吾輩は猫である
吾輩は猫である 吾輩ハ猫デアル(初版表記) | ||
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著者 | 夏目金之助(漱石) | |
発行日 | 1905年10月6日、1906年11月4日、1907年5月19日ほか | |
発行元 | 服部書店・大倉書店ほか | |
ジャンル | 風刺、喜劇 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本語 | |
形態 | 3分冊 | |
ページ数 | 上290、中238、下218 | |
ウィキポータル 文学 | ||
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﹃吾輩は猫である﹄︵わがはいはねこである︶は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年︵明治38年︶1月、﹃ホトトギス﹄にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年︵明治39年︶8月まで継続した。上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
中学の英語教師珍野苦沙弥︵ちんのくしゃみ︶の家に飼われる猫が、主人や家族、あるいはそこに集まる迷亭、寒月、東風、独仙らといった高等遊民たちの言動を観察・記録して、人間の愚劣さや滑稽さ、醜悪さを痛烈に批判し、嘲笑するという趣向の小説である[1]。作中では金権主義の実業家に対する罵倒など、漱石の正義感が遺憾なく吐露される[2]一方で、知識人漱石の深い厭世観に根ざす文明批評が、滑稽味と独特に混淆して表現されている[3]。
なお実際、本作品執筆前に、夏目家に猫が迷い込み、飼われることになった。その猫も、ずっと名前がなかったという。
﹃吾輩は猫である﹄原稿の一部
漱石が所属していた俳句雑誌﹃ホトトギス﹄では、小説も盛んになり、高浜虚子や伊藤左千夫らが作品を書いていた。こうした中で虚子に勧められて漱石も小説を書くことになった。
現在の﹃吾輩は猫である﹄︵第一話︶に相当する文章は、最初﹃猫伝﹄と称され、虚子らの文章会﹁山会﹂[5]1904年12月で朗読され[6][7]好評を博した。そのため第一話は単体で終了しても良い形でまとめられたものであった
[8][9]。これを漱石の許可を得た上で虚子が加筆訂正し[8][10]1905年1月に﹃ホトトギス﹄上で発表した。これが好評になり、虚子の勧めで翌年8月まで、全11回連載し、掲載誌﹃ホトトギス﹄は売り上げを大きく伸ばした︵元々俳句雑誌であったが、有力な文芸雑誌の一つとなった︶[8][注 1]。
﹁吾輩は猫である﹂の着想については、小説連載途中の1906年︵明治39︶5月に漱石の友人の藤代素人が﹃新小説﹄に﹁猫文士気燄録﹂を発表し、その中でドイツロマン派の文学者E.T.A.ホフマンの長編小説﹃カーテル・ムル︵牡猫ムルの人生観︶﹄︵1820︶の存在を指摘しており、漱石はこれを受け同年8月に発表された本作最終回︵第十一︶の作品の中で猫の独白の形で、驚きとともにやんわりと否定的に言及している。石崎等によれば漱石は文学史上、ホフマンの猫の存在は知っていた可能性があるかもしれないが、読んでいたという確証はなく、また本作からはその形跡を認めることはできないとし、第十一話ではドイツ産の﹁カーテル・ムルという見ず知らずの同族﹂などまったく眼中になかった様子がうかがわれるとしている[11][注 2][注 3][12]。
また﹃吾輩は猫である﹄の構成は、﹃トリストラム・シャンディ﹄の影響とも考えられている[13][14]。
漱石の母校・錦華小学校︵現・千代田区立お茶の水小学校︶の前にある ﹁吾輩は猫である﹂の記念碑[15]
吾輩︵主人公の猫︶
珍野家で飼われている雄猫[16]。本編の語り手。﹁吾輩﹂は一人称であり、彼自身に名前はない。人間の生態を鋭く観察したり、猫ながら古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。人間の内心を読むこともできる。三毛子に恋心を抱いている。最後は飲み残しのビールに酔い、水甕に落ちて出られぬまま溺れ死ぬ︵第十一話︶。毛色は淡灰色の斑入︵第六話︶。生年は、苦沙弥先生が猫を描いた年賀状を見ながら﹁今年は征露の第二年目﹂と呟いていること︵第二話︶から1905年︵明治38年︶とわかるので、その前年の1904年︵明治37年︶生まれ。年齢は、第七話では﹁去年生れたばかりで、当年とつて一歳だ﹂、第十一話では﹁猫と生れて人の世に住む事もはや二年越し﹂。
