ワーテルローの戦い
ワーテルローの戦い Bataille de Waterloo/Battle of Waterloo | |
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「ワーテルローの戦い」(ウィリアム・サドラー画) | |
戦争:ナポレオン戦争、1815年フランス戦役 | |
年月日:1815年6月18日 | |
場所:ワーテルロー近郊、ラ・ベル=アリアンス周辺 | |
結果:英蘭連合軍・プロイセン軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
![]() など |
![]() など 低ライン方面軍司令官 など |
戦力 | |
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損害 | |
死傷者・捕虜計 約40,000[4] | 死傷者・行方不明計 英蘭軍 27,000[4] プロイセン軍 7,000[4] |
概要[編集]
1815年にエルバ島から帰還し皇帝の座に返り咲いたナポレオンは、第七次対仏大同盟の態勢が整う前にこれを撃破することを企図。フランス国境北東部付近に位置していた初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー麾下の英蘭連合軍とゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥のプロイセン軍を打倒すべく、自ら12万の兵力を率いて出陣した。両勢力は1815年6月16日から3日間に渡り交戦し、ナポレオンは前哨戦となるリニーの戦いでブリュッヘルのプロイセン軍に勝利したものの、6月18日の戦いで大敗し潰走を余儀なくされる。連合軍はこれを追撃してフランスに侵攻し、ルイ18世を復位させた。退位したナポレオンはイギリスに降伏してセントヘレナ島に流され、1821年にこの地で死去した。 ナポレオンの敗因は、一軍を委ねたエマニュエル・ド・グルーシー元帥との連携に失敗したうえ、天候の都合で攻撃開始を遅らせたことが裏目に出て敵勢力の結集を許してしまったことが挙げられる。なお、実際に主戦場となったのは現在のベルギー国内のラ・ベル・アリアンスで、ブリュッセルからおよそ13km南東にあり、ワーテルローの町からは1.6kmほど離れている。この古戦場には﹁ライオンの丘﹂と呼ばれる巨大な記念碑がそびえ立っている。背景[編集]
ナポレオンの帰還[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Napoleon_returned.jpg/300px-Napoleon_returned.jpg)
前哨戦:リニーの戦いとカトル・ブラの戦い[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/The_Duchess_of_Richmond%27s_Ball_by_Robert_Alexander_Hillingford.jpg/250px-The_Duchess_of_Richmond%27s_Ball_by_Robert_Alexander_Hillingford.jpg)
Robert Alexander Hillingford画。1870年代。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/96/Wollen%2C_Battle_of_Quatre_Bras.jpg/250px-Wollen%2C_Battle_of_Quatre_Bras.jpg)
1815年戦役の戦略状況 |
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■:フランス軍、 ■:英蘭連合軍、 ■:プロイセン軍、 □:オーストリア・ドイツ諸国・イタリア諸国軍、 ■:ロシア軍、 ■:スペイン軍 参考文献 -アルバート・A.ノフィ 著、諸岡良史 訳『ワーテルロー戦役』コイノニア社、2004年、301-340頁。ISBN 978-4901943055。 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/77/Waterloo_Campaign_map-alt3.svg/500px-Waterloo_Campaign_map-alt3.svg.png)
軍隊[編集]
フランス軍[編集]
フランス軍戦闘序列[編集]
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| 北部方面軍 L'Armée du Nord |
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| 総司令官 - 皇帝ナポレオンあ 総参謀長 - スールト元帥ああ 左翼軍司令 - ネイ元帥あああ 右翼軍司令 - グルーシー元帥 122,600名、砲368門 |
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皇帝近衛軍団 |
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| 第2軍団 |
| 第6軍団 |
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ドルーオ中将 20,700名、砲110門 |
| デルロン中将 19,800名、砲46門 |
| レイユ中将 25,150名、砲46門 |
| ロバウ中将 10,450名、砲38門 |
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近衛擲弾歩兵師団(フィリアン中将) 近衛猟歩兵師団(モラン中将) 新規近衛歩兵師団(デュエーム中将) 近衛重騎兵師団(ギヨー中将) 近衛軽騎兵師団(ルフェーブル=デヌエット中将) 近衛砲兵隊(デヴォー・ドゥ・サン=モーリス中将) |
| 第1師団(キオ少将) 第2師団(ドンズロ中将) 第3師団(マルコニェ中将) 第4師団(デュリット中将) 第1騎兵師団(ジャノッキ中将) |
| 第5師団(バシュリュ中将) 第6師団(ジェローム・ボナパルト師団将軍) 第7師団(ジラール師団将軍) 第9師団(フォワ中将) 第2騎兵師団(ピレ中将) |
| 第19師団(サンメ中将) 第20師団(ジャナン中将) 第21師団(テスト中将) 第4軍団予備砲兵(ヌーリー中将) |
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第3騎兵軍団 |
| 第4騎兵軍団 |
