佐々木勇之助
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佐々木勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年(嘉永7年)8月8日 - 1943年(昭和18年)12月28日)は東京出身の銀行家、実業家、号は茗香。
ささき ゆうのすけ
佐々木 勇之助 | |
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生誕 | 嘉永7年(1854年)8月8日 |
死没 | 昭和18年(1943年)12月28日(89歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 銀行家/実業家 |
肩書き | 第一銀行頭取 |
来歴
嘉永7年8月8日[1]、江戸本所六軒堀で生まれる。父は旗本浅野伊賀守の家臣佐々木直右衛門。幕府講武所傘下で築地にあった軍艦操練所で数学始め西洋実学を修得。明治維新後、三井小野組の為替方に入るが、明治6年第一国立銀行創立と同時に移籍。勤勉精励、謹厳方正な仕事ぶりを当時の総監渋沢栄一に見込まれ、銀行伝習生に選ばれる[2]。銀行伝習生として、お雇い外国人の英国人シャンドラから直接に銀行簿記を修得。第一国立銀行帳面課長︵財務部長に相当︶、支配人と栄進を重ね、明治29年銀行名から国立を廃し株式会社第一銀行と名称組織を変更する際に取締役に選任される。明治39年には取締役総支配人に就任。頭取であった渋沢は、以降第一銀行の実務を佐々木に実質一任し、自身は財界活動や慈善活動に益々時間を割いた[2]。大正5年には渋沢の後任として第一銀行第二代頭取に就任し昭和6年まで在任。
また銀行業務と同時に明治45年から昭和2年まで澁澤倉庫会長も兼務し、渋沢の理念であった銀行業と倉庫業を通じた商工業の育成発展に取り組んだ[3]。その間、東京銀行集会所会長、東京貯蓄銀行相談役、東洋生命監査役など多数の公職を歴任。自身財界の重鎮として重きを成したが、終始渋沢栄一の補佐に意を注いだ。渋沢の極めて多方面にわたる精力的な活躍は、佐々木の人格と手腕による補佐あってのものと言われている[4]。昭和18年12月28日死去[1]。享年89才、墓所も谷中霊園渋沢家墓地に隣接。長男謙一郎は官界に進み専売局長官、満鉄副総裁。次男修二郎は実業界に進み第一銀行副頭取、澁澤倉庫会長。
関連項目
脚注
参考文献
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- 福沢桃介『財界人物我観』ダイヤモンド社 1930年
- 『第一銀行史』第一銀行八十年史編纂室 1957年
- 『渋沢栄一伝記資料』渋沢青淵記念財団竜門社 1969年
- 『澁澤倉庫百年史』澁澤倉庫百年史編纂委員会 1999年
- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ 2004