「ヨーゼフ・ラインベルガー」の版間の差分
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Op.69-3 Abendlied |
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'''ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー'''('''Josef Gabriel Rheinberger''', [[1839年]][[3月17日]] - [[1901年]][[11月25日]])は[[ドイツ連邦]](現[[リヒテンシュタイン]])の[[ファドゥーツ]]に生まれ、[[ドイツ帝国]]の[[ミュンヘン]]に没した[[作曲家]]、[[オルガン]]奏者、[[指揮者]]、教育者。 |
'''ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー'''('''Josef Gabriel Rheinberger''', [[1839年]][[3月17日]] - [[1901年]][[11月25日]])は[[ドイツ連邦]](現[[リヒテンシュタイン]])の[[ファドゥーツ]]に生まれ、[[ドイツ帝国]]の[[ミュンヘン]]に没した[[作曲家]]、[[オルガン]]奏者、[[指揮者]]、教育者。 |
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5歳より音楽教育を受け、7歳でファドゥーツ・聖フローリン教会のオルガン奏者となり<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 1 • Messen für gleiche Stimmen''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 5 • Messe in C''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>なおこのラインベルガーの項目ができた時点で'''パリッシュ教会'''でオルガン奏者となると記されていたが、それは英語版Wikipediaにparish churchと記述されてことが誤訳された物と推測される。parishは﹁教区の﹂という意味で決して固有名詞を表しているわけでは無い。多くのサイトにて﹁パリッシュ教会﹂と引用されているため注意が必要である。</ref>、この頃最初の作曲を行った<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 1 • Messen für gleiche Stimmen''﹄、Carus-Verlag。</ref>。[[1851年]]にミュンヘン音楽院に入学。専攻はピアノ(Emil Leonhardに師事)と音楽理論(Julius Josef Maierに師事)。また他にJohann Georg Herzogにオルガン奏法を師事。3年間の音楽院のコースを終了した後[[フランツ・ラハナー]]に個人指導を受ける<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 5 • Messe in C''﹄、Carus-Verlag。</ref>。[[1859年]]には同音楽院にてピアノ演奏の教師に就任。同年聖ミヒャエル教会のオルガニストに就任<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 1 • Messen für gleiche Stimmen''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 5 • Messe in C''﹄、Carus-Verlag。</ref>(ただし[[1863年]]に就任したとする資料もあり<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 4・Requiem''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 6 • Geistliche Gesänge I für Solostimmen bzw. Frauenchor mit Begleitung''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 7 • Geistliche Gesänge II für gemischten Chor a cappella''﹄、Carus-Verlag。</ref> )。またペータースより初めての作品出版も行う(﹃4つのピアノ曲 op.1﹄)。翌年作曲<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 4・Requiem''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 6 • Geistliche Gesänge I für Solostimmen bzw. Frauenchor mit Begleitung''﹄、Carus-Verlag。</ref>、和声<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 5 • Messe in C''﹄、Carus-Verlag。</ref>、対位法<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 6 • Geistliche Gesänge I für Solostimmen bzw. Frauenchor mit Begleitung''﹄、Carus-Verlag。</ref>、音楽史<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 6 • Geistliche Gesänge I für Solostimmen bzw. Frauenchor mit Begleitung''﹄、Carus-Verlag。</ref>の教授に就任。[[1864年]]ミュンヘン・オラトリオ協会の指揮者に就任(~77年まで)。王立歌劇場の コレペティートルも勤める(〜67年まで)。[[1867年]]4月に女流詩人のフランチェスカ(ファニー)・フォン・ホッフナースと結婚。秋にミュンヘン音楽院が再建されるとオルガンと作曲の教授となり、終生その地位にあった。音楽教師として非常に優秀だったため、ヨーロッパ及びアメリカから彼を慕って生徒が集ま |
5歳より音楽教育を受け、7歳でファドゥーツ・聖フローリン教会のオルガン奏者となり<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 1 • Messen für gleiche Stimmen''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 5 • Messe in C''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>なおこのラインベルガーの項目ができた時点で'''パリッシュ教会'''でオルガン奏者となると記されていたが、それは英語版Wikipediaにparish churchと記述されてことが誤訳された物と推測される。parishは﹁教区の﹂という意味で決して固有名詞を表しているわけでは無い。多くのサイトにて﹁パリッシュ教会﹂と引用されているため注意が必要である。</ref>、この頃最初の作曲を行った<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 1 • Messen für gleiche Stimmen''﹄、Carus-Verlag。</ref>。[[1851年]]にミュンヘン音楽院に入学。専攻はピアノ(Emil Leonhardに師事)と音楽理論(Julius Josef Maierに師事)。また他にJohann Georg Herzogにオルガン奏法を師事。3年間の音楽院のコースを終了した後[[フランツ・ラハナー]]に個人指導を受ける<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 5 • Messe in C''﹄、Carus-Verlag。</ref>。[[1859年]]には同音楽院にてピアノ演奏の教師に就任。