「ヘンリー・ハーディング (初代ハーディング子爵)」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m {{Reflist}}の文字がつぶれて見づらい |
|||
146行目: | 146行目: | ||
[[Category:イギリスの枢密顧問官]] |
[[Category:イギリスの枢密顧問官]] |
||
[[Category:バス勲章]] |
[[Category:バス勲章]] |
||
[[Category:ナポレオン戦争]] |
[[Category:ナポレオン戦争の人物]] |
||
[[Category:隻腕の人物]] |
[[Category:隻腕の人物]] |
||
[[Category:カウンティ・ダラム出身の人物]] |
[[Category:カウンティ・ダラム出身の人物]] |
2017年10月18日 (水) 14:12時点における版
初代ハーディング子爵 ヘンリー・ハーディング Henry Hardinge | |
---|---|
![]() | |
生年月日 | 1785年3月30日 |
没年月日 | 1856年9月24日(71歳没) |
前職 | 陸軍軍人 |
所属政党 | トーリー党(保守党) |
称号 | 初代ハーディング子爵、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、枢密顧問官(PC)、アイルランド枢密顧問官(PC (Ire))、元帥 |
配偶者 | エミリー(旧姓ステュアート) |
親族 |
第2代ハーディング子爵(長男) 初代ハーディング男爵(孫) |
在任期間 | 1844年7月23日 - 1848年1月12日[1] |
女王 | ヴィクトリア |
| |
選挙区 |
ダーラム選挙区 セント・ジャーマンズ選挙区 ニューポート選挙区 ローンセストン選挙区 |
在任期間 |
1820年3月8日 - 1830年8月5日 1830年7月31日 - 1830年12月17日 1830年12月17日 - 1832年12月10日 1832年12月10日 - 1844年5月6日[2] |
| |
在任期間 | 1846年 - 1856年[2] |
初代ハーディング子爵ヘンリー・ハーディング元帥︵英: Field Marshal Henry Hardinge, 1st Viscount Hardinge, GCB, PC, PC (Ire)、1785年3月30日 - 1856年9月24日は、イギリスの軍人、政治家、貴族。
陸軍軍人としてナポレオン戦争に従軍した後、トーリー党︵保守党︶所属の政治家となり、同党政権下で閣僚職を歴任した。1844年から1848年にかけてはインド総督を務め、第一次シク戦争を指揮して勝利し、ペシャワールやカシミールを獲得した。
経歴
生い立ち
1785年3月30日、スタンホープ教区牧師であるヘンリー・ハーディングの息子として生まれる[3][4]。母はその夫人フランセス︵旧姓ベスト︶[4]。軍歴
1799年7月23日、少尉として陸軍クイーンズ・レンジャーズに入隊[5]。1802年3月に第4歩兵連隊の中尉に昇進[6]。1803年7月に第1歩兵連隊[7]、さらに1804年4月には第57歩兵連隊へ移籍した[8]。 1811年に中佐に昇進[4]。ナポレオン戦争に従軍し、1813年6月にはビトリアの戦いに参加し[4][9]、負傷している[4]。同年7月のピレネーの戦い[10]、同年11月のニヴェルの戦いにも参加した[11]。1815年6月16日のカトル・ブラの戦いでは左腕を失う負傷をした[4]。その2日後のワーテルローの戦いにも参加した[4]。 1821年7月には大佐に昇進[12]。1830年7月には少将に昇進する[13]。政界
1820年から1830年にかけてダーラム選挙区からトーリー党所属の庶民院議員に当選した[4]。1830年にはセント・ジャーマンズ選挙区[14]、1831年にはニューポート選挙区[15]、1832年にはローンセストン選挙区から選出され、貴族院に移籍するまで当選を続ける[2]。 1823年4月にリヴァプール伯爵内閣の補給庁書記官に就任した[16]。続いて1828年6月には第1次ウェリントン公爵内閣の戦時大臣に就任する[17]。1830年7月から11月にかけては閣内大臣としてアイルランド担当大臣に転じる[4]。1841年から1844年にかけては第2次ピール内閣で再び戦時大臣に就任[18][4]。インド総督