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ケレルマン中将 3,900名、砲12門 |
| ミヨー中将 3,100名、砲12門 |
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第11騎兵師団(レリティエ中将) 第12騎兵師団(デュルバル中将) |
| 第13騎兵師団(ワティエ中将) 第14騎兵師団(ドゥロール中将) |
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第3軍団 |
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| 第1騎兵軍団 |
| 第2騎兵軍団 |
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ヴァンダム中将 17,600名、砲38門 |
| ジェラール中将 14,874名、砲30門 |
| パジョール中将 3,000名、砲12門 |
| エグゼルマン中将 3,400名、砲12門 |
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*参考文献 - *アルバート・A.ノフィ 著、諸岡良史 訳『ワーテルロー戦役』コイノニア社、2004年、301-314頁。ISBN 978-4901943055。
※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。点線の枠はグルーシー元帥の部隊でワーテルローの戦いには不在。 |
- フランス軍主要将帥
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フランス皇帝ナポレオン1世
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総参謀長スールト元帥
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ネイ元帥
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皇帝近衛軍団長ドルーオ中将
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第1軍団長デルロン中将
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第2軍団長レイユ中将
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第6軍団長ロバウ中将
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第3騎兵軍団長ケレルマン中将
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第4騎兵軍団長ミヨー中将
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第6師団長ジェローム・ボナパルト中将
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第2師団長ドンズロ中将
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第4師団長デュリット中将
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近衛擲弾歩兵師団長フィリアン中将
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近衛猟歩兵師団長モラン中将
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近衛重騎兵師団長ギヨー中将
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近衛軽騎兵師団長ルフェーブル=デヌエット中将
英蘭連合軍[編集]
英蘭連合軍戦闘序列[編集]
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| 低地方面軍 |
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| ウェリントン元帥 122,000名、砲203門 |
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第1軍団 |
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オラニエ公ウィレム大将 38,400名、砲56門 |
| ヒル中将 27,300名、砲40門 |
| アクスブリッジ中将 16,500名、砲43門 |
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第1近衛師団(クック少将) 第3師団(アルテン中将) オランダ軍第2師団(ペルポンシェ=セドルニッツキ中将) オランダ軍第3師団(シャッセ中将) |
| 第2師団(クリントン中将) 第4師団(コルヴィール少将) オランダ軍第1師団(ステッドマン中将 ) |
| 近衛騎兵旅団(エドワード・サマセット少将) 連合騎兵旅団(ポンソンビー少将) 第3騎兵旅団(ドルンベルク少将) 第4騎兵旅団(ヴァンドルー少将) 第5騎兵旅団(グラント少将) 第6騎兵旅団(ヴィヴィアン少将) 第7騎兵旅団(アレントシルト名誉大佐) ハノーファー軍第1騎兵旅団(エルストッフ少将) オランダ軍騎兵師団(コラエール中将 ) 予備騎馬砲兵隊(フレイザー中佐) |
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予備軍団 |
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ウェリントン元帥 36,900名、砲64門 |
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第5師団(ピクトン中将) 第6師団(コール中将) ブラウンシュヴァイク師団 ハノーファー軍予備師団(デッケン中将)※不在 予備砲兵隊(ドルモント少将) |
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*参考文献 - *アルバート・A.ノフィ 著、諸岡良史 訳『ワーテルロー戦役』コイノニア社、2004年、314-324頁。ISBN 978-4901943055。