三毛子
隣宅に住む二絃琴の御師匠さんの家の雌猫[17]。﹁吾輩﹂を﹁先生﹂と呼ぶ。猫のガールフレンドだったが風邪をこじらせて死んでしまった︵第二話︶。﹁吾輩﹂が自分を好いていることに気付いていない。
車屋の黒
大柄な雄の黒猫。べらんめえ調で教養がなく、大変な乱暴者なので﹁吾輩﹂は恐れている。しかし、魚屋に天秤棒で殴られて足が不自由になる︵第一話︶。
白
軍人の家に飼われる猫。吾輩に尊敬される。子猫を四匹産むが全て書生に棄てられたことを嘆く。第三話以降は登場しない。
珍野 苦沙弥︵ちんの くしゃみ︶ 猫﹁吾輩﹂の飼い主で、文明中学校の英語教師︵リーダー専門︶。父は場末の名主で︵第九話︶、その一家は真宗︵第四話︶。年齢は、学校を卒業して9年目か︵第五話︶、また﹁三十面︵づら︶下げて﹂と言われる︵第四話︶。妻と3人の娘がいる。偏屈な性格で、胃が弱く、ノイローゼ気味である︵漱石自身がモデルとされる︶。あばた面で、くちひげをたくわえる。その顔は今戸焼のタヌキとも評される︵第三、八、十話︶。頭髪は長さ二寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず︵第十一話︶、平生なら猪口で2杯︵第七話︶。わからぬもの、役人や警察をありがたがる癖がある︵第九話︶。なお胃弱で健康に気を遣うあまり、毎食後にはタカジアスターゼを飲み、また時には鍼灸術を受け悲鳴を上げたり按腹もみ療治を受け悶絶したりとかなりの苦労人でもある。 迷亭︵めいてい︶ 苦沙弥の友人の美学者。ホラ話で人をかついで楽しむのが趣味の粋人。近眼で、金縁眼鏡を装用し、金唐皮の烟草入を使用する。 美学者大塚保治がモデルともいわれるが漱石は否定している[18]。漱石の妻鏡子の著書﹃漱石の思ひ出﹄には、漱石自身が自らの洒落好きな性格を一人歩きさせたのではないかとする内容の記述がある。 水島 寒月︵みずしま かんげつ︶ 苦沙弥の元教え子の理学士で、苦沙弥を﹁先生﹂とよぶ。戸惑いしたヘチマのような顔︵第四話︶。高校生時代からバイオリンをたしなむ。第三話で富子の母の口から、寒月から富子に惚れたと語られるが、吾輩の見立てでは富子が寒月に一方的に恋慕している︵第五話︶[19]。故郷は鰹節の名産地︵第十一話︶。吸うタバコは朝日と敷島。門下生の寺田寅彦がモデルといわれる。 越智 東風︵おち とうふう︶ 新体詩人で、寒月の友人。﹁おち こち﹂と自称している。迷亭たちとの朗読会に金田富子を招待し、後日富子に捧げる五六十枚ほどの詩を書く︵第六話︶。人間が絶対の域に至る道は芸術と恋であり、夫婦の愛が愛の代表であるから未婚でいることは天の意志にそむくことになるという[20]︵第十一話︶。 八木 独仙︵やぎ どくせん︶ 哲学者。長い顔にヤギのような髭を生やし、深遠な警句を語る。40歳前後。高木[21]によれば第三話で曽呂崎︵天然居士︶としても言及される米山保三郎[22]がモデル[23]。 甘木先生 苦沙弥の主治医、温厚な性格。苦沙弥に乞われ催眠術をかけるが、かからなかった。モデルは尼子四郎と考えられており、執筆時の漱石宅の隣人で、漱石の妻・夏目鏡子が述べているように、四郎は夏目家の家庭医でもあった[24][25][26]。 金田︵かねだ︶ 近所の実業家。苦沙弥に嫌われている。苦沙弥をなんとかして凹ませてやろうと嫌がらせをする。 金田 鼻子︵はなこ︶ 金田の細君。寒月と自分の娘との縁談について珍野邸に相談に来るが、横柄な態度で苦沙弥に嫌われ、迷亭による容貌への揶揄は寒月からヒヤヒヤと反応された︵第三話︶。巨大な鍵鼻の持ち主で﹁鼻子﹂と﹁吾輩﹂に称される︵鼻が大きくて﹁鼻の圓遊﹂と呼ばれた明治の落語家初代三遊亭圓遊にヒントを得て創作されたという説がある︶。年齢は40の上を少し超したくらい︵第三話︶。 金田 富子︵とみこ︶ 金田の娘。母親似でわがままだが、巨大な鼻までは母親に似ていない。寒月に演奏会で一目惚れする。阿倍川餅が大の好物。 鈴木 籐十郎︵すずき とうじゅうろう︶ 苦沙弥、迷亭の学生時代の同級生。工学士。九州の炭鉱にいたが東京詰めになる︵月給250円+盆暮の手当、第五話︶。金田家に出入りし、金田の意を受けて苦沙弥の様子をさぐる。 多々良 三平︵たたら さんぺい︶ 苦沙弥の家の元書生。肥前国唐津の出身。法学士。