世は数回にわたり、セルビア、ブルガリア、ボスニア、ワラキア、モルダヴィアに軍を進めた。遠征は数年にも及んだが、成果としては名目的な支配権を認めさせるに留まった。また、この時代にはオスマン帝国が勢力を膨張させつつあったが、1375年にこれを破っている。ナポリ・アドリア政策
ポーランドとの連合
ハンガリー・アンジュー家の断絶
ラヨシュ1世は1382年に死去し、王国は年長の娘マーリアが継承する。これに対して、ハンガリーとの連合を嫌うポーランド貴族は、マーリアの妹ヘドヴィグ︵ヤドヴィガ︶を女王として同君連合を解消する。他方、ハンガリー国内でもマーリアの即位を巡って貴族間で抗争が勃発する。これを好機と見たナポリ王カルロ3世はハンガリーに軍を進め、1385年にカーロイ2世として即位するが、翌1386年に暗殺された。その後いくつかの段階を経て、マーリアが許婚であるルクセンブルク家出身︵神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の子︶のジグモンド︵ジギスムント、後の神聖ローマ皇帝︶と共同でハンガリーを治めることになった。マーリアは夫との間に子をもうけることなく1395年に没し、ポーランドを相続した妹ヤドヴィガも夫との間に子をもうけることなく死去した。アンジュー家による東欧支配はこれによって終焉を迎えた。歴代君主一覧
- カーロイ1世(在位:1308年 - 1342年)
- ラヨシュ1世(大王)(在位:1342年 - 1382年、ポーランド王:1370年 - 1382年)
- マーリア(在位:1382年 - 1385年、1386年 - 1395年)
- カーロイ2世(在位:1385年 - 1386年、ナポリ王:1382年 - 1386年)