※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。イギリス軍師団にはハノーファー兵、ブラウンシュヴァイク兵、ナッサウ兵の部隊も含まれる。第1軍団のオランダ=ベルギー軍部隊の多くは会戦には不参加だった。
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- 英蘭連合軍主要将帥
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ウェリントン公
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第1軍団長オラニエ公ウィレム
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第2軍団長ヒル中将
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騎兵軍団長アクスブリッジ中将
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第5師団長ピクトン中将
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近衛騎兵旅団長サマセット少将
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連合騎兵旅団長ポンゾビー少将
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オランダ軍第3師団長シャッセ中将
プロイセン軍[編集]
司令官のブリュッヘル元帥はライプツィヒの戦いでナポレオンを撃破した連合軍のうちのプロイセン軍を率いていた。参謀長のグナイゼナウ中将はプロイセンの軍制改革を推進した中心的人物である[45]。 プロイセン軍は困難な再編成の途上にあった。1815年時点で、以前の予備連隊、外人部隊そして1813年から1814年にかけて編成された義勇軍︵Freikorps︶は正規軍や多数の後備兵︵ラントヴェーア‥民兵︶連隊に統合される過程にあった。ベルギーに到着した時点ではラントヴェーアのほとんどは未訓練かつ兵器も支給されていなかった。プロイセン軍の騎兵も同様の状態だった[46]。砲兵隊も再編中であり、万全に行動しうる状態になく、砲や装備は会戦中そして後に到着する有り様だった。しかしながら、これらの不利も戦役中にプロイセン軍参謀部の見せた見事な指揮統率によって埋め合わされた。これらの将校は参謀教育のためにつくられた四つの学校の出身者であり、共通した基準の訓練を受け任務についていた。このシステムは、矛盾し曖昧な命令を発しがちだったフランス軍のそれとは対照的なものであった。この参謀システムによってプロイセン軍はリニーの戦いの前に僅か24時間で兵力の4分の3を集結することを可能にさせた。リニーの戦いの後も、プロイセン軍は敗北はしたものの補給段列を再調整し、自軍を再編成し、48時間以内にワーテルローの戦場に駆けつけることが可能であった[47]。プロイセンの2個半の軍団48,000人がワーテルローの戦いに参戦した。ビューロー第4軍団長の率いる2個旅団が16時30分にロバウのフランス軍第6軍団に攻撃をかけ、ツィーテンの第1軍団とピルヒの第2軍団の一部は18時に来援した。プロイセン軍戦闘序列[編集]
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| 低ライン方面軍 |
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| 司令官 - ブリュッヘル元帥 参謀長 - グナイゼナウ中将 123,000名、砲296門 |
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第1軍団 |
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ツィーテン中将 31,800名、砲80門 |
| ピルヒ中将 35,100名、砲80門 |
| ビューロー中将 31,900名、砲88門 |
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第1旅団(シュタインメッツ少将) 第2旅団(ピルヒ少将) 第3旅団(ヤゴウ少将) 第4旅団(ヘンケル=ドナーススマルク少将) 予備騎兵(レーダー中将) 予備砲兵(レーマン少将) |
| 第5旅団(ティペルスキルヒ少将) 第6旅団(クラフト少将) 第7旅団(ブラウゼ少将) 第8旅団(ボーゼ少将) 予備騎兵(ヴァーレン=ユルガス少将) 予備砲兵(ロール) |
| 第13旅団(ハッケ) 第14旅団(ライセル) 第15旅団(ロシュッティン) 第16旅団(ヒラー) 予備騎兵(ヴィルヘルム大公) 予備砲兵(ブライオン) |
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第3軍団 |
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ティールマン中将 27,925名、砲64門 |
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第9旅団(ボルッケ) 第10旅団(カンプフェン) 第11旅団(ルック) 第12旅団(シュトゥルプナゲル) 予備騎兵(ホーベ) 予備砲兵(モンハウプト) |
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*参考文献 - *アルバート・A.ノフィ 著、諸岡良史 訳『ワーテルロー戦役』コイノニア社、2004年、324-331頁。ISBN 978-4901943055。
※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。点線の枠はティールマン中将の第3軍団でワーテルローの戦いには不参加。 |
- プロイセン軍主要将帥
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ブリュッヘル元帥
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参謀長グナイゼナウ中将
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第1軍団長ツィーテン中将
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第4軍団長ビューロー中将