同年聖ミヒャエル教会のオルガニストに就任<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 1 • Messen für gleiche Stimmen''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 5 • Messe in C''﹄、Carus-Verlag。</ref>(ただし[[1863年]]に就任したとする資料もあり<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 4・Requiem''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 6 • Geistliche Gesänge I für Solostimmen bzw. Frauenchor mit Begleitung''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 7 • Geistliche Gesänge II für gemischten Chor a cappella''﹄、Carus-Verlag。</ref> )。またペータースより初めての作品出版も行う(﹃4つのピアノ曲 op.1﹄)。翌年作曲<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 4・Requiem''﹄、Carus-Verlag。</ref> <ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 6 • Geistliche Gesänge I für Solostimmen bzw. Frauenchor mit Begleitung''﹄、Carus-Verlag。</ref>、和声<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 5 • Messe in C''﹄、Carus-Verlag。</ref>、対位法<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 6 • Geistliche Gesänge I für Solostimmen bzw. Frauenchor mit Begleitung''﹄、Carus-Verlag。</ref>、音楽史<ref>﹃''Rheinberger Sämtliche Werke 6 • Geistliche Gesänge I für Solostimmen bzw. Frauenchor mit Begleitung''﹄、Carus-Verlag。</ref>の教授に就任。[[1864年]]ミュンヘン・オラトリオ協会の指揮者に就任(~77年まで)。王立歌劇場の コレペティートルも勤める(〜67年まで)。[[1867年]]4月に女流詩人のフランチェスカ(ファニー)・フォン・ホッフナースと結婚。秋にミュンヘン音楽院が再建されるとオルガンと作曲の教授となり、終生その地位にあった。音楽教師として非常に優秀だったため、ヨーロッパ及びアメリカから彼を慕って生徒が集まった。高名な教え子としては[[エンゲルベルト・フンパーディンク]]、[[エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ]]、[[ジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィック]]、[[ホレイショ・パーカー]]([[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]の幼少期に家庭教師をしていたこともあった)などがあげられる。直接の教え子ではないが、[[マックス・レーガー]]や[[マックス・ブルッフ]]などからも慕われた。[[リヒャルト・シュトラウス]]はいくつかの作品のタクトを振った<ref>シュトラウスは1887に年オペラ﹃塔守の娘﹄を代理上演。1894年には﹃オルガン協奏曲第2番 ト短調 op.177﹄の初演を行っている。 ﹃''Josef Gabriel Rheinberger Leben und Werk in Bilden''﹄、Carus-Verlagなど。</ref>。
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[[1877年]]に[[バイエルン]]王・[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィッヒ2世]]によって[[フランツ・ヴュルナー]]の後任として宮廷楽長に任ぜられる。[[1878年]]、『ミサ曲 変ホ長調 op.109(Cantus Missae)』を[[ローマ教皇]][[レオ13世]]に献呈し、聖グレゴリーの騎士に叙せられる。他、[[1887年]]ベルリン王立芸術アカデミーの名誉賞を受賞<ref>『''Josef Gabriel Rheinberger Leben und Werk in Bilden''』、Carus-Verlag</ref>。[[1895年]]バイエルン王室より大十字勲章を授けられ一代貴族に列せられる。[[1899年]]ミュンヘン大学哲学部より名誉哲学博士号の授与、など生前は高い地位と名誉を収めた。[[1892年]]妻フランチェスカの死去以後は孤独な人生を送ったが、創作意欲は衰えず、彼自身が亡くなる年まで作曲・出版が続いた。生存中の最後の出版は『オルガンソナタ第20番 ヘ長調 op.196』。最後の作品『ミサ曲 ト短調 op.197』はクレドの途中で絶筆となった。生前は絶大な人気を誇った作曲家であったが、死後その作品は急速に忘れられていく。 |
[[1877年]]に[[バイエルン]]王・[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィッヒ2世]]によって[[フランツ・ヴュルナー]]の後任として宮廷楽長に任ぜられる。[[1878年]]、『ミサ曲 変ホ長調 op.109(Cantus Missae)』を[[ローマ教皇]][[レオ13世]]に献呈し、聖グレゴリーの騎士に叙せられる。他、[[1887年]]ベルリン王立芸術アカデミーの名誉賞を受賞<ref>『''Josef Gabriel Rheinberger Leben und Werk in Bilden''』、Carus-Verlag</ref>。[[1895年]]バイエルン王室より大十字勲章を授けられ一代貴族に列せられる。[[1899年]]ミュンヘン大学哲学部より名誉哲学博士号の授与、など生前は高い地位と名誉を収めた。[[1892年]]妻フランチェスカの死去以後は孤独な人生を送ったが、創作意欲は衰えず、彼自身が亡くなる年まで作曲・出版が続いた。生存中の最後の出版は『オルガンソナタ第20番 ヘ長調 op.196』。最後の作品『ミサ曲 ト短調 op.197』はクレドの途中で絶筆となった。生前は絶大な人気を誇った作曲家であったが、死後その作品は急速に忘れられていく。 |
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作曲家としてはオルガン曲が有名で、20あるオルガンソナタは彼の代表作である。そのほか宗教曲、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲にも多くの作品を残してい |
作曲家としてはオルガン曲が有名で、20あるオルガンソナタは彼の代表作である。そのほか宗教曲、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲にも多くの作品を残している。[[バッハ]]ほどペダリングが複雑ではない為に、学習用の教材として用いられやすい。
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合唱曲では、3つの宗教的な歌 op.69の第3曲Abendlied(夕べの歌)が小品ながら知られている。 |
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== 作品 == |
== 作品 == |
2014年5月19日 (月) 16:12時点における版
ヨーゼフ・ラインベルガー Josef Gabriel Rheinberger | |
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1880年代撮影 | |
基本情報 | |
生誕 |
1839年3月17日 ドイツ連邦、ファドゥーツ |
死没 |
1901年11月25日(62歳没) ドイツ帝国、ミュンヘン |
職業 | 作曲家、オルガン奏者、指揮者、教育者 |