第二次ブルガリア帝国
- ブルガリア帝国
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歴史[編集]
第一次ブルガリア帝国滅亡後[編集]
1018年の第一次ブルガリア帝国の滅亡後、ブルガリアは東ローマ帝国領となった。東ローマの支配下に置かれたブルガリアではテマ制︵軍管区制︶が実施され、東ローマに従属するブルガリアの貴族と高位聖職者は特権を保証された[1]。しかし、第一次ブルガリア帝国を滅ぼした東ローマ皇帝バシレイオス2世が没し、彼の後継者たちの時代になるとブルガリアには圧政が敷かれるようになる[2]。ブルガリア内の正教徒を管轄するオフリド総主教座は大主教座に降格されて[3]その地位にはギリシャ人が就くようになり、ブルガリア人の中から総主教を選ぶことができなくなった︵ブルガリア正教会#オフリド大主教区も参照︶[4]。 1040年にミカエル4世の治下で実施された財政改革によってブルガリアの農民に金銭での納税が課され、ブルガリアの農民の生活はより圧迫された[2]。同じ時期にブルガリアではテマ制に代わって疑似封建的な土地制度であるプロノイア制が導入され、農民は領主の搾取にも苦しめられる[4]。1040年にマケドニア地方でブルガリア皇帝サムイルの孫ペタル・デリャンが指導する民衆蜂起が勃発し︵ペタル・デリャンの蜂起︶、指導者のデリャンはブルガリア帝国の再建を掲げた。デリャンの反乱は傭兵の助けを借りた東ローマ軍によって鎮圧されたがその後もブルガリアでは反東ローマの蜂起が頻発し、その背景には社会不安が存在していた[5]。アセンとペタルの蜂起、ブルガリア帝国の再建[編集]
アセン兄弟の暗殺[編集]
1189年に第3回十字軍が行われると、ブルガリアは東ローマと敵対する神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に同盟の締結を提案した。同盟の条件としてブルガリアが奪回した領土の保持と皇帝の称号の許可と引き換えに、神聖ローマ帝国に40,000人の援軍の提供を申し出るが、フリードリヒ1世からの回答は得られなかった[13]。フリードリヒ1世が東ローマ領を通過した後、1190年の夏に東ローマ軍はブルガリアの首都タルノヴォに遠征を行う。天然の要害に位置する堅牢な城壁を持つタルノヴォは東ローマ軍の包囲に耐え、クマン人がブルガリアの援軍として到着した噂が広まると東ローマ軍は撤退した。追撃に出たブルガリア軍はトリャヴナでイサキオス2世が率いる東ローマ軍に大勝し、ビザンツ皇帝の象徴である帝冠、笏、衣装を手に入れた︵トリャヴナの戦い︶[14]。同年にペタルは弟のアセンに帝位を譲り、自身はプレスラフを中心とするブルガリア北東部とドブルジャ地方を統治した[14]。 ブルガリアの軍事活動はバルカン山脈南部の東ローマ領に達し、1193年にブルガリアはスレデツを回復した[14]。また、ブルガリアは北方のハンガリー王国との戦いでも勝利を収め、長らくハンガリーの支配下に置かれていたベオグラードとブラニチェヴォを奪還した。 しかし、中央集権的な政策を採るアセン1世の元で、東ローマからの独立運動中から見られた貴族の反抗がより顕著になり[14]、1196年に宮廷内のクーデターによってアセン1世は暗殺される。陰謀の首謀者であるアセン1世の従兄弟イヴァンコはクーデターを教唆した東ローマに援助を求めるが、東ローマから派遣された軍隊は行軍中に反乱を起こしてブルガリアに入ることを拒んだ[14][15]。プレスラフを統治していたペタルは支持者から軍隊を集めてイヴァンコを東ローマに追放し、皇帝に復位した。だが、ペタルも貴族の反抗を抑えることができず、1197年に暗殺される[14]。 空位となった皇帝の座には、コンスタンティノープルから逃亡してブルガリアに帰国していたアセン兄弟の末弟カロヤンが就いた[14]。カロヤン・ヨアニッツァの時代[編集]
兄たちの跡を継いで皇帝に即位したカロヤンは、かつてのシメオン1世と同様にビザンツ帝国を見本とした国家を作るために積極的な外交政策を推し進める[16][17]。 カロヤンは国内の貴族層に厳格な処置を下して政権を固め、独立状態にあったマケドニアとロドピのブルガリア人支配者、亡命先のビザンツで統治官に任命されていたイヴァンコ[15]と同盟を結ぶことに成功する[18]。1201年に北ブルガリアに残る最後のビザンツ領であるヴァルナがブルガリアの占領下に入り、翌1202年にブルガリアと東ローマ帝国の間に和約が締結され、ブルガリアが占領した地域の獲得が正式に承認された[18]。また、1203年に一時期ハンガリーに再占領されたベオグラードとブラニチェヴォを奪還し[18]、帝国の北部からハンガリー人を放逐した[16]。 カロヤンはブルガリア正教会の独立を回復するためにローマ教会との関係を強化し[17]、1199年からブルガリアとローマ教会の交渉が開始された[19]。1202年から交渉は活性化し、1204年秋にローマ教皇からの使節がタルノヴォを訪問した。カロヤンはローマの使節である枢機卿レオからブルガリアの﹁王﹂に戴冠されるが、カロヤンは皇帝の称号が授与されたとみなして﹁ブルガリア人とワラキア人の皇帝﹂を自称した[17][19][20]。