「佐伯矩」の版間の差分
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[[1876年]]9月1日、[[愛媛県]][[新居郡]][[氷見町|氷見村]]︵現・[[西条市]]︶の医師の家に生まれる。 |
[[1876年]]9月1日、[[愛媛県]][[新居郡]][[氷見町|氷見村]]︵現・[[西条市]]︶の医師の家に生まれる。3歳頃、愛媛県[[伊予郡]][[本郡村]]︵現・[[伊予市]]︶に移り、少年時代は[[北山崎村]]、[[郡中町]]︵現・[[伊予市]]︶で育つ。旧制松山中学校︵現・[[愛媛県立松山東高等学校]]︶、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]医学部︵現・[[岡山大学]]医学部︶を卒業<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812904/219 第三高等学校一覧 明治32年9月起明治33年8月止]|page=173|publisher=第三高等学校|year=1899|editor=第三高等学校}}</ref>後、[[京都大学大学院医学研究科・医学部|京都帝国大学医科大学]]に進学。[[荒木寅三郎]]に師事し医化学を学ぶ。研究は﹁米と塩を以って生活できるか否かについての研究﹂などで、すでに栄養に関心があったことが分かる。1901年、京都帝大を卒業。
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[[1902年]] |
[[1902年]]に上京し、[[東京大学医科学研究所|内務省伝染病研究所]]の[[北里柴三郎]]のもとで細菌学と毒素化学を学ぶ。[[1904年]]、﹁大根[[ジアスターゼ]]﹂という大根中の[[消化酵素]]を発見し学会で発表する<ref>{{Cite Book|和書|chapter=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1028477/31 栄養研究機関並栄養士養成機関発達史参考資料]|title=栄養範本:栄養学校創立十一週年記念|publisher=栄養士会|year=1936}}</ref>。これにより一般大衆が好んで大根を用いるようになった。夏目漱石の﹃[[吾輩は猫である]]﹄にも登場することになる<ref>夏目漱石 ﹃[{{NDLDC|888725/66}} 吾輩ハ猫デアル]﹄ 上巻、大倉書店、1905年。119頁。</ref>。
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[[1905年]]、[[イェール大学]]大学院に留学する。[[1911年]]までアメリカ滞在が続く。その間、アメリカ合衆国政府農商務省技師や医科大学講師などを歴任する。栄養問題研究のためヨーロッパ諸国の実情を視察する。[[1912年]]父病のため郷里[[伊予郡]]北山崎村本郡︵現・[[伊予市]]︶へ帰り看病する。︵父死去︶
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[[1905年]]、[[イェール大学]]大学院に留学する。[[1911年]]までアメリカ滞在が続く。その間、アメリカ合衆国政府農商務省技師や医科大学講師などを歴任する。栄養問題研究のためヨーロッパ諸国の実情を視察する。[[1912年]]、父病のため郷里[[伊予郡]]北山崎村本郡︵現・[[伊予市]]︶へ帰り看病する。︵父死去︶
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[[1913年]]、上京。[[1914年]]、東京芝区[[白金 (東京都港区)|白金]]三光町に'''私立栄養研究所'''を設立する。世界初の'''栄養学研究機関'''であった。米の研究を行い、文部省から研究補助費を受ける。中でも米の精製度の研究は後に大きく寄与していく。[[1916年]]、研究所を東京[[芝 (東京都港区)|芝]]金杉川口町に移転する。[[1917年]]、世界初の栄養学講習会を開く。[[1918年]]、文部省に﹁営養﹂の表記を﹁'''栄養'''﹂に統一するよう建言し、これより後に完全に定着した。穀物の胚子︵胚芽︶には栄養が豊富だとして﹁胚子米︵胚芽米︶﹂を提唱している。また淘洗︵米を |
[[1913年]]、上京。[[1914年]]、東京芝区[[白金 (東京都港区)|白金]]三光町に'''私立栄養研究所'''を設立する。世界初の'''栄養学研究機関'''であった。米の研究を行い、文部省から研究補助費を受ける。中でも米の精製度の研究は後に大きく寄与していく。[[1916年]]、研究所を東京[[芝 (東京都港区)|芝]]金杉川口町に移転する。[[1917年]]、世界初の栄養学講習会を開く。[[1918年]]、文部省に﹁営養﹂の表記を﹁'''栄養'''﹂に統一するよう建言し、これより後に完全に定着した。穀物の胚子︵胚芽︶には栄養が豊富だとして﹁胚子米︵胚芽米︶﹂を提唱している。また淘洗︵米を研ぎ洗いすること︶による栄養損失の問題も警告している。研究所に16社の新聞社を招待し、胚芽米の実演と試食を行った。
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[[1919年]](大正8年)、国立栄養研究所の設立を強調し衆議院に参考資料を提出する。「経済栄養法」を提唱し、安価な食事でも栄養は摂取できることを広めた。 |
[[1919年]](大正8年)、国立栄養研究所の設立を強調し衆議院に参考資料を提出する。「経済栄養法」を提唱し、安価な食事でも栄養は摂取できることを広めた。 |
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[[1920年]]︵大正9年︶、内務省栄養研究所が開設され、 |
[[1920年]]︵大正9年︶、内務省栄養研究所が開設され、佐伯は初代所長となる<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/984072/15 栄養研究所彙報]|page=1|publisher=栄養研究所|year=1924}}</ref>。
