「佐伯有義」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目:
'''佐伯 有義'''(さえき ありよし、[[慶応]]3年10月([[1867年]]) - [[昭和]]20年([[1945年]])[[9月25日]])は、[[富山県]]出身の[[神職]]、[[神道]]学者である。
[[慶応]]3年︵1867年︶10月、代々[[雄山神社|立山雄山神社]]の祠職を勤める佐伯有久の子として、[[富山県]][[中新川郡]][[立山村]]に生まれる。[[明治]]15年︵[[1882年]]︶上京して[[皇典講究所]]へ入学、同20年︵[[1887年]]︶ に同所を卒業して、﹃[[古事類苑]]﹄の編纂等に携わり、同25年︵[[1892年]]︶[[宮内省]][[掌典|掌典職]]を拝命、同28年︵[[1895年]]︶には気多神社︵現[[気多大社]]︶の[[宮司]]に任官、同38年︵[[1905年]]︶[[帝室制度調査局]]から﹁皇室諸令附式﹂の起草を嘱託され、同45年︵[[1912年]]︶[[六国史]]校訂材料取調掛、[[大正]]元年︵1912年︶[[大喪|大喪使]]事務官、翌2年︵[[1913年]]︶[[即位の礼|大礼使]]事務官を歴任し、同14年︵[[1925年]]︶に勅任待遇を受け、翌15年︵[[1926年]]︶[[従四位]]に叙される。[[昭和]]2年︵[[1927年]]︶に[[國學院大學]]の講師、同11年︵[[1936年]]︶に同教授となり、その間に[[無窮會]][[東洋文化研究所]]講師も兼ねながら、特殊祭儀委員、礼典課長事務取扱を経て、同18年︵[[1943年]]︶学位論文﹁古代における朝儀の祭祀につきて﹂で國學院大學の[[文学博士|文学博士号]]を受けた。[[昭和]]20年︵[[1945年]]︶9月25日、郷里富山での疎開中に没す。享年79。 == 経歴 ==
*[[慶応]]3年(1867年)10月 - 立山雄山神社の祠職佐伯家に生まれる。
*[[明治]]15年(1882年) - 皇典講究所へ入学。
*明治20年(1887年) - 皇典講究所卒業。
*明治23年(1890年) - 『古事類苑』の編纂を嘱託される。
12行目:
*明治38年(1905年) - 皇室諸令附式の起草を嘱託される。
*明治45年(1912年) - 六国史校訂材料取調掛に就任。
*[[大正]]元年(1912年) - 大喪使事務官に就任。
*大正2年(1913年) - 大礼使事務官に就任。
*大正11年(1922年) - 勲四等瑞宝章を受勲。
*大正14年(1925年) - 勅任待遇。
*大正15年(1926年) - 叙従四位。
*[[昭和]]2年(1927年) - 國學院大學講師に就任。
*昭和11年(1936年) - 國學院大學教授に就任。
*昭和18年(1943年) - 國學院大學文学博士。
|
2010年11月15日 (月) 18:32時点における版
佐伯 有義︵さえき ありよし、慶応3年10月︵1867年︶ - 昭和20年︵1945年︶9月25日︶は、富山県出身の神職、神道学者である。
慶応3年︵1867年︶10月、代々立山雄山神社の祠職を勤める佐伯有久の子として、富山県中新川郡立山村に生まれる。明治15年︵1882年︶上京して皇典講究所へ入学、同20年︵1887年︶ に同所を卒業して、﹃古事類苑﹄の編纂等に携わり、同25年︵1892年︶宮内省掌典職を拝命、同28年︵1895年︶には気多神社︵現気多大社︶の宮司に任官、同38年︵1905年︶帝室制度調査局から﹁皇室諸令附式﹂の起草を嘱託され、同45年︵1912年︶六国史校訂材料取調掛、大正元年︵1912年︶大喪使事務官、翌2年︵1913年︶大礼使事務官を歴任し、同14年︵1925年︶に勅任待遇を受け、翌15年︵1926年︶従四位に叙される。昭和2年︵1927年︶に國學院大學の講師、同11年︵1936年︶に同教授となり、その間に無窮會東洋文化研究所講師も兼ねながら、特殊祭儀委員、礼典課長事務取扱を経て、同18年︵1943年︶学位論文﹁古代における朝儀の祭祀につきて﹂で國學院大學の文学博士号を受けた。昭和20年︵1945年︶9月25日、郷里富山での疎開中に没す。享年79。
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
経歴
●慶応3年︵1867年︶10月 - 立山雄山神社の祠職佐伯家に生まれる。 ●明治15年︵1882年︶ - 皇典講究所へ入学。 ●明治20年︵1887年︶ - 皇典講究所卒業。 ●明治23年︵1890年︶ - ﹃古事類苑﹄の編纂を嘱託される。 ●明治25年︵1892年︶ - 掌典を拝命。 ●明治28年︵1895年︶ - 気多神社宮司に任官。 ●明治38年︵1905年︶ - 皇室諸令附式の起草を嘱託される。 ●明治45年︵1912年︶ - 六国史校訂材料取調掛に就任。 ●大正元年︵1912年︶ - 大喪使事務官に就任。 ●大正2年︵1913年︶ - 大礼使事務官に就任。 ●大正11年︵1922年︶ - 勲四等瑞宝章を受勲。 ●大正14年︵1925年︶ - 勅任待遇。 ●大正15年︵1926年︶ - 叙従四位。 ●昭和2年︵1927年︶ - 國學院大學講師に就任。 ●昭和11年︵1936年︶ - 國學院大學教授に就任。 ●昭和18年︵1943年︶ - 國學院大學文学博士。 ●昭和20年︵1945年︶9月25日 - 逝去。享年79。![この節は執筆の途中です](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d4/Stubico.png/30px-Stubico.png)
編著書
著書
- 『大日本神祇史』国晃館(大正2年)
- 『臣民の道精義』広文堂(昭和16年)
編書
- 『神祇全書』皇典講究所(明治39-41年)
- 『神道文献総目録』
- 『神道大辞典』平凡社(昭和12-15年)
関連項目
参考文献
- 『東洋文化と明日』無窮會、昭和45年
- 『神道人名辞典』神社新報社、昭和61年 ISBN 4-915265-56-0