同年にブルガリアがローマ教会の権威を認める協定が結ばれ、建国時から続いていたハンガリーとの戦争が終息する[20]。協定の締結後にブルガリア正教会がローマ教会からの干渉を受けることはほとんどなく[21]、ブルガリア正教会は実質的には東方正教会に属していた[15][20]。 1204年に西欧から派遣された第四回十字軍によってコンスタンティノープルが征服され、ラテン帝国が建国される。ラテン帝国の初代皇帝ボードゥアン1世は、ブルガリア人は隷属民であると宣言し[16]、ブルガリア侵略の意思を顕わにした[19][22]。ローマ教皇インノケンティウス3世はブルガリアとラテン帝国の対立を解消しようとするが、教皇の試みは失敗に終わる[23]。ラテン帝国軍はトラキアの北部、東部に侵入し、トラキアに避難していた東ローマ貴族は東ローマ帝国の帝位を条件にブルガリアに保護を求めた[23][24]。要請に応えたブルガリアは東トラキアの住民反乱を扇動し、またフィリッポポリス︵現在のプロヴディフ︶とアドリアノープル︵現在のエディルネ︶を占領した[23]。 翌1205年4月14日[23]にカロヤンはアドリアノープル︵現在のエディルネ︶付近の戦いでラテン帝国軍に大勝を収め、ラテン皇帝ボードゥアン1世を捕らえて処刑した[25]。しかし、ブルガリアの軍事的成功はトラキアの東ローマ貴族に不安を与え、彼らはブルガリアとの同盟を解消してラテン帝国の側に付いた[23]。カロヤンは裏切りの報復として東トラキアを破壊・略奪し、征服地の住民をドナウ川沿岸部に移住させた[23]。カロヤンはかつて﹁ブルガリア人殺し﹂と呼ばれたバシレイオス2世のように﹁ローマ人殺し﹂の渾名で呼ばれるようになる[23]。 カロヤンは1207年までに第一次ブルガリア帝国が領有していたマケドニア地方の大部分を再征服するが、同年のテッサロニキ包囲中に部下の裏切りによって急死する[16][23][26]。カロヤンの死後、暗殺の首謀者であるカロヤンの甥ボリルが帝位を簒奪し、帝位の継承権を有していたアセン1世の子イヴァン・アセン︵後のイヴァン・アセン2世︶とアレクサンダルの兄弟はルーシのガリツィア公国に亡命した[27]。 ボリルの即位後、ブルガリアの封建貴族は再び自立性を強め、ロドピ、中部マケドニアの地方領主は中央から独立した統治を行い独自に外国と同盟した[23][28]。即位当初ボリルはカロヤンと同じく反ラテン帝国路線を取るが、1214年にブルガリアはローマ教会の介入によってラテン帝国とハンガリー王国の二国と和平を結んだ[29]。一方、ブルガリア国内では貴族層と民衆の両方がボリルの統治に不満を抱くようになり、ヴィディンではボリルに対する反乱が発生した。 1217年にイヴァン・アセン2世は傭兵を率いてブルガリアに帰国し、ボリルに戦いを挑んだ。7か月に及ぶ包囲の後に市民が城門を開いてイヴァン・アセン2世を迎え入れ[30]、1218年春にイヴァン・アセン2世はボリルを廃位して帝位に就いた。最盛期[編集]
モンゴルの襲来[編集]
農民皇帝の即位[編集]
13世紀半ばから続く混乱期には民衆の反乱が頻発するが、1277年に起きたドブルジャの豚飼いイヴァイロ︵在位‥1277年–1280年︶の蜂起︵イヴァイロの蜂起︶は皇帝軍とジョチ・ウルスの双方に大きな打撃を与えた[47]。イヴァイロの蜂起にはモンゴルの略奪に不満を抱いた農民が多く参加し、蜂起は支配者に対する反封建的な性質と、権威を失った皇帝に対して﹁正しい皇帝像﹂の復興を求める性質が併存していた[46]。 1277年に﹁神の啓示を受けた﹂豚飼いイヴァイロは仲間や農民に困窮から脱出する道を説いて回り、イヴァイロの周りに集まった義勇兵はモンゴル軍を破り、彼らをドナウ川の北方に後退させた。この戦勝がきっかけとなって、皇帝に失望していた農民たちがよりイヴァイロの元に集まるようになる[46]。同年秋にイヴァイロはタルノヴォに向かい、進軍中に民衆から皇帝に推戴された。義勇軍は進軍中の会戦で皇帝コンスタンティン・ティフを敗死させ、1278年にタルノヴォを包囲する。イヴァイロの蜂起に対して東ローマ皇帝ミカエル8世は当初イヴァイロへの接近を試みるが蜂起が階級闘争的な性質を持ち合わせていることを知ると翻意し[48]、ギリシャ文化に同化したアセン家の皇族イヴァン・アセン3世︵在位‥1279年–1280年︶をブルガリア皇帝に擁立する[49]。ミカエル8世はイヴァン・アセン3世に軍隊を付けてブルガリアに送り返した。東ローマ軍の接近を知ったイヴァイロはタルノヴォの政府と講和し[50]、未亡人となっていた皇妃マリアと結婚してヨーロッパ初の農民皇帝として帝位に就いた[48][51]。 皇帝に即位したイヴァイロは南から進軍する東ローマ軍と北のモンゴル軍の両方と戦わなければならず、迎撃に出たイヴァイロがタルノヴォを留守にしている間にクマン人の血を引くゲオルギ・テルテル[52]らタルノヴォの貴族がクーデターを起こし、イヴァン・アセン3世をタルノヴォに迎え入れた[53]。東ローマの包囲を破ったイヴァイロはタルノヴォに戻り、イヴァン・アセン3世はコンスタンティノープルに逃亡した。しかし、イヴァン・アセン3世の失脚後にゲオルギ・テルテルがタルノヴォの貴族によって皇帝に推戴された。イヴァイロとゲオルギ・テルテルの戦いはおよそ1年の間続くが厭戦気分の高まるイヴァイロの軍は次第に劣勢になり、1280年にイヴァイロは皇帝の地位を失った[46][53]。失脚したイヴァイロはジョチ・ウルスに亡命するが、宴席の座でジョチ・ウルスの有力者ノガイによって殺害された[53]。テルテル家の統治[編集]