六つ井物産会社役員︵月給30円、第五話︶。貯蓄は50円。猫鍋をしきりと恩師である苦沙弥にすすめる︵第五話︶。 牧山︵まきやま︶ 静岡在住の迷亭の伯父。漢学者。赤十字総会出席のため上京し、苦沙弥宅を訪問する。丁髷を結い、武士の暗器・鍛錬具である鉄扇を手放さない、まさしく旧幕時代の権化のような人物である︵第九話︶。 珍野夫人 珍野苦沙弥の細君。英語や小難しい話はほとんど通じない。頭にハゲがあり、身長は低い︵第四話︶。いびきをかく︵第五話︶。漱石の妻鏡子がモデルとも。 珍野 とん子 珍野家の長女。﹁お茶の水﹂を﹁お茶の味噌﹂と、﹁元禄﹂を﹁双六﹂と、﹁火の粉﹂を﹁茸︵きのこ︶﹂と、﹁大黒︵だいこく︶﹂を﹁台所︵だいどこ︶﹂と、﹁裏店︵うらだな︶﹂を﹁藁店︵わらだな︶﹂と言うような、言葉間違いが多い。顔の輪郭は、南蛮鉄の刀の鍔のようである︵第十話︶。 珍野 すん子 珍野の次女。いつも姉のとん子と一緒にいる。顔は、琉球塗りの朱盆のようである︵第十話︶。 珍野 めん子 珍野家の三女。﹁当年とつて三歳﹂︵第十話︶。通称﹁坊ば﹂。﹁ばぶ﹂が口癖。顔は、横に長い面長︵おもなが︶︵第十話︶。 御三︵おさん︶ 珍野家の下女。清︵きよ︶とも[27]。主人公の猫﹁吾輩﹂を好いていない。埼玉うまれ︵第八話︶。睡眠中に歯ぎしりをする︵第五話︶。 雪江 苦沙弥の姪、女学生。17、8歳。時々珍野邸に来て苦沙弥とケンカする。寒月に淡い恋心を抱いている。モデルは久保より江とされる[28]。 二絃琴の御師匠さん 三毛子の飼い主。﹁天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘﹂である。 古井 武右衛門︵ふるい ぶえもん︶ 珍野の監督下の中学生。2年乙組。頭部が大きく毬栗頭。 吉田 虎蔵︵よしだ とらぞう︶ 警視庁浅草警察署日本堤分署の刑事巡査。 泥棒陰士 水島寒月と酷似する容貌の窃盗犯。長身で、26、7歳。喫煙者。 八︵や︶っちゃん 車屋の子供。苦沙弥先生が怒る度泣くという嫌がらせを金田から依頼された。猫塚
﹃猫﹄が執筆された当時の漱石邸は東京市本郷区駒込千駄木町︵現・文京区向丘2丁目︶にあった。この家は愛知県の野外博物館・明治村に移築されていて公開されている。東京都新宿区早稲田南町の漱石山房記念館︵漱石山房跡地︶には﹁猫塚﹂があるが、戦災で焼損し戦後その残欠から復元したものだという。
最終回で、迷亭が苦沙弥らに﹁詐欺師の小説﹂を披露するが、これはロバート・バーの﹃放心家組合﹄のことである。この事実は、大蔵省の機関誌﹃ファイナンス﹄1966年4月号において、林修三によって初めて指摘された[38]。同様の指摘は、1971年2月号の文藝春秋誌上で山田風太郎によっても行われている。
漱石は三代目柳家小さんなどの落語を愛好したが、﹃猫﹄は落語の影響が強く見られる作品である[39]。
第三話にて寒月が講演の練習をする﹁首縊りの力学﹂は、漱石の弟子で物理学者・随筆家の寺田寅彦が提供した実在の論文、Samuel Haughton "On Hanging ; Considered from a Mechanical and Physiological Point of View" が基になっている[注 5]。
概要[編集]
﹁吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。﹂という書き出しで始まり、中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である﹁吾輩﹂の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たち、﹁太平の逸民﹂︵第二話、第三話︶の人間模様が風刺的・戯作的[4]に描かれている。登場する人物と動物[編集]
珍野 苦沙弥︵ちんの くしゃみ︶ 猫﹁吾輩﹂の飼い主で、文明中学校の英語教師︵リーダー専門︶。父は場末の名主で︵第九話︶、その一家は真宗︵第四話︶。年齢は、学校を卒業して9年目か︵第五話︶、また﹁三十面︵づら︶下げて﹂と言われる︵第四話︶。妻と3人の娘がいる。偏屈な性格で、胃が弱く、ノイローゼ気味である︵漱石自身がモデルとされる︶。あばた面で、くちひげをたくわえる。その顔は今戸焼のタヌキとも評される︵第三、八、十話︶。頭髪は長さ二寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず︵第十一話︶、平生なら猪口で2杯︵第七話︶。