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[[1921年]](大正10年)、「[[栄養学会]]」を設立する。 |
[[1921年]](大正10年)、「[[栄養学会]]」を設立する。 |
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[[1922年]]︵大正11年︶、精米の度合いは胚芽を含む七分搗米が良いとして奨励する。10月19日、当時[[摂政]]であった[[昭和天皇]]が国立栄養研究所を視察し、それ以降、昭和天皇は七分搗米を用いるようになった。
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[[1922年]]︵大正11年︶、精米の度合いは胚芽を含む七分搗米が良いとして奨励する。10月19日、当時[[摂政]]であった[[昭和天皇]]が国立栄養研究所を視察し、それ以降、昭和天皇は七分搗米を用いるようになった。
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[[1924年]]︵大正13年︶、私立の栄養研究所跡に、世界初の'''[[栄養士養成施設]]'''である''' |
[[1924年]](大正13年)、私立の栄養研究所跡に、世界初の'''[[栄養士養成施設]]'''である'''栄養学校'''(現在の'''[[佐伯栄養専門学校]]''')を開設し、卒業生を'''[[栄養士]]'''と称した。 |
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[[1925年]](大正14年)、東京で行われた国際医学会議で講演を行う。 |
[[1925年]](大正14年)、東京で行われた国際医学会議で講演を行う。 |
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[[1927年]](昭和2年)、[[国際連盟]]の要請によ |
[[1927年]](昭和2年)、[[国際連盟]]の要請により国際連盟交換教授として欧米で講演する。 |
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[[1928年]](昭和3年)、国際連盟から日本の栄養研究の業績はすみやかに世界に利用されるべきと意見があり、 |
[[1928年]](昭和3年)、国際連盟から日本の栄養研究の業績はすみやかに世界に利用されるべきとの意見があり、佐伯は「日本における栄養科学の発達」を書き国際連盟に送った。 |
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[[1934年]](昭和9年)、世界に先駆けて、[[日本栄養学会]]として'''栄養学'''が独立する。 |
[[1934年]](昭和9年)、世界に先駆けて、[[日本栄養学会]]として'''栄養学'''が独立する。 |
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[[1937年]]︵昭和12年︶、 |
[[1937年]]︵昭和12年︶、佐伯は国際連盟東洋農村国際衛生会議で、日本における栄養学の発展を述べ、参加各国に栄養研究所を設けること、栄養士の養成、玄米と白米の中間である分搗米を用いることを要望し決議される。
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[[1938年]](昭和13年)、[[厚生省]]が新設され、栄養研究所の管轄が厚生省に移る。 |
[[1938年]](昭和13年)、[[厚生省]]が新設され、栄養研究所の管轄が厚生省に移る。 |
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[[1941年]](昭和16年)、勲三等[[旭日中綬章]]受章。 |
[[1941年]](昭和16年)、勲三等[[旭日中綬章]]受章。 |
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[[1945年]](昭和20年)、厚生省によって栄養士規則の発令によって、栄養士養成所の規則ができた。 |
[[1945年]](昭和20年)、厚生省によって栄養士規則の発令によって、栄養士養成所の規則ができた。 |
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[[1947年]](昭和22年)、[[国立栄養研究所]]が再置され、柳金太郎が初代の所長となる。'''[[栄養士法]]'''が公布された。 |
[[1947年]]︵昭和22年︶、[[国立栄養研究所]]が再置され、柳金太郎が初代の所長となる。同年、'''[[栄養士法]]'''が公布された。
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[[1959年]]︵昭和34年︶11月29日、急性肺炎により没 |
[[1959年]]︵昭和34年︶11月29日、急性肺炎により死去。73歳没。叙・[[従三位]]勲二等。墓所は[[愛媛県]][[西条市]]の岡林墓地。[[顕彰碑]]は[[愛媛県]][[伊予市]]の[[栄養寺]]や[[東京都]][[大田区]]の[[池上本門寺]]にある。
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== 七分搗米 == |
== 七分搗米 == |
2023年5月7日 (日) 06:00時点における版
佐伯 矩 | |
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生誕 |
1886年9月1日![]() |
死没 |
1959年11月29日(73歳没) 急性肺炎 |
国籍 |
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研究分野 | 栄養学 |
主な業績 | 栄養学の創始 |
プロジェクト:人物伝 |