ゲオルギ1世テルテル即位後のブルガリアには半独立状態の封建領主が乱立していた。 ●ブラニチェヴォ - ダルマンとクデリンの兄弟 ●ヴィディン - シシュマン ●バルカン山脈山麓部とスレドナ・ゴラ山脈 - スミレツ、ラドスラフ、ヴォイシルの3兄弟 ●クラン (ブルガリア)︵クルン︶ - エルティミル 1285年にジョチ・ウルスがブルガリアで大規模な破壊を行うとゲオルギ1世はノガイに従属を誓い、息子のテオドル・スヴェトスラフ を人質に差し出し、娘をノガイの子チャカに嫁がせた[54]。1292年に政争に敗れたゲオルギ1世は東ローマ帝国に亡命し[54][55]、ノガイはスレドナ・ゴラのスミレツをブルガリア皇帝に擁立して自分の傀儡とした。スミレツの治世にブルガリアの領土の一部がセルビアに併合されてヴィディンが攻撃を受けるが、積極的な対応は行われなかった[54]。 1299年にジョチ・ウルスの内戦によってノガイが戦死した後、ノガイの子チャカがテオドル・スヴェトスラフに伴われてブルガリアに亡命する。タルノヴォの貴族たちに賄賂を贈ったチャカはブルガリア皇帝に選出されるが、1300年にテオドルはチャカを殺害し、彼の首をトクタ・ハンの元に届けた。その対価として、ジョチ・ウルスからブルガリアにベッサラビア地方が返還された[56]。 モンゴルの支配から脱した[57]テオドル・スヴェトスラフは敵対する貴族と高位聖職者への牽制として、以前から他国に内通している疑いがかけられていたタルノヴォの総主教ヨアキム3世に極刑を下した[58]。テオドルは即位から3年の間に東ローマ帝国からの内政干渉を絶ち、また貴族の反抗を抑えて中央集権化に成功する。テオドルは長年ブルガリアに干渉を行ってきた東ローマに対して攻勢に転じ[56][59]、東ローマによって占領された北トラキア、ザゴラ、黒海沿岸部の都市がブルガリアの元に戻った。1308年に東ローマとの間に結ばれた和約で、ブルガリアが奪還した地域の支配が認められる。セルビアとの関係は反東ローマ政策によって改善され、1321年に東ローマで帝位を巡る内戦が起きた際には、ブルガリアは内戦の当事者の一方であるアンドロニコス3世に加担して領土の拡大を図った[60]。 1321年にテオドル・スヴェトスラフが没すると、テオドルの子のゲオルギ2世テルテルが帝位を継ぐ。ゲオルギ2世は内戦で分裂した東ローマに進攻し、フィリッポポリスなどの都市を奪回した。ゲオルギ2世の軍はアドリアノープルにまで南下するが、行軍の途上でゲオルギ2世は急死する。フィリッポポリスは東ローマに再占領され、指導者を失ったブルガリアは危機に陥る[60][61]。シシュマン家の皇帝[編集]
1323年にヴィディンのデスポット︵封建領主︶・ミハイル・シシュマンが貴族に推戴されて帝位に就く。新たな皇帝に選出されたミハイル3世は、北トラキア、ザゴラ、黒海沿岸部に侵入した東ローマの軍を撃退し[60]、1324年にブルガリアと東ローマの間で結ばれた和約でこれらの地域を回復した[61][62]。往時のブルガリアの勢力を回復するため、ミハイル3世は東ローマ帝位を巡って争うアンドロニコス3世とその父のアンドロニコス2世の両方に支援を行い、1327年にはコンスタンティノープルの占領を企てたが計画は失敗に終わった[60]。1328年に内戦を制したアンドロニコス3世が正式に帝位に就くと、ブルガリアの失地回復の可能性は絶たれた[60][61]。 しばらくの間ブルガリアと東ローマの戦争は続くが、マケドニアで勢力を拡大するセルビアに対抗するため、1329年に両国の間に同盟が結ばれた[60][61][62]。東ローマと同盟を結んだミハイルはセルビアに進攻するが、1330年にヴェルブジュドの戦いでブルガリア軍はステファン・ウロシュ3世デチャンスキが率いるセルビア軍に大敗し、ミハイル3世は戦死した[51]。戦後セルビア王家の血を引く皇子イヴァン・ステファンのブルガリア皇帝即位を条件として、ブルガリアとセルビアの間に和平が結ばれた。一方、ブルガリアの敗北を知ったアンドロニコス3世は同盟を破棄して南ブルガリアに進軍し、ソゾポリス︵現在のソゾポル︶、メセンブリア︵現在のネセバル︶などの黒海沿岸部の都市を占領下に置いた。 新たに即位したイヴァン・ステファンには政務の経験が無く、また多くの貴族はイヴァン・ステファンをセルビア側の人間とみなしていた[63]。1331年にタルノヴォの貴族ラクシンとフィリップのクーデターによってイヴァン・ステファンは廃され、ミハイル・シシュマンの甥であるロヴェチのデスポット・イヴァン・アレクサンダル[注 2]が皇帝に選出される。最後の安定期[編集]
タルノヴォの陥落[編集]
オスマン帝国のブルガリア支配へ[編集]