わからぬもの、役人や警察をありがたがる癖がある︵第九話︶。なお胃弱で健康に気を遣うあまり、毎食後にはタカジアスターゼを飲み、また時には鍼灸術を受け悲鳴を上げたり按腹もみ療治を受け悶絶したりとかなりの苦労人でもある。 迷亭︵めいてい︶ 苦沙弥の友人の美学者。ホラ話で人をかついで楽しむのが趣味の粋人。近眼で、金縁眼鏡を装用し、金唐皮の烟草入を使用する。 美学者大塚保治がモデルともいわれるが漱石は否定している[18]。漱石の妻鏡子の著書﹃漱石の思ひ出﹄には、漱石自身が自らの洒落好きな性格を一人歩きさせたのではないかとする内容の記述がある。 水島 寒月︵みずしま かんげつ︶ 苦沙弥の元教え子の理学士で、苦沙弥を﹁先生﹂とよぶ。戸惑いしたヘチマのような顔︵第四話︶。高校生時代からバイオリンをたしなむ。第三話で富子の母の口から、寒月から富子に惚れたと語られるが、吾輩の見立てでは富子が寒月に一方的に恋慕している︵第五話︶[19]。故郷は鰹節の名産地︵第十一話︶。吸うタバコは朝日と敷島。門下生の寺田寅彦がモデルといわれる。 越智 東風︵おち とうふう︶ 新体詩人で、寒月の友人。﹁おち こち﹂と自称している。迷亭たちとの朗読会に金田富子を招待し、後日富子に捧げる五六十枚ほどの詩を書く︵第六話︶。人間が絶対の域に至る道は芸術と恋であり、夫婦の愛が愛の代表であるから未婚でいることは天の意志にそむくことになるという[20]︵第十一話︶。 八木 独仙︵やぎ どくせん︶ 哲学者。長い顔にヤギのような髭を生やし、深遠な警句を語る。40歳前後。高木[21]によれば第三話で曽呂崎︵天然居士︶としても言及される米山保三郎[22]がモデル[23]。 甘木先生 苦沙弥の主治医、温厚な性格。苦沙弥に乞われ催眠術をかけるが、かからなかった。モデルは尼子四郎と考えられており、執筆時の漱石宅の隣人で、漱石の妻・夏目鏡子が述べているように、四郎は夏目家の家庭医でもあった[24][25][26]。 金田︵かねだ︶ 近所の実業家。苦沙弥に嫌われている。苦沙弥をなんとかして凹ませてやろうと嫌がらせをする。 金田 鼻子︵はなこ︶ 金田の細君。寒月と自分の娘との縁談について珍野邸に相談に来るが、横柄な態度で苦沙弥に嫌われ、迷亭による容貌への揶揄は寒月からヒヤヒヤと反応された︵第三話︶。巨大な鍵鼻の持ち主で﹁鼻子﹂と﹁吾輩﹂に称される︵鼻が大きくて﹁鼻の圓遊﹂と呼ばれた明治の落語家初代三遊亭圓遊にヒントを得て創作されたという説がある︶。年齢は40の上を少し超したくらい︵第三話︶。 金田 富子︵とみこ︶ 金田の娘。母親似でわがままだが、巨大な鼻までは母親に似ていない。寒月に演奏会で一目惚れする。阿倍川餅が大の好物。 鈴木 籐十郎︵すずき とうじゅうろう︶ 苦沙弥、迷亭の学生時代の同級生。工学士。九州の炭鉱にいたが東京詰めになる︵月給250円+盆暮の手当、第五話︶。金田家に出入りし、金田の意を受けて苦沙弥の様子をさぐる。 多々良 三平︵たたら さんぺい︶ 苦沙弥の家の元書生。肥前国唐津の出身。法学士。六つ井物産会社役員︵月給30円、第五話︶。貯蓄は50円。猫鍋をしきりと恩師である苦沙弥にすすめる︵第五話︶。 牧山︵まきやま︶ 静岡在住の迷亭の伯父。漢学者。赤十字総会出席のため上京し、苦沙弥宅を訪問する。丁髷を結い、武士の暗器・鍛錬具である鉄扇を手放さない、まさしく旧幕時代の権化のような人物である︵第九話︶。 珍野夫人 珍野苦沙弥の細君。英語や小難しい話はほとんど通じない。頭にハゲがあり、身長は低い︵第四話︶。いびきをかく︵第五話︶。漱石の妻鏡子がモデルとも。 珍野 とん子 珍野家の長女。﹁お茶の水﹂を﹁お茶の味噌﹂と、﹁元禄﹂を﹁双六﹂と、﹁火の粉﹂を﹁茸︵きのこ︶﹂と、﹁大黒︵だいこく︶﹂を﹁台所︵だいどこ︶﹂と、﹁裏店︵うらだな︶﹂を﹁藁店︵わらだな︶﹂と言うような、言葉間違いが多い。顔の輪郭は、南蛮鉄の刀の鍔のようである︵第十話︶。 珍野 すん子 珍野の次女。いつも姉のとん子と一緒にいる。顔は、琉球塗りの朱盆のようである︵第十話︶。 珍野 めん子 珍野家の三女。﹁当年とつて三歳﹂︵第十話︶。通称﹁坊ば﹂。﹁ばぶ﹂が口癖。顔は、横に長い面長︵おもなが︶︵第十話︶。 御三︵おさん︶ 珍野家の下女。清︵きよ︶とも[27]。主人公の猫﹁吾輩﹂を好いていない。埼玉うまれ︵第八話︶。睡眠中に歯ぎしりをする︵第五話︶。 雪江 苦沙弥の姪、女学生。17、8歳。時々珍野邸に来て苦沙弥とケンカする。寒月に淡い恋心を抱いている。モデルは久保より江とされる[28]。 二絃琴の御師匠さん 三毛子の飼い主。﹁天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘﹂である。 古井 武右衛門︵ふるい ぶえもん︶ 珍野の監督下の中学生。2年乙組。頭部が大きく毬栗頭。 吉田 虎蔵︵よしだ とらぞう︶ 警視庁浅草警察署日本堤分署の刑事巡査。 泥棒陰士 水島寒月と酷似する容貌の窃盗犯。長身で、26、7歳。喫煙者。 八︵や︶っちゃん 車屋の子供。苦沙弥先生が怒る度泣くという嫌がらせを金田から依頼された。