戦場[編集]
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ナポレオンが本営を置いたラ・ベル・アリアンス。1880年代撮影
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ウーグモン。戦場西側の激戦地となった。
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ラ・エー・サント
戦場中央部の要衝であり、熾烈な攻防戦が行われた。
開戦[編集]
戦闘準備[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/Hillingford_-_Wellington_and_Blucher_Meeting_Before_the_Battle_of_Waterloo.jpg/200px-Hillingford_-_Wellington_and_Blucher_Meeting_Before_the_Battle_of_Waterloo.jpg)
Robert Alexander Hillingford画。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/NapoleonsHeadquartersAtWaterloo.jpg/200px-NapoleonsHeadquartersAtWaterloo.jpg)
ウーグモン[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bb/Andrieux_-_La_bataille_de_Waterloo.jpg/300px-Andrieux_-_La_bataille_de_Waterloo.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/59/Hougemont_engraving_by_William_Miller_after_Turner_R520.jpg/220px-Hougemont_engraving_by_William_Miller_after_Turner_R520.jpg)
フランス軍歩兵の第一次攻撃[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b1/Emmanuel_de_Grouchy_2.jpg/200px-Emmanuel_de_Grouchy_2.jpg)
イギリス騎兵の突撃[編集]
我が軍の騎兵将校たちは馬を疾走させる悪ふざけに夢中になってしまった。彼らは置かれた状況を考慮せず、敵前で機動していると思ってもおらず、自制することも予備を控置することもしなかった。 — ウェリントン、[102]![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Butler_Lady_Scotland_for_Ever.jpg/300px-Butler_Lady_Scotland_for_Ever.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/68/Sunken-road-at-waterloo.jpg/300px-Sunken-road-at-waterloo.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/74/Richard_Ansdell_%E2%80%94_The_Fight_For_The_Standard.jpg/200px-Richard_Ansdell_%E2%80%94_The_Fight_For_The_Standard.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3c/Chevau-l%C3%A9ger_lancier_du_2e_r%C3%A9giment_by_Bellange.jpg/175px-Chevau-l%C3%A9ger_lancier_du_2e_r%C3%A9giment_by_Bellange.jpg)
ネイ元帥の騎兵攻撃[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9a/Grande_Arm%C3%A9e_-_10th_Regiment_of_Cuirassiers_-_Colonel.jpg/175px-Grande_Arm%C3%A9e_-_10th_Regiment_of_Cuirassiers_-_Colonel.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Wellington_at_Waterloo_Hillingford.jpg/300px-Wellington_at_Waterloo_Hillingford.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Charge_of_the_French_Cuirassiers_at_Waterloo.jpg/300px-Charge_of_the_French_Cuirassiers_at_Waterloo.jpg)
![The storming of La Haye Sainte by Knötel](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e7/Knotel_-_The_storming_of_La_Haye_Sainte.jpg/300px-Knotel_-_The_storming_of_La_Haye_Sainte.jpg)
プロイセン軍の来援[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fa/Prussian_Attack_Plancenoit_by_Adolf_Northern.jpg/300px-Prussian_Attack_Plancenoit_by_Adolf_Northern.jpg)
皇帝近衛隊の突撃[編集]
William M. Sloane画、1895年。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Grenadier-a-pied-de-la-Vieille-Garde.png/140px-Grenadier-a-pied-de-la-Vieille-Garde.png)