1395年のロヴィネの戦いの後、オスマンは自国への非協力を理由にイヴァン・シシュマンとブルガリア各地のデスポットを攻撃し、彼らの領土を併合した[80]。イヴァン・シシュマンが投獄された後も[81]イヴァン・スラツィミルが統治するヴィディンはオスマンに忠誠を誓って独立を維持し、ヴィディンはブルガリアの中で唯一独立を保つ勢力となった[80]。 1396年にハンガリー王ジギスムントがニコポリス十字軍を提唱すると、イヴァン・スラツィミルはオスマンへの臣従を破棄して十字軍に参加した[80]。1396年9月25日のニコポリスの戦いでオスマン軍が勝利した後、ヴィディンはオスマン帝国に併合される。イヴァン・スラツィミルはアナトリアに連れ去られ[81]、中世ブルガリアの国家はすべて消滅した[80]。社会[編集]
第二次ブルガリア帝国は、皇帝を頂点とする封建国家だった。社会的構造、行政組織、経済は東ローマ帝国、封建制度に含まれる要素は同時期の西欧の国家と類似する点が多いことが指摘される[82]。行政[編集]
帝位は長子、兄弟、近親者によって継承され、皇統が断絶したときには大貴族から新皇帝が選出された[82]。 皇帝に次ぐ地位にはデスポット・セヴァストクラトルの称号を持つ大貴族が位置していた[83][注 4]。地方と中央の高官と宮廷の大臣職は、大貴族によって占有されていた[83]。宮廷の官職には皇帝を補佐する大ロゴテット、財務を担当するプロトヴェスティアリイ、宮廷儀礼を司る大プリミキュルなどが存在していた。軍事には皇帝の部隊を直接指揮するプロトストラトル、近衛隊を指揮するプロトケリオトなどの称号を持つ指揮官が携わっていた。 国内の軍事と行政はホラという地方単位で区分され、セヴァスト、ドゥカ、ケファリアの称号を持つ総督によって統治され、ドゥカとケファリアは都市を統治した。ブルガリア内に多数存在する農村共同体には多くの人間が属しており[84]、一定の自治を持った共同体は住民が選出した指導者︵クニャズ︶によってまとめられていた[82]。イヴァン・アセン2世時代のホラは、以下の12地域に区分されていた[83]。 ●ベオグラード ●ブラニチェヴォ ●タルノヴォ ●カルボナ ●クラン (ブルガリア) ●ボロウィ ●アドリアノープル ●スコピエ ●デヴォル ●セルディカ ●プリレプ ●アルバナシブルガリアの封建化[編集]
13世紀から14世紀にかけて、東ローマ支配時代から続くブルガリアの封建化が進行した[51]。中央権力の衰退に伴って、力を付けた地方領主は農民などの従属民からの搾取を行い、また土地や財産の寄進を受けた教会や修道院が大封建勢力へと化していった[85]。このため、第二次ブルガリア帝国は多数の村を有する聖俗の封建勢力と農奴とされた農民が併存する状態になっていた[85]。封建領主は都市にも介入し、都市部の商人や職人も封建領主から圧迫を受けた[85]。 ブルガリア内の土地の所有形態は皇帝領、封建領主領、教会領、修道院領に四分される[86]。皇帝領と封建領主領は、一定の範囲内に領地が集まっていた。逆に教会領と修道院領の場合、一つの寺院が所有する土地は国中に分散しており、支配地には住宅、耕作地、水車などの様々な施設が含まれていた[86]。当時広範囲にわたる土地の所有を認められていた修道院には、アトス山のヒランダル修道院、リラ修道院、バチコヴォ修道院などが挙げられる[86]。 封建勢力が従属民に課した税には労働︵賦役︶と物品の納付のほか、時代が進むにつれて貨幣の納付が加わった[87]。牧草地、水車などの農畜・漁業に必要な道具の使用賃として、農民は生産品を領主に納付しなければならなかった[88]。また、収穫品の10分の1を徴収するデセトカル、金貨による特別税を徴収するペルピラキなどの、新たな官職が徴税のために設けられた。社会階級[編集]
当時のブルガリア社会は、封建勢力と農民を初めとする従属民の2つに分化していた[88]。中間層には都市の商人と職人、下位の聖職者と修道士、官吏と兵士が位置しており、少数の奴隷も存在していた[84]。封建勢力は皇帝と貴族ら世俗の権力者と、上位の聖職者が占める教会貴族に分かれ[88]、下位の階級の中から封建勢力に加わる者もいた[84]。 また、第二次ブルガリア帝国期には人口の多数を占める[89]農民の農奴化、封建勢力の大土地所有が進行していた[90]。皇帝、領主の支配下に置かれた農奴は﹁パリツィ﹂、教会勢力の支配下に置かれた農奴は﹁ポポヴャニン﹂と呼ばれた。彼らは耕作用の土地の所有、封建所領内での土地の相続・売却・贈与は認められていたが、土地を離れて別の場所に移ることは認められていなかった[84][88]。土地を持たず、封建領主から土地を奪われた農奴は﹁オトロク︵オトロツィ︶﹂と呼ばれ、他の農奴よりも厳しい環境に置かれていた[84][88]。さらにオトロクより低い層の農奴として、土地と生産手段を有していない﹁ラタイ﹂という小作農がおり、彼らは労働と引き換えに領主から報酬を受け取っていた[88]。 14世紀になると封建領主の自立化、貴族間の内訌、他国の侵入によって民衆が置かれた状況はより悪化する[91]。オスマン帝国のブルガリアへの侵入に伴って、バルカン山脈以北の土地に移住する者も現れた。社会的不安に対して民衆は異端とされる教義の布教、封建領主からの逃亡といった手段を取り、修道士となる下層階級の人間が増加した[92]。また、土地や財産を失った民衆にはドゥルジナ︵匪賊︶となる者もおり、彼らは封建勢力の領地を襲撃することもあった[85]。経済[編集]