1844年5月にインド総督に就任した[19]。当時インドではシク王国との開戦間近という政治情勢になっていたため、新総督には軍人がふさわしいと考えられており、ウェリントン公爵がハーディングを推挙したという経緯だった[20]。 1845年12月より第一次シク戦争の戦端を開き、統制がとれていないシク軍を火力の優位で撃破した[20]。しかしハーディングはパンジャブ併合には踏み切らず、シクを独立国として残しつつ、1846年3月にラホール条約を締結させてペシャワールやカシミール、サトレジ川以南の地の割譲を受けた[20]。シク戦争の勝利はイギリス本国でも高く評価され、ヴィクトリア女王からハーディング子爵位を与えられ、議会からも感謝状が出された[21]。 内政ではガンジス大運河工事を再開させたり、茶の栽培を推進したり、タージマハルはじめ遺跡の保護に努めた[21]。 ハーディングは自分がシク戦争のために総督に据えられたと理解していたので、1846年6月のピール保守党政権崩壊、ラッセルのホイッグ政権誕生を機に辞職しようとしたが、ラッセル首相やイギリス東インド会社役員会から戦果が強固になるまで職に留まるよう慰留されたため、その後もしばらく在職した。シクが条約を履行したことを確認した後の1848年1月に退任した[22][注釈 1]。晩年と死去
1852年中に短期間成立した第1次ダービー伯爵内閣では補給庁長官を務めた[24][4]。 1852年9月には軍職の陸軍総司令官にも就任した[25]。1854年6月に大将に昇進[26]、さらに1855年10月には元帥に昇進した[27]。 1856年9月24日に死去した[4]。人物・評価
ナポレオン戦争で歴戦し、シク戦争を勝利に導いたため、軍人として第一級の評価を受けている[23]。 尊大な態度を見せず、物静かな性格だったという[20]。栄典
爵位
●1846年5月2日‥初代ハーディング子爵 ︵連合王国貴族爵位︶[4]勲章
●1815年‥バス勲章ナイト・コマンダー︵KCB︶[4] ●1815年‥ゴールド・クロス[4] ●1844年‥バス勲章ナイト・グランド・クロス︵GCB︶[4]その他
●1828年‥枢密顧問官︵PC︶[4] ●1830年‥アイルランド枢密顧問官︵PC (Ire)︶[4]家族
1821年に初代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアートの娘エミリー嬢と結婚し、彼女との間に第2代ハーディング子爵位を継承するチャールズ・ハーディング以下4子を儲けた[4]。 チャールズの子チャールズ︵後の初代ペンズハーストのハーディング男爵︶もインド総督を務めている[28]。脚注
注釈
出典
(一)^ 秦(2001) p.100
(二)^ abcUK Parliament. “Mr Henry Hardinge” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年8月21日閲覧。
(三)^ "No. 12833". The London Gazette (英語). 24 February 1787. 2014年8月21日閲覧。
(四)^ abcdefghijklmnopqrsLundy, Darryl. “Field Marshal Henry Hardinge, 1st Viscount Hardinge of Lahore and Kings Newton” (英語). thepeerage.com. 2014年8月21日閲覧。
(五)^ "No. 15161". The London Gazette (英語). 20 July 1799. 2014年8月21日閲覧。
(六)^ "No. 15464". The London Gazette (英語). 23 March 1802. 2014年8月21日閲覧。
(七)^ "No. 15600". The London Gazette (英語). 9 July 1803. 2014年8月21日閲覧。
(八)^ "No. 15694". The London Gazette (英語). 17 April 1804. 2014年8月21日閲覧。
(九)^ "No. 16887". The London Gazette (英語). 19 April 1814. 2014年8月21日閲覧。
(十)^ "No. 16934". The London Gazette (英語). 13 September 1814. 2014年8月21日閲覧。
(11)^ "No. 16934". The London Gazette (英語). 13 September 1814. 2014年8月21日閲覧。
(12)^ "No. 17727". The London Gazette (英語). 20 July 1821. 2014年8月21日閲覧。
(13)^ "No. 18709". The London Gazette (英語). 23 July 1830. 2014年8月21日閲覧。
(14)^ "No. 18723". The London Gazette (英語). 3 September 1830. 2014年8月21日閲覧。