プランスノワ奪取[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/31/Ludwig_Elsholtz_Erst%C3%BCrmung_von_Planchenois.jpg/300px-Ludwig_Elsholtz_Erst%C3%BCrmung_von_Planchenois.jpg)
崩壊[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/Dernier_carre_de_la_Garde_-_gen_Hill.png/300px-Dernier_carre_de_la_Garde_-_gen_Hill.png)
戦後[編集]
フランス軍の布陣のほぼ中央、高地の上にある建物が、ラ・ベル・アリアンス︵La Belle Alliance︶と呼ばれる農場だった。すべてのプロイセン軍は、この戦場のあらゆる場所から見ることができる、この農場へ向けて進軍した。ここはこの会戦中にナポレオンがいた場所であり、ここで彼は命令を下し、勝利の希望に自惚れていた。そして、ここが彼の破滅が決定的となる場所となった。夜の闇の中、幸運にも、この場所でブリュッヘル元帥とウェリントン公が会見する機会が得られ、彼らは勝者として敬礼しあった。 — グナイゼナウ将軍、[172] ウェリントン公とブリュッヘル元帥との会見は21時頃にナポレオンの本営があったラ・ベル・アリアンスで行われた[173][注釈 19]。ブリュッヘルはこの戦いをナポレオンの本営があった戦場の中心地であり、両軍の﹁同盟﹂︵alliance︶の意味にもかけた﹁ラ・ベル・アリアンスの戦い﹂︵直訳すると﹁良き同盟の戦い﹂︶と命名したいとウェリントンに通達したが、ウェリントンは英語での発音を気にかけて戦場とはやや離れた場所にあるワーテルロー村︵英語の発音はウォータールー︶の地名に拠るワーテルローの戦い︵Battle of Waterloo︶と命名して報告書を本国に送った[174]。このため、ドイツではこの戦いはラ・ベル・アリアンスの戦い︵Schlacht bei Belle-Alliance︶とも呼ばれる。 ワーテルローの戦いでウェリントンの英蘭軍は戦死傷約17,000人・行方不明10,000人を出しており[4]、ブリュッヘルのプロイセン軍のそれは約7,000人であり[4]、そのうち810人はフリシェルモンとプランスノワの両方の攻防戦に参加したビューローの第4軍団に所属する第18連隊のみから出ており、連隊は33個もの鉄十字章を得ている[175]。ナポレオンのフランス軍は約40,000人の死傷・捕虜・逃亡を出し、砲220門を失った[4]。 6月22日の朝、私は戦場を見に行った。そこはワーテルローの村から少し先にあるモン・サン・ジャンの台地にあった。だが、そこに到着するとその光景は身の毛もよだつものだった。私は胃が痛くなり、この場から帰ることを願いたい気持ちになった。それは私が生涯忘れることのない惨状であり、大量の死体、大勢の負傷者、彼らは足を砕かれて歩くこともできない。彼らは負傷によるものだけでなく飢えによっても非業の最期を迎えようとしており、連合軍は︵当然のことだか︶彼らのもとに外科医と荷馬車を連れて来なければならない。連合軍とフランス軍双方の負傷者たちは、等しく悲惨な状態にあった。 — W・E・フライ少佐、After Waterloo: Reminiscences of European Travel 1815–1819.[176] ナポレオンから受けていた命令を遵守したグルーシー元帥はティーレマン将軍のプロイセン軍をワーヴルで撃破し、6月19日の10時30分に整然と撤退できたが、その代償は33,000人のフランス軍将兵がワーテルローの主戦場に来着できなかったことであった。 ナポレオンはシャルルロワを経てフィリップヴィルまで逃れ、そこから留守政府を預かる元スペイン王の兄ジョゼフ・ボナパルトに楽観的な内容の報告書を送り、軍隊の再建を指示したが、彼の命運はすでに尽きていた[177]。6月20日にナポレオンは幕僚に促され、軍隊を置き去りにしてパリに帰還したが、プロイセンの軍事学者クラウゼヴィッツはこれを大きな誤りだったと非難している[178]。ナポレオンはなお政権維持に希望を持ち、議会を解散して独裁権を獲得しようと画策したが、議会はこれに反対して国家反逆罪にあたるとナポレオンを非難し、ついには退位をも要求しはじめた[179]。 一方、ウェリントンは6月19日に戦闘の詳細について報告する急報を本国に送り、6月21日に到着して翌22日にロンドン・ガゼッタ紙で告知された[180]。ワーテルローの戦いの帰趨はロンドンの株式市場も注視しており、カトル・ブラの戦いの敗報によってコンソル公債は下落していたが、ワーテルローの勝報をいち早く手に入れた銀行家ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはすぐに買いを入れずに意図的に公債を投げ売りして暴落させ、二束三文になったところで大量買いをし、そして公式な報道により大暴騰した[181]あとで、高値で売った。後に﹁ネイサンの逆売り﹂と呼ばれる株式売買でロスチャイルド家は巨額の利益を獲得した。 ウェリントン公とブリュッヘル元帥そしてその他の連合国軍はパリへ向けて進撃した。6月24日、ナポレオンは2度目の退位を宣言し、フーシェを首班とする臨時政府がつくられた。7月3日、ナポレオン戦争の最後の会戦としてイシーの戦いが起こり、ナポレオンに戦争大臣に任命されていたダヴーがブリュッヘルのプロイセン軍に敗れている[182]。ベレロフォン号の甲板に立つナポレオン。 ウィリアム・オーチャードソン 画、1880年。 ナポレオンは北アメリカへ逃亡を図るが、イギリス海軍はこの動きを予見しておりフランスの港を封鎖していた。結局、ナポレオンは7月15日にイギリス海軍の戦列艦ベレロフォン号のメイトランド艦長に投降した。 王太子殿下 – 我が国を分裂させた諸党派そしてヨーロッパ列強諸国の敵とみなされ、私は政治的経歴を終えました故に、私はテミストクレス︵古代アテネの政治家︶の如く、英国民の保護︵m'asseoir sur le foyer︶の下に身を投じます。私は王太子殿下からの法の下の保護を求め、我が敵国の中で最も強大で最も志操堅固で最も高貴な貴国に身を寄せます。 — ナポレオン、 英国摂政太子[注釈 20]への降伏書簡[183] 一部のフランス軍要塞は降伏を拒んでおり、9月13日にロンウィが降伏して、すべての抵抗が終わった。11月20日に連合国とフランスとの間でパリ条約が締結されルイ18世が復位した。ナポレオンはイギリスのプリマスへの上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、ベルトラン、モントロン、グールゴの3人の将軍とともにセントヘレナ島に流されて1821年5月5日に死去した[184][185]。 