農業[編集]
前時代と同様に第二次ブルガリア帝国の産業は農業と畜産が中心であり[89]、依然として二圃式農業が続けられていた[93]。小麦、大麦、雑穀が広い範囲で栽培され、13世紀以降は野菜、果実、ブドウの重要性が増す[94]。家畜としては、主にヒツジ、ブタ、ウシが飼われていた[95]。農業技術の発展に伴って、機械仕掛けの水車小屋と風車小屋が広い範囲で導入され[93]、14世紀には養蜂と養蚕の技術に向上が見られた[96]。 当時のブルガリアの特産品として、穀物、養蜂の産物︵蜂蜜、蜜蝋︶、絹製品、革製品が挙げられる[93]。中でもブルガリアからコンスタンティノープル、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどに輸出された小麦の品質は高い評価を受けていた[89]。産業[編集]
製造業の分野においても著しい発展が見られた。都市の増加と都市民の需要の拡大、農商業と軍事技術の発達が製造業の発達を促し、精錬業と鋳造業の発達は他の分野にも好影響を与えた[93]。中でも製陶、石材製作、金属加工、仕立が目覚ましい発達を遂げる[93][89]。 都市や大規模な村落に居住する職人は、﹁テフニタリ﹂と呼ばれる独自の階層を形成した。また、13世紀から14世紀にかけて北西ブルガリアに移住したドイツ系移民は鉱業において大きな役割を果たし、彼らは﹁サシ﹂と呼ばれた[93]。交易[編集]
ブルガリアの領土拡大に伴って経済も成長し、皇帝と封建貴族は自らの懐を潤す輸出を奨励した。また、内外の貿易の活発化は貨幣の流通を促進する[31]。 イヴァン・アセン2世時代のブルガリアは外国との通商関係を強化し、タルノヴォは南東ヨーロッパの経済の中心地に成長した[31]。交易の活性化に伴い、ブルガリア独自の貨幣以外に東ローマ、セルビア、ヴェネツィア、モンゴルなどの貨幣も国内で流通した[93]。 当時のブルガリアの商取引の中心は、祭に伴って開かれる縁日と定期市だった。また、都市では常設の市場が置かれ、一部の村落や修道院でも週ごとに市が開かれた。皇帝と封建勢力は交易に﹁クメルク﹂などの商業税と物品の納入を課していたが、一部の修道院は免税特権を受けていた[86][93]。 外国との貿易は条約の締結と皇帝の勅書によって統制されていた[97]。対外貿易におけるビザンツ帝国の地位は第一次ブルガリア帝国時代よりも低下し、ジェノヴァ共和国、ヴェネツィア共和国、ドゥブロヴニクが台頭する[98][86]。テオドル・スヴェトスラフの時代にブルガリアがジョチ・ウルスの影響下から脱すると、通商関係に変化が起きる[56][60]。テオドル治下のブルガリアと関係の悪化したジェノヴァ共和国に代わる相手として、ヴェネツィア共和国との政治、経済両方の結びつきが強化された[56]。 13世紀は外国の商人に関税は課されていなかったが、14世紀になると彼らにも規制が課せられる。 ●輸出品[84] - 小麦、大麦、ライ麦、金、銀、革製品、蜂蜜、蜜蝋 ●輸入品[84] - 布、石鹸、香辛料、武器、オリーブ油、塩、鉄製品、奢侈品宗教[編集]
異端の教義[編集]
第二次ブルガリア帝国内では異端と見做される教義も信仰されていた。 第一次ブルガリア帝国の時代からブルガリア内で活動していたボゴミル派は、ブルガリアが内訌によって混乱する12世紀の末から信者を増加させた[38]。ボリルの統治下では皇帝の治世に不満を持つ民衆の間にボゴミル派が流布したため、1211年2月にタルノヴォの議会はボゴミル派に異端宣告を行って彼らを迫害した[29]。しかし、ブルガリア社会に定着したボゴミル派を根絶することは不可能だった[30]。政情が安定したイヴァン・アセン2世の治世にボゴミル派への迫害は緩和される[38]。14世紀に入るとボゴミル派の信仰者は一部の修道士や都市の下層民に変化し、様々な分派が生まれた[99]。 民衆に流布する異端に対して、貴族層は14世紀半ばに東ローマで提唱された静寂主義︵ヘシカスム︶の教えを受け入れた[100]。静寂主義は正教会の教えと調和する点もあったために正教の教義に組み入れられ、また支配層と密接な関係を有していた[100]。静寂主義は異端、腐敗した聖職者、ローマ教会との合同に対する批判手段として機能し[99]、文学と芸術の発展にも貢献した[100]。 静寂主義の普及と同じ時期に、コンスタンティノープル出身の修道士・医師のテオドレトスはタルノヴォにバルラーム主義をもたらした。カラブリア出身の修道士バルラームが提唱したバルラーム主義は、ギリシア哲学の流れを汲む合理性を備えていた。バルラーム主義は都市の下層民には受け入れられず、富裕層と一部の貴族に支持者を得る[100]。都市部のユダヤ系住民の間で信仰されたユダヤ主義は、バルラーム主義と類似した合理主義性を有していた[99]。 1355年と1360年にタルノヴォで開かれた宗教会議では、既成の権力と対立する思想に異端の宣告がされた[101]。14世紀に開かれた2度の宗教会議では、変質したボゴミル派以外にバルラーム主義とユダヤ派に対しても弾圧が加えられた。教育の場としての教会[編集]