構成[編集]
スターンやスウィフトなど中世ヨーロッパの﹁脱線文学﹂の伝統を受けた作品の系譜にあり、本作にはあらすじやストーリーめいたものは無い[29][30]。箴言めいた作者のエスプリがふんだんにちりばめられており、落語調や七五調など朗読したさい聞き手に印象的な表現が多用されている[31]点に特徴がある。参加グループや連載誌がホトトギスである点は軽視するべきでなく本作に含まれる俳諧趣味は重要な論点であるとの指摘がある[32][33]。 第1話 ﹁吾輩﹂の最初の記憶は、﹁薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた﹂ことである。出生の場所は当人の記憶にはない︵とんと見当がつかぬ︶。その後まもなく書生に拾われ、書生が顔の真ん中から煙を吹いていたものがタバコであることをのちに知る。書生の掌の上で運ばれ︵移動には何を利用したかは不明︶、笹原に我輩だけ遺棄される。その後大きな池の前~何となく人間臭い所~竹垣の崩くずれた穴から、とある邸内に入り込み、下女につまみ出されそうになったところを教師︵苦沙弥先生︶に拾われ、住み込む。人間については飼い主の言動によりわがままであること、また車屋の黒によると、不人情で泥棒も働く不徳者であると判断する。 第2話 家に、寒月、迷亭、東風などが訪問し、好き放題のでたらめを言う。吾輩は雑煮を食って踊りを踊る。三毛子が死去し、吾輩は恋に破れる。 第3話 金田の妻が寒月のことを訊きに来て、寒月が博士にならなければ娘の富子と結婚させないという。 第4話 鈴木が金田の意向を聞いて、寒月の様子を探りに来る。 第5話 苦沙弥宅に泥棒が入る。吾輩はネズミ取りに失敗する。 第6話 寒月、迷亭、東風による恋愛談義、女性論。 第7話 吾輩は運動し、公衆浴場をのぞき見る。 第8話 落雲館中学校[注 4][34][35]生徒が苦沙弥宅の庭に野球ボールを打ち込み、苦沙弥は激高する。甘木先生の催眠術が苦沙弥に効かない。 第9話 迷亭の伯父である牧山が苦沙弥宅を訪れる。 第10話 古井が自分の名義で金田の娘に恋文を送られ、退校処分にならないかと心配して苦沙弥宅に来る。 第11話 寒月は球磨︵たまみが︶きでの博士号取得をやめ、故郷で結婚して妻を上京させていた。独仙、苦沙弥、寒月、東風らによる夫婦論、女性論。多々良三平は金田富子と婚約を確約した。来客が帰ったあと、多々良の持ってきたビールの飲み残しに吾輩は酩酊し、﹁猫じゃ猫じゃ﹂を踊りたくなるほど陽気になり、水甕のなかに転落して水死する。素材[編集]
主人公﹁吾輩﹂のモデルは、漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住み着いた、野良の黒猫である[8]。この猫は1904年の初夏頃に千駄木の夏目の家に潜り込み、早稲田に転居した際にも連れて行かれたが、1908年9月13日に﹁物置︵納屋︶のヘツツイ︵かまど︶の上﹂[36]で死亡した。その際、漱石は親しい人達に猫の死亡通知を出した[8]。また、猫の墓を立て、書斎裏の桜の樹の下に埋めた。小さな墓標の裏に﹁この下に稲妻起る宵あらん﹂と安らかに眠ることを願った一句を添えた後、猫が亡くなる直前の様子を﹁猫の墓﹂︵﹃永日小品﹄所収︶という随筆に書き記している。毎年9月13日は﹁猫の命日﹂である[37]。-
千駄木にあった旧漱石邸(愛知県・明治村に移築保存)
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同左
書誌情報[編集]
1905年1月にのちの第1章に相当する部分が発表され、その後1905年2月︵第2章︶、4月︵第3章︶、5月︵第4章︶、6月︵第5章︶、10月︵第6章︶、1906年1月︵第7章および第8章︶、3月︵第9章︶、4月︵第10章︶、8月︵第11章︶と掲載された。