王党派が復帰したフランスではナポレオンの部下たちに対する報復が行われた。ネイ元帥は12月に銃殺刑となり、参謀長のスールト、戦争大臣のダヴーの両元帥をはじめ30人以上の将官が投獄または流刑に処されている[186]。ワーテルロー戦役に従軍した英蘭軍将兵に贈られたワーテルロー・メダ ル。 イギリスではこの戦いの後、ウォータールー︵Waterloo︶の単語はスラングとして英語の語彙に組み込まれ、﹁惨敗﹂の喩えとなった[187]。 皇帝近衛隊の擲弾兵を撃破した︵実際には猟歩兵部隊だった︶イギリス軍第1近衛旅団所属第1近衛歩兵連隊︵ヘンリー・アスキン中佐︶はその功績が認められて﹁擲弾兵近衛連隊﹂︵Grenadier Guards︶の称号が与えられ、擲弾兵の様式の毛皮製高帽が採用された。イギリス近衛騎兵旅団もフランス軍の胸甲騎兵を撃破した功績が認められて1821年に胸甲の使用が認められた。この戦いに参加した者たちに槍騎兵の有効さが印象づけられ、その後、ヨーロッパ中で採用されるようになり、1816年にイギリス軍は軽騎兵4個連隊を槍騎兵に改編させている[188]。 戦後、ウェリントンは軍の重鎮となって陸軍総司令官に2度就任し[189]、政治家としても要職を歴任して外交使節としても活動しており[190]、首相を2度務めている︵任期‥1828年 - 1830年、1834年 - 1834年︶[191]。英蘭軍の騎兵部隊を任されたアックスブリッジは会戦の終盤に負傷して片脚を失ったが、その後は要職を歴任し1846年に元帥に叙された[192]。また、英蘭軍第1軍団長を務めたオラニエ公は1840年にオランダ王ウィレム2世として即位している。 この会戦中戦場を駆け巡ったウェリントンの幕僚のほとんどが死傷しており[193]、その一人でウェリントンの秘書官を務めていたラグラン男爵フィッツロイ・サマセットは、この戦いで右腕を負傷し切断を余儀なくされた︵ラグラン袖は彼の失われた右腕に合わせて作られたものである︶。彼は後に陸軍最高司令官となり、クリミア戦争︵1853年 - 1856年︶の総指揮を執ることになる[194]。 1848年に開業したロンドンの複合ターミナル駅であるウォータールー駅︵ワーテルローの英語読み︶はワーテルローの戦いが由来である[195]。1994年に英仏海峡トンネルが完成し、パリとロンドンを結ぶ高速列車ユーロスターが運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にもここであった。このため、フランス側は、幾度となく駅の改名や変更を求めている[195]。2007年にはイギリス国内の高速新線が完成し、ターミナルもセント・パンクラス駅に変更された。 プロイセン軍司令官のブリュッヘル元帥は既に高齢であり、この年のうちに退役し、1819年に77歳で死去した。プロイセン軍に参謀本部組織を確立させこの戦いでも参謀長として重要な役割を果たしたグナイゼナウ中将は後に元帥に列せられたが、進歩的な考えの彼はプロイセンの保守的な体質によって戦後は権力からは遠ざけられている[196]。﹃戦争論﹄で知られるプロイセン軍のクラウゼヴィッツはこの戦役では第3軍団の参謀を務めており、後にこの戦いを研究した﹃1815年のフランス戦役﹄を著し、後世に資することになる。 19世紀の著名な軍事学者ジョミニ将軍はナポレオン時代の戦略戦術に関する主導的研究者の一人でもあり、ワーテルローの戦いにおけるナポレオンの敗因をいくつか提示している。 私が考えるに、四つの主な要因が彼に破滅をもたらした。 第一のそして最も重要な要因は絶妙な連携によるブリュッヘルの到着とこの到着を利させた︵グルーシーの︶拙い行軍である。第二の要因はイギリス歩兵の賞賛すべき粘り強さ、そして指揮官たちの冷静さである。第三はひどい天候であり、これによって地面がぬかるみ、行軍が非常に困難になり、さらにその日の朝に行われるはずであった攻撃開始が午後1時にまで遅延することになった。第四は第1軍団の信じがたい隊形であり、彼らはあまりにも密集しすぎており、第一次攻撃を成功させることは難しかった。 — アントワーヌ=アンリ・ジョミニ、[94]古戦場[編集]
ライオンの丘 戦場の地形の一部は1815年当時ものから変えられている。観光は会戦の翌日から始まっており、6月19日付の書簡でメーサー大尉は﹁一台の荷馬車がブリュッセルからやって来て、その乗客たちが戦場を見て回っていた﹂と書き残している[128]。1820年、オランダ王ウィレム1世は彼の息子のオラニエ公が負傷したとされる場所に記念碑を建てるよう命じた。イギリス軍戦線中央部があった尾根の地域の300,000立方メートル相当の土壌を用いて﹁ライオンの丘﹂と呼ばれる小山がここに造られており、これによって英蘭軍の窪み道の南側の土手が取り除かれてしまった。 ヴィクトル・ユーゴーは小説﹃レ・ミゼラブル﹄の中でこう述べている。 ナポレオンとウェリントンとの会戦の場所である種々の勾配をなした平地の起伏は、人の知るとおり、一八一五年六月十八日とは今日大いにそのありさまを異にしている。その災厄の場所から、すべて記念となるものを人々は奪い去ってしまって、実際の形態はそこなわれたのである。そしてその歴史も面目を失って、もはやそこに痕跡を認め難くなっている。その地に光栄を与えんために、人々はその地のありさまを変えてしまった。二年後にウェリントンは再びワーテルローを見て叫んだ、﹁私の戦場は形が変えられてしまった。﹂今日獅子の像の立っている大きな土盛りのある場所には、その当時一つの丘があってニヴェルの道の方へは上れるくらいの傾斜で低くなっていたが、ジュナップの道路の方ではほとんど断崖をなしていた。その断崖の高さは、ジュナップからブラッセルへ行く道をはさんでいる二つの大きな墳墓の丘の高さによって、今日なお測ることができる。その一つはイギリス兵の墓であって左手にあり、も一つはドイツ兵のであって右手にある。フランス兵の墓はない。フランスにとっては、その平原すべてが墓地である。 — ヴィクトル・ユーゴー, ﹃レ・ミゼラブル﹄、豊島与志雄訳︵1918年︶[197] その他の地形や会戦に関係する場所は当時からほとんど変わっていない。この中にはブリュッセル=シャルルロワ街道東側のなだらかに起伏する農地やウーグモン、ラ・エー・サントそしてラ・ベル・アリアンスといった建物も含まれる[198]。 ﹁ライオンの丘﹂の他にも古戦場にはいくつもの記念碑が存在する。ブリュッセル=シャルルロワ街道とブレン・ラルー =オヘイン街道の十字路にはイギリス兵、オランダ兵、ハノーファー兵そしてドイツ人義勇兵の集団墓地がある。フランス軍戦死者に対する記念碑は﹁傷ついた鷲﹂︵"The Wounded Eagle"︶と名づけられ、ここは戦いの終盤に皇帝近衛隊が最後の方陣を組んだ場所とされる。