第二次ブルガリア帝国期、教会は教育の場としての役割も有していた。修道院の付属校と大都市に存在する教会付属の学校では、聖職者と書記官の育成を目的として若年者への読み書きの教育が行われていた[102][103]。学校を卒業した生徒のうち数人は修道院に入って﹁グラマティク﹂の称号を得、修道院が所蔵する書物の講読と書写によって学識を深めると共に教師の資格を得た[102][104]。さらにタルノヴォ、アトス山の修道院、コンスタンティノープルで教育を受ける者もおり、当時のブルガリアで実施された教育は高い水準にあった[102]。現存する第二次ブルガリア帝国の写本に見られる洗練された書法と正書法は、当時行われていた教育の賜物だった[104]。文化[編集]
文学[編集]
美術[編集]
建築[編集]
音楽[編集]
この時代のブルガリアでは規範化された東方正教会の聖歌に対して、民俗的な教会旋律であるブルガリア唱法が確立される[102][116]。 代表的な作曲家・歌手として、ヨアン・ククゼル︵1280年 - 1360年︶が挙げられる[102]。ククゼルは教会音楽に民族音楽の要素を取り入れ、ブルガリアとビザンツの教会音楽に変革をもたらした[116][117]。年表[編集]
●1185年 - アセンとペタルの蜂起 ●1187年 - 東ローマ帝国がブルガリアの独立を承認 ●1204年 - ブルガリア正教会とローマ教会の教会合同 ●1205年 - アドリアノープル︵現在のエディルネ︶近郊の戦いでラテン帝国軍に勝利 ●1207年 - 皇帝カロヤンの暗殺 ●1218年 - イヴァン・アセン2世の即位。第二次ブルガリア帝国の最盛期へ ●1230年 - クロコトニッツァの戦いでエピロス専制侯国に勝利 ●1242年 - モンゴル帝国の侵入、ブルガリアの従属国化 ●1277年 - イヴァイロの蜂起 ●1280年 - アセン家に代わり、大貴族テルテル家のゲオルギ1世テルテルがブルガリア皇帝に即位 ●1300年 - ジョチ・ウルスの王族チャカがブルガリア皇帝から廃され、ゲオルギ1世テルテルの子テオドル・スヴェトスラフが即位 ●1323年 - テルテル家に代わり、ヴィディンのデスポット︵領主︶シシュマン家のミハイル3世シシュマンがブルガリア皇帝に即位 ●1330年 - ヴェルブジュドの戦いでセルビア王国に敗北 ●1355年︵もしくは1356年︶ - 皇帝イヴァン・アレクサンダルの皇子イヴァン・スラツィミルがヴィディンの統治者に封じられる ●1371年 - マリツァの戦いでデスポットの連合軍がオスマン帝国に敗北 ●1389年 - コソボの戦い ●1393年7月17日 - 首都タルノヴォの陥落 ●1395年 - イヴァン・シシュマンの廃位 ●1396年 - オスマン帝国がヴィディンを併合歴代君主[編集]
画像 | 名前 | ブルガリア語表記 | 在位期間 |
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アセン家 | |||
ペタル4世 | Петър IV- Теодор | 1185年 - 1190年 | |
イヴァン・アセン1世 | Иван Асен I | 1190年 - 1196年 | |
ペタル4世 | Петър IV- Теодор | 1196年 - 1197年(復位) | |
カロヤン | Калоян | 1197年 - 1207年 | |
ボリル | Борил | 1207年 - 1218年 | |
イヴァン・アセン2世 | Иван Асен II | 1218年 - 1241年 | |
カリマン1世(コロマン1世) | Калиман Асен I | 1241年 - 1246年 | |
ミハイル・アセン | Михаил II Асен | 1246年 - 1256年 | |
カリマン2世(コロマン2世) | Калиман Асен II | 1256年 | |
コンスタンティン・ティフ | Константин I Тих Асен | 1257年 - 1277年 | |
反乱者 | |||
イヴァイロ | Ивайло | 1278年 - 1279年 | |
アセン家 | |||
イヴァン・アセン3世 | Иван Асен III | 1279年 - 1280年 | |
テルテル家 | |||
ゲオルギ1世テルテル | Георги I Тертер | 1280年 - 1292年 | |
モンゴルの傀儡君主 | |||
スミレツ | Смилец | 1292年 - 1298年 | |
チャカ | Чака | 1299年 - 1300年 | |
テルテル家 | |||
テオドル・スヴェトスラフ | Теодор Светослав | 1300年 - 1322年 | |
ゲオルギ2世テルテル | Георги II Тертер | 1322年 - 1323年 | |
シシュマン家 | |||
ミハイル3世シシュマン | Михаил III Шишман Асен | 1323年 - 1330年 | |