第1巻︵第1章 - 第3章︶は1905年10月6日に、第2巻︵第4章 - 第7章︶は1906年11月4日に、第3巻︵第8章 - 第11章︶は1907年5月19日に大倉書店と服部書店から刊行された。全1冊としては1911年に刊行された。1918年に漱石全集の第1巻に収録された。
●夏目金之助﹃吾輩ハ猫デアル﹄ 上、大倉書店、1905年10月6日、290頁。NDLJP:888725。
●夏目金之助﹃吾輩ハ猫デアル﹄ 中、大倉書店、1906年11月4日、238頁。NDLJP:888726。
●夏目金之助﹃吾輩ハ猫デアル﹄ 下、大倉書店、1907年5月19日、218頁。NDLJP:888727。
●夏目漱石﹃吾輩は猫である﹄漱石全集刊行会︿漱石全集 第1巻﹀、1918年1月1日、606頁。NDLJP:957303。
●夏目漱石 著、東洋文芸研究会 編著 編﹃漱石名作選集﹄︵20版︶坂東三弘社、1934年6月28日︵原著1925年11月30日︶。NDLJP:1106011/5。
●夏目漱石﹃吾輩ハ猫デアル﹄ 全3冊、日本近代文学館(出版) 図書月販(発売)︿近代文学館 名著複刻全集35﹀、1968年。 - 大倉書店・服部書店刊︵1905-1907︶の複製。
●夏目漱石 著、名著複刻全集編集委員会 編﹃吾輩ハ猫デアル﹄ 全3冊、日本近代文学館(出版) ほるぷ(発売)︿漱石文学館 名著複刻﹀、1976年6月。 - 大倉書店・服部書店刊︵1905-1907︶の複製。
●夏目漱石﹃ザ・漱石﹄︵増補新版︶第三書館、1999年6月。ISBN 4-8074-9910-6。
●夏目漱石﹃ザ・漱石 全小説全二冊 グラスレス眼鏡無用﹄ 下巻︵大活字版︶、第三書館、2006年4月。ISBN 4-8074-0601-9。
オーディオブック︵朗読︶版[編集]
●夏目漱石 著 ﹁吾輩は猫である﹂、ことのは出版、ASIN B0019X3NFQ派生作品、影響を受けた作品[編集]
本作を原作として1936年と1975年に映画化されている。︵吾輩は猫である (映画)を参照のこと︶ 多くのパロディ小説も生まれた。﹃吾輩ハ鼠デアル﹄︵1907年︵明治40年︶9月刊︶、﹃我輩ハ小僧デアル﹄︵1908年3月刊︶などである。三島由紀夫も少年時代︵中等科1年︶に﹃我はいは蟻である﹄︵1937年︶という童話的な小品を書いており、﹁我はいは暗い暗い部屋の中で生れ出た。﹂という幼虫からの書き出しで始まり、変身前の自分を﹁うじ﹂と呼んで嫌う人間どもを﹁人間とは可笑しな動物﹂と言い、蛹から蟻になった﹁我はい﹂が重いビスケットを背負ってそれを舐めて美味しかったエピソードなどが描かれている[40][41]。 2006年代には宮藤官九郎の脚本で昼帯テレビドラマ﹃吾輩は主婦である﹄がTBSで放送された。︵これは"夏目漱石が乗り移った主婦"が繰り広げるホームコメディ、だったとのこと[42]︶ 2019年には演出家ノゾエ征爾による﹃吾輩は猫である﹄が東京芸術祭2019で上演された︵これは夏目漱石の作品を下敷きにしつつ、大胆に換骨奪胎し、総勢80名弱のキャストで新基軸の劇世界を作ったものとのこと[43]︶映像化作品[編集]
映画[編集]
2度映画化された。1936年版と1975年版がある。詳細は「吾輩は猫である (映画)」を参照
テレビドラマ[編集]
山一名作劇場﹃吾輩は猫である﹄︵日本テレビ︶ 放送日時‥1958年5月27日 - 6月24日︵30分×5回︶ ●演出‥安藤勇二 ●脚本‥田村幸二 ●出演‥斎藤達雄、三宅邦子、稲葉義男、舟橋元、山田美奈子、藤村有弘 ●ナレーション‥徳川夢声 ﹃吾輩は猫である﹄︵NHK︶ 放送日時‥1963年1月1日︵60分×1回︶ 関東地区における視聴率は40.2%を記録した︵ビデオリサーチ調べ[44]︶。 ●脚本‥キノトール ●出演 ●苦沙弥‥森繁久彌 ●細君‥淡路恵子 ●迷亭‥三木のり平 ●寒月‥有島一郎 ●鼻子‥沢村貞子 ●富子‥横山道代 ●泥棒‥八波むと志 ●籐十郎‥多々良純 ●女中‥久里千春 ●猫の声‥渥美清 こども名作座﹃吾輩は猫である﹄︵NHK︶ 放送日時‥1963年3月24日 ﹃ふたりは夫婦﹄第19回﹁わたくしは細君﹂~﹁吾輩は猫である﹂より~︵フジテレビ︶ 放送日時‥1975年2月17日︵55分1回︶ ●脚本‥田中澄江 ●出演‥八千草薫、長門裕之、篠田三郎、三谷昇テレビアニメ[編集]