プロイセン軍戦死者の記念碑はプランスノワにあり、ここはプロイセン軍の砲兵隊が布陣したとされる場所である。ブリュッセル市内のウェイのマルティン教会にはデュエズム将軍の墓所がある。エベレのブリュッセル墓地には﹁イギリス人の碑﹂︵"British Monument"︶と呼ばれる戦死した17人のイギリス軍士官の墓所がある[199]。 ﹁ライオンの丘﹂のふもとにある﹁ワーテルロー・パノラマ館﹂︵Panorama de la Bataille de Waterloo︶の内部には1912年にルイ・デュムーランが描いた周囲110m、高さ12mものワーテルローの戦いのパノラマ画が展示されており[200]、また館内では20分のワーテルローの戦いの映画も上映されている[201]。この古戦場では毎年、ワーテルローの戦いの再現イベントが行われている[202]。ワーテルローは小牧・長久手の戦いの古戦場がある日本の長久手市と姉妹都市提携している[203]。
ナポレオンの戦闘前夜の本営。(博物館になっている[204]。) 国王直属ドイツ人部隊(KGL)(左)と英軍士官ゴードン(右)の記念碑。背後は「ライオンの丘」。 ナポレオンの鷲 ナポレオン像。 Bivouac de l'Empereur ホテル、ワーテルロー。 第8歩兵連隊:この場所でデュリットの師団に所属する第8歩兵連隊はフォン・オンプテダ大佐のプロイセン部隊への攻撃に成功した。KGLの記念碑のそば。 ウーグモン農場の南玄関。 大陸軍軍最後の戦士の記念碑。 (傷ついた鷲:The Wounded Eagle) デュエズム将軍の墓所。ブリュッセル、ウェイ。 ブリュッセル墓地のワーテルロー戦役の記念碑。
2012年の再現イベント フランス軍の胸甲騎兵。
2011年の再現イベント プロイセン歩兵の一斉射撃。
2011年の再現イベント 2010年の再現イベント作品[編集]
ヴィクトル・ユーゴーの記念柱の肖像。
ベルギー、ワーテルロー。19世紀の激動のフランスを時代背景としたヴィクトル・ユーゴーの長編小説 ﹃レ・ミゼラブル﹄第二部コゼット第一編の主題はワーテルローであり、1861年5月に物語の著者︵ユーゴー︶がベルギーの戦場跡を訪れる場面から始まり、ワーテルローの戦いの詳細な戦場描写からナポレオンの没落までが語られている。﹃レ・ミゼラブル﹄の作中では本筋とはあまり関係のない歴史挿話やユーゴーの歴史考察が交えられており、第二部第一編もそのひとつである[205]。 ユーゴーは、レ・ミゼラブルにて﹁季節外れの雲に覆われた空が、世界の崩壊をもたらした﹂と記しているが、これはタンボラ山の大噴火によって引き起こされた異常気象について間接的に言及したものである[206]。 ユーゴーは手がけている大作にこの世紀の一戦を挿入したいと考えており、1861年3月から喉の病気の転地療養を兼ねてワーテルローに滞在し、古戦場を散策しながら﹃レ・ミゼラブル﹄の執筆を行い、6月30日にいちおうの完成をみた[207]。彼は作品の完成を知らせる友人に宛てた手紙で﹁偶然にもワーテルローの古戦場で、私は自分の戦いを戦った﹂と書き送っている[208]。その後もユーゴーは加筆と修正を続けており、第二部第一編﹁ワーテルロー﹂は12月21日に書き上げている[208]。﹃レ・ミゼラブル﹄は1862年3月と4月にベルギーとフランスで出版され、爆発的な売れ行きとなった[209]。﹃レ・ミゼラブル﹄完成の地となったベルギーのワーテルローにはヴィクトル・ユーゴーの記念柱が建立されている。 アーサー・コナン・ドイルの﹃勇将ジェラールの回想﹄、﹃勇将ジェラールの冒険﹄の2部作はナポレオンに忠誠を尽くす騎兵将校エティエンヌ・ジェラールを主人公とした冒険小説であり、﹃勇将ジェラールの冒険﹄に収録される中編﹁准将がワーテルローで奮戦した顛末﹂はこの戦いにおける彼の活躍を描いている。日本人の作家によるワーテルローの戦いを主題とした作品としては柘植久慶の﹃逆撃 ナポレオン ワーテルロー会戦﹄上下巻がある。これは現代の日本人御厩太郎がナポレオンの将軍となって歴史改編を試みる架空戦記的な作品である。 ナポレオン戦争の時代を扱った映像作品ではワーテルローの戦いも数多く登場するが[210]、会戦自体を主題とした作品には1928年のドイツ映画﹃ワーテルロー﹄[211]と1970年のイタリア・ソ連合作映画﹃ワーテルロー﹄とがある。後者は監督をソ連のセルゲイ・ボンダルチュクが務める製作費1200万ドルの大作映画であり、ソ連軍の協力を受けて2万人の兵士を使って会戦を大規模に再現した[212]。また、日本のアニメ﹃ヤッターマン﹄の最終回は﹁アワテルローの戦いだコロン﹂であり、この戦いのパロディとなっている︵1979年1月27日放映︶[213]。 ワーテルローの戦いは音楽の題材ともなっており、イギリスの女流作曲家ウィルマ・アンダーソン・ギルマンのピアノ曲﹃ウォータールーの戦い﹄は描写音楽風に戦いの始まりから終わりまで8つの接続曲のスタイルで作曲されており、発表会でもしばしば取り上げられる[214]。本曲では﹁ワーテルロー﹂より﹁ウォータールー﹂の表記が定着されている。1974年にスウェーデンの音楽グループABBAがリリースした﹃恋のウォータールー﹄は全英ヒット・チャートで2週1位、ビルボードで6位を獲得し[215]、フランスでもシングル・チャートでは3位となる大ヒットとなった。この曲では﹁惨敗﹂を意味する英語の俗語としての﹁ウォータールー﹂︵Waterloo︶がかけられている。 欧米圏で知名度の高いワーテルローの戦いは当然のごとくボード・シミュレーションゲームの題材として取り上げられており、アバロンヒル社の最初期の作品﹃Waterloo﹄やSPI社の﹃Napoleon at Waterloo﹄そして爆発的に売れた﹃Wellington's Victory﹄︵SPI/TSR︶をはじめ非常に多くのゲームが製作されている[210]。日本製のゲームには﹃ワーテルロー﹄︵翔企画︶や﹃ワーテルローの落日﹄︵Gamejournal No.41︶[216]がある。関連項目[編集]
- 1815年のタンボラ山噴火 - ナポレオンがワーテルローの戦いで敗戦に追い込まれた原因の一つは、この大噴火によって引き起こされた豪雨であると言われている[206]。