イヴァン・ステファン | Иван Стефан | 1330年 - 1331年 | |
イヴァン・アレクサンダル | Иван Александър Асен | 1331年 - 1371年 | |
イヴァン・シシュマン | Иван Шишман | 1371年 - 1393年 |
各王家の関係図[編集]
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| カロヤン・アセン |
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| アンナ・マリーア (ハンガリー王アンドラーシュ2世娘) |
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| イヴァン・アセン2世 |
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| イレネ (エピロス専制公テオドロス1世娘) |
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| アレクサンデル |
| マーリア =ラテン皇帝アンリ |
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ヘレナ =ニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリス |
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| カリマン1世 |
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| アンナ・テオドラ |
| ペタル セヴァストクラトル |
| マーリア |
| ミツォ・アセン |
| ミハイル2世・アセン |
| カリマン2世 |
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イレネ |
| コンスタンティン・ティフ |
| マリア (皇帝ミカエル8世姪) |
| イヴァイロ |
| 娘 |
| シシュマン ヴィディンのデスポト |
| イヴァン・アセン3世 |
| イレネ (皇帝ミカエル8世娘) |
| ゲオルギ1世テルテル |
| キラ・マリーア |
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| テオドル・スヴェトスラフ |
| チャカ |
| エレナ |
| アンナ |
| ステファン・ウロシュ2世 セルビア王 |
| スミレツ |
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| ミハイル3世シシュマン |
| アンナ・ネダ |
| キラツァ |
| ゲオルギ2世テルテル |
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| ステファン・ウロシュ3世 セルビア王 |
| テオドラ |
| イヴァン2世 |
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| イヴァン・ステファン |
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| ヘレナ |
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| ステファン・ウロシュ4世 セルビア王 |
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| イヴァン・スラツィミル |
| イヴァン・シシュマン |
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| ステファン・ウロシュ5世 セルビア王 |
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| コンスタンティン2世 |
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脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
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- ^ a b 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、85頁
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- ^ a b 井上、栗生沢『ビザンツとスラヴ』、321頁
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- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、758頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、764頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、98頁