(15)^ "No. 18805". The London Gazette (英語). 20 May 1831. 2014年8月21日閲覧。
(16)^ "No. 17911". The London Gazette (英語). 5 April 1823. 2014年8月21日閲覧。
(17)^ "No. 18477". The London Gazette (英語). 10 June 1828. 2014年8月21日閲覧。
(18)^ "No. 20015". The London Gazette (英語). 7 September 1841. 2014年8月21日閲覧。
(19)^ "No. 20346". The London Gazette (英語). 24 May 1844. 2014年8月21日閲覧。
(20)^ abcd浜渦(1999) p.99
(21)^ ab浜渦(1999) p.100
(22)^ 浜渦(1999) p.100-101
(23)^ ab浜渦(1999) p.101
(24)^ "No. 21299". The London Gazette (英語). 9 March 1852. 2014年8月21日閲覧。
(25)^ "No. 21362". The London Gazette (英語). 28 September 1852. 2014年8月21日閲覧。
(26)^ "No. 21564". The London Gazette (英語). 22 June 1854. 2014年8月21日閲覧。
(27)^ "No. 21792". The London Gazette (英語). 2 October 1855. 2014年8月21日閲覧。
(28)^ 浜渦(1999) p.163
参考文献
●浜渦哲雄﹃大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか﹄中央公論新社、1999年。ISBN 978-4120029370。 ●秦郁彦編 編﹃世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000﹄東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Viscount Hardinge(英語)
公職 | ||
---|---|---|
先代 ロバート・ワード |
![]() 1823年 – 1827年 |
次代 サー・ジョージ・クリーク准男爵 |
先代 第3代パーマストン子爵 |
![]() 1828年 – 1830年 |
次代 フランシス・ルーソン=ゴア卿 |
先代 フランシス・ルーソン=ゴア卿 |
![]() 1830年 |
次代 エドワード・スミス=スタンリー |
先代 エドワード・リトルトン |
![]() 1834年 – 1835年 |
次代 モーペス子爵 |
先代 トマス・マコーレー |
![]() 1841年 – 1844年 |
次代 サー・トマス・フレマントル |
先代 初代アングルシー侯爵 |
![]() 1852年 |
次代 初代ラグラン男爵 |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
先代 リチャード・ウォートン マイケル・アンジェロ・タイラー |
ダーラム選挙区選出庶民院議員 1820年 – 1830年 同一選挙区同時当選者 マイケル・アンジェロ・タイラー |
次代 マイケル・アンジェロ・タイラー サー・ロジャー・グレズリー准男爵 |
先代 チャールズ・ロス ジェームズ・ローチ |
セント・ジャーマンズ選挙区選出庶民院議員 1830年 – 1831年 同一選挙区同時当選者 チャールズ・ロス |
次代 チャールズ・ロス ウィスロップ・マクワース・プリード |
先代 ジョナサン・レイン ジョン・ドハーティ |
ニューポート選挙区選出庶民院議員 1831年 – 1832年 同一選挙区同時当選者 ジョナサン・レイン(1831) グリムストン子爵(1831–1832) |
選挙区廃止 |
先代 ジェームズ・ブログデン サー・ジョン・マルコム |
ローンセストン選挙区選出庶民院議員 1832年 – 1844年 |
次代 ウィリアム・ボーレス |
官職 | ||
先代 ウィリアム・ウィルバーフォース・バード (インド総督代理) |
![]() 1844年 – 1848年 |
次代 第10代ダルハウジー伯爵 |
軍職 | ||
先代 初代ウェリントン公爵 |
![]() 1852年 – 1856年 |
次代 ケンブリッジ公 |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | 初代ハーディング子爵 1846年 – 1856年 |
次代 チャールズ・ハーディング |