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ルイ18世からナポレオン討伐を命じられたネイ元帥は﹁ナポレオンを鉄の檻に入れてパリに連れ帰りましょう﹂と豪語して出立したが、ナポレオンから手紙を受け取ると態度を豹変させ兵士たちに﹁皇帝万歳!﹂と叫び、彼に帰順した。ストローソン 1998,pp.265-266 (二)^ 総兵力69,000人、歩兵48,000、騎兵14,000、砲兵7,000、大砲250門とする資料もある。Barbero 2005, p. 75. (三)^ スールトは6月17日午後10時のグルーシーへの命令伝達に一人の伝令を出していたが、これを知ったナポレオンから﹁ベルティエなら百人の伝令を送っていたぞ﹂と叱責されている。長塚 1986,p.565. ベルティエは特別に編成された伝騎の小集団を組織しており、伝令も6人を出していた。ノフィ 2004,p.262. (四)^ マーサー砲兵大尉はブラウンシュヴァイク兵について﹁完全に子供だ﹂と評した。(Mercer 1870). (五)^ 6月13日、アトに駐屯するハノーファー予備連隊の兵士は火薬と薬包を要求したが、彼らは一度も発砲したことがなかった。 (Longford 1971, p. 486). (六)^ 火災を見たウェリントンは館の守備隊長にいかなる犠牲を払ってもその場所を死守せよと命じた。Barbero 2005, p. 298. (七)^ フランス軍砲兵は砲弾を直接命中させるのではなく、地表に命中させて周囲の岩や土塊を跳ね飛ばして殺傷範囲を広げる跳弾戦術を用いていた。ノフィ 2004,p.201. (八)^ これはオランダ側の史料、特にオランダ軍第2師団の戦闘詳報と矛盾する。; 右を参照せよ。Erwin Muilwijk,Bylandt's brigade during the morning (九)^ 戦場を離脱したことによりオランダは友軍部隊から非難を受けたが、これに同意せず、彼らは臆病なのではなくボナパルティストだったのだろうとする意見もある。Longford 1971, p. 556 (十)^ 例えば第2竜騎兵連隊︵Scots Greys︶は1801年以降実戦経験がなかった。Wootten 1992, p. 21. (11)^ Barbero 2005, p. 188. 近衛騎兵旅団︵9-10個大隊︶からは近衛騎兵2個大隊が予備とされたが、連合騎兵旅団︵9個大隊︶は予備をつくらなかった。︵Siborne 1993, Letter 5,および、Glover 2004, Letter 16︶ 総兵力はおよそらく18個大隊だが、近衛竜騎兵連隊が3個大隊なのか4個なの確定する史料が存在しない。アックスブリッジは4個大隊と述べているものの︵Siborne 1993, Letter 5︶、連隊の中央部の大隊を指揮したネイラー大尉は3個大隊だったと述べている︵Siborne 1993, Letter 21︶。 (12)^ この逸話はE・ブルース・ローのThe Waterloo Papersに見られる。これは突撃に参加した最後の生き残り兵士であるディクソン曹長に由来する話である。With Napoleon at Waterloo, MacBride, M., (editor), London 1911. (13)^ 犠牲者数はこの戦いの後に会戦全体のものとして集計されたものしかなく、この突撃の結果生じた騎兵旅団の損害に関する数値は全て推定である。会戦後に作成された報告書によると損害は次の通り。近衛騎兵旅団‥初期戦力1,319人、戦死 – 95人、戦傷 – 248人、 行方不明 – 250人、合計 – 593人, 軍馬喪失 – 672頭。 連合騎兵旅団‥初期戦力1,332人、戦死 – 264人、戦傷 – 310人、行方不明 – 38人 合計 – 612人, 軍馬喪失 – 631. Adkin 2001, p. 217 ︵初期戦力︶,Smith 1998, p. 544 ︵損害︶ (14)^ アンドレ・マルローは騎兵部隊の攻撃がイギリス軍の方陣をいくつか破壊したと主張している。マルロー 2004,pp.424-425. (15)^ その後、連隊長は軍法会議にかけられて除隊させられている。この際、彼は部下の兵士︵全員が裕福な若いハノーファー人︶たちは自らの馬で参戦しており、彼らに戦場に留まるよう命じられなかったと主張している。戦いの後に連隊は解散させられ、兵士たちは彼らが不名誉と考える任務に就かされた。︵Siborne 1990, p. 465︶4名がマーサー大尉の騎馬砲兵隊に配属されたが、大尉は彼らを﹁どいつもこいつも呆れるほど怒りっぽく、すねている﹂と評した。 (Mercer 1870). (16)^ ab攻撃を敢行したのは第1中堅近衛擲弾兵連隊の第3および第4大隊、第1中堅近衛猟歩兵連隊第3大隊、第2中堅近衛猟歩兵連隊第3および第4大隊であり、第2古参近衛擲弾兵連隊第24大隊、第2古参近衛猟歩兵連隊第1および第2大隊は予備となった。Adkin 2001, p. 391 (17)^ この発言は一般にピエール・カンブロンヌ旅団将軍のものとされ、1815年6月24日に出版された"Journal General"誌の"journalist Balison de Rougemont"が原典であるが (Shapiro (2006) p. 128)、 カンブロンヌ自身は﹁くそったれ!﹂︵ "Merde!" ︶と言ったと主張している(Boller p. 12)。﹃ザ・タイムズ﹄1932年6月号に掲載された書簡によるとカンブロンヌはこれ以前に既にヒューグ・ハケット大佐の捕虜になっており、もしも本当にこの言葉が発せられたとするならば、それはクロード=エティエンヌ・ミシェル将軍のものとなる(White, and Parry 1900, p. p. 70) (18)^ ﹁近衛兵は死ぬ。降伏などしない!﹂は後世に創作された歴史上の発言の一つであるとする見方もある。この言葉を発したとするカンブロンヌ将軍はこんなことを言ってはいなかった。ビクトル・ユゴーが﹃レ・ミゼラブル﹄の文中で本当の言葉を再現している。それはたった一言﹁メルド︵フランス語で﹁糞便﹂の意味︶﹂︵"Merde!"︶だった。 (David Masson, et al. Macmillan's magazine, Volume 19, Macmillan and Co., 1869, p. 164) (19)^ 歴史家Peter Hofschröerは会見は22時頃にジュナップで行われ、会戦の終了を確認しあったとしている。Hofschröer 1999, p. 151 (20)^ イギリス王ジョージ3世の精神異常により、1811年以降、王太子︵後のジョージ4世︶が摂政に就任していた。 青木康. “ジョージ︵3世︶- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書︵小学館︶. 2012年9月18日閲覧。[リンク切れ]出典[編集]
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- ワーテルローの戦いでのフランス軍、プロイセン軍そして英蘭軍の軍服 : Mont-Saint-Jean (FR)