- ^ a b ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、97頁
- ^ a b c d 寺島「イバイロの蜂起」『東欧を知る事典』、32-33頁
- ^ 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、90-91頁
- ^ a b ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、99頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、789頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、127頁
- ^ a b c 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、91頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、790頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、100頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、102頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、129頁
- ^ a b c d 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、130頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、801頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、103頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、103-104頁
- ^ a b c d e f g ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、104頁
- ^ a b c d 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、131頁
- ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、814頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、105頁
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- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、105頁
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- ^ a b 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、134頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、132-133頁
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参考文献[編集]
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- 金原保夫「中世のバルカン」『バルカン史』収録(柴宜弘編, 世界各国史, 山川出版社, 1998年10月)
- 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)
- 寺島憲治「アセン兄弟の蜂起」『東欧を知る事典』収録、9頁(平凡社, 2001年3月)
- 寺島憲治「イバイロの蜂起」『東欧を知る事典』収録、32-33頁(平凡社, 2001年3月)
- 森安達也、今井淳子共訳編『ブルガリア 風土と歴史』(恒文社, 1981年)
- R.J.クランプトン『ブルガリアの歴史』(ケンブリッジ版世界各国史, 創土社, 2004年2月)
- I.ディミトロフ、M.イスーソフ、I.ショポフ『ブルガリア 1』(寺島憲治訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1985年8月)
- 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 (近藤出版社, 1982年)
- Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little,Brown & Company, 1981.