日生ファミリースペシャル﹃吾輩は猫である﹄︵1982年、フジテレビ系︶[45] ●制作‥フジテレビ、東映動画 ●製作‥今田智憲 ●企画‥栗山富郎(東映動画)、久保田栄一 (フジテレビ) ●企画コーディネーター‥大橋益之助 (大坂電通) ●脚本‥大原清秀 ●演出‥りん・たろう ●撮影‥岡芹利明 ●キャラクターデザイン‥はるき悦巳︵猫︶、小松原一男︵その他︶ ●作画監督‥小松原一男 ●美術監督‥椋尾篁 ●出演者 ●吾輩‥山口良一 ●クロ‥なべおさみ ●マツ‥向井真理子 ●チヨ‥佐藤恵利 ●ベル‥雨森雅司 ●ドン‥柴田秀勝 ●珍野苦沙弥‥坂上二郎 ●細君‥増山江威子 ●水島寒月‥野沢那智 ●とん子‥小林綾子 ●すん太‥工藤彰吾 ●春子‥藤田淑子 ●金田‥財津一郎 ●金田夫人‥朝井良江 ●三平‥寺田誠 ●小山‥矢田耕司 ●森‥郷ひろみ︵特別出演︶ ●青年‥田中秀幸 ●書生‥塩屋浩三・塩屋翼 ●婦人‥恵比寿まさ子・山口奈々・宮崎恵子 ●主題歌・エンディング﹁ベストフレンド﹂ 作詞 - 長田弘 / 作曲 - 森田公一 / 編曲 - 青木望 / 歌 - 上野博樹フィルムコミック[編集]
●日生ファミリースペシャル﹃吾輩は猫である﹄サンケイ出版名作コミックス︵上・下︶1982年8月5日まんが[編集]
●﹃吾輩は猫である﹄夏目漱石 作・尾崎秀樹 監修・緒方都幸 漫画、旺文社︿旺文社名作まんがシリーズ A1﹀、1985年。ISBN 4-01-023401-6。 ●﹃吾輩は猫である﹄夏目漱石 作・バラエティ・アートワークス 企画・漫画、イースト・プレス︿まんがで読破﹀、2010年。ISBN 978-4-7816-0347-6。その他[編集]
●オペラ﹃吾輩は猫である﹄- 曲・台本‥林光︵1998年2月21日初演/新国立劇場小劇場/こんにゃく座︶ ●宜志政信によるうちなー口翻訳 ﹃吾んねー猫どぅやる﹄新報出版,﹃吾んねー猫どぅやる 完結編﹄新星出版関連作品[編集]
小説[編集]
●﹃それからの漱石の猫﹄︵三四郎、1920年︶[46] - ﹃吾輩は猫である﹄の続編。1997年に﹃續吾輩は猫である﹄のタイトルで復刊[47][48] ●﹃贋作吾輩は猫である﹄︵内田百閒、1949年︶ - ﹃吾輩は猫である﹄の続編。アニメ[編集]
●アニメ﹃君の棲む街 ~文京編/早稲田編~﹄ - ショートアニメ︵2分30秒︶。監督・脚本‥高松明子、キャスト‥石川界人、早見沙織、制作‥J.C.STAFF。擬人化された2人の猫の物語。両者がモノローグで﹃吾輩は猫である﹄と﹃舞姫﹄の一節を語る。2015年11月21日に開催された、森鴎外・夏目漱石ら文豪が暮らした街の魅力を発信する﹁文京・早稲田 文豪ウィーク﹂のオープニングイベントで公開された。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 第1回、第2回の連載号は完売し、夏目の﹁坊つちやん﹂と同時掲載となった第10回掲載号は5,500部を発行するに至る。これは総合雑誌﹁中央公論﹂と同程度であった。
(二)^ ﹃吾輩は猫である﹄の内容が﹃牡猫ムルの人生観﹄に影響を受けているかについては、影響を受けているとする藤代素人、秋山六郎兵衛、板垣直子らの論と、着想を得たのみで内容にまでは影響を受けていないとする吉田六郎、石丸静雄らの論とが混在する。
(三)^ 丸谷才一が仙台文学館の初代館長になった井上ひさしに電話をかけ、19世紀初頭によく読まれた﹃ポピー・ザ・リトル﹄という俗小説が、子犬が上流から下流階級まですべてを見て回りその見聞を猛烈な社会批判にしているという内容で、漱石がこれを知って﹃吾輩﹄を書いたと考えられると言った。すると東北大学の漱石文庫にはないが、これを評価したTHE ENGLISH NOVEL︵Walter Raleigh︶があるので、何らかの印がないか学芸員に見てきてもらえないかとひさしは依頼した。翌日、学芸員が確認すると、﹃ポピー・ザ・リトル﹄の項に、はっきりと線が引かれていた︵笹沢信﹃ひさし伝﹄新潮社 2012年 pp.390f.︶。
(四)^ 当時、漱石宅に隣接していた私立郁文館学校、現在の郁文館中学校・高等学校がモデルとされる。
(五)^ Samuel Haughton "On Hanging Considered from a Mechanical and Physiological Point of View" ︵The Internet Archive︶ 寺田寅彦 ﹃夏目先生の追憶﹄に紹介の経緯が書かれている。寺田は﹁レヴェレンド︵Reverend、日本語の﹁師﹂にあたる聖職者の尊称︶・ハウトン﹂としているが、正確には、サミュエル・ホートンen:Samuel Haughtonである。 論文の概要については、寅彦の弟子である中谷宇吉郎の ﹃寒月の﹁首縊りの力学﹂その他﹄を参照。
出典[編集]
(一)^ 小学館 日本大百科全書︵ニッポニカ︶﹁吾輩は猫である﹂三好行雄[1]
(二)^ 小学館 日本大百科全書︵ニッポニカ︶﹁吾輩は猫である﹂三好行雄[2]
(三)^ 平凡社 改定版世界大百科事典﹁吾輩は猫である﹂桶谷秀昭[3]
(四)^ あるいは﹁落語︵高等落語︶的﹂集英社文庫﹁吾輩は猫である﹂下、解説・石崎等、P.290
(五)^ 山会というのは﹁子規が文章には山がなければいかんという事をいったのが初めで、文章会の事を山会と称えるようになったのでありますが、その山というのは、主として滑稽な事が多かったのであります。たとえば、各々自作の文章を朗読するのでありますが、その朗読する時にあたって、聞いている者が、覚えず噴き出すといった、それが恰も落語家が高座に上って話をする時分に、聴衆がドッと笑う、その笑うところが即ち話に山がある。その落語の山のような山が、文章にはなければならん、という子規の主張があったのであります。必ずしも滑稽に限ったことではないのでありますけれども、…山会の文章は、やはり滑稽なところに重きを置くといったような傾きがあったのでありました。﹂︵高浜虚子﹁俳句の五十年﹂-﹁山会﹂の朗読、角川文庫﹃吾輩は猫である﹄巻末付録、P.567︶
(六)^ 寒川鼠骨が朗読したと漱石は証言している。座談﹁文学談﹂︵明治39年9月﹁文学界﹂︶。︵参考︶角川文庫﹃吾輩は猫である﹄巻末付録、P.561
(七)^ 寺田寅彦によれば第二回以降は高浜虚子が朗読したという。寺田寅彦﹁夏目漱石先生の追憶﹂[4]
(八)^ abcde﹃週刊YEARBOOK 日録20世紀﹄第85号 講談社、1998年、27-29頁
(九)^ 集英社文庫﹁吾輩は猫である﹂下、解説・石崎等、P.291。
(十)^ 一方で明治41年9月﹁文章世界﹂に漱石は﹃処女作追懐談﹄を公表し、その中で﹁始めて﹃吾輩は猫である﹄というのを書いた。ところが虚子がそれを読んで、これはいけませんと云う。訳を聞いて見ると段々ある。今はまるで忘れて仕舞ったが、兎に角もっともだと思って書き直した。﹂と書いている。︵参考︶角川文庫﹃吾輩は猫である﹄巻末付録、P.560
(11)^ 集英社文庫﹁吾輩は猫である﹂下、解説・石崎等、P.P.287-288。
(12)^ なお動物が語り部となる動物寓話の系譜は欧州では珍しくなくイソップにも多くの類例が採録されている。
(13)^ 伊藤整は新潮文庫版﹃吾輩は猫である﹄の解説において、﹁しかしこういう筋の発展のない小説を十一回にもわたって漱石が確信をもって書いたということは、彼が﹃トリストラム・シャンディーの生涯と意見﹄のような小説があることを知っていたことから来ていることは明らかである。﹂と記した︵p.609、2004︶。
(14)^ 丸谷才一﹃思考のレッスン﹄文春文庫、p.203、2012。
(15)^ “神田お散歩MAP 夏目漱石の碑”. 株式会社ライト. 2017年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月23日閲覧。
(16)^ 第二話﹁ええあの表通りの教師の所にいる薄ぎたない雄猫でございますよ﹂
(17)^ 第一話では三毛君と呼ばれ﹁三毛君は代言の主人を持っている﹂と設定された。
(18)^ ﹁猫﹂第一が公表されると、漱石のまわりではモデルについての評判が立てられたようで、漱石は門下生の野間真綱にあてて﹁猫伝中の美学者は無論大塚の事ではない大塚は誰が見てもあんな人ぢゃない。…主人も僕とすれば僕他とすれば他どうでもなる。﹂と書いている︵明治38.1.1付書簡︶。(遠藤祐 1960, p. PDF. 4)
(19)^ ﹁金田君の令嬢安倍川の富子さえ寒月君に恋慕したと云う噂である。﹂﹁寒月君は苦味ばしった好男子で、・・・金田富子嬢を優に吸収するに足るほどな念入れの制作物である。﹂
(20)^ 集英社文庫﹁吾輩は猫である﹂下、P.183。
(21)^ 高木雅惠、九州大学大学院比較社会文化学府、博士[5]
(22)^ 1869年-1897年、漱石の第一高等中学校本科一部1年の頃からの友人であり畏友。元は建築を目指していた夏目が英文学への道を決めたのは米山によるとされる。夏目漱石﹁処女作追懐談﹂︵明治41年9月﹁文章世界﹂︶[6]、角川文庫﹁吾輩は猫である﹂巻末付録
(23)^ 高木雅惠﹁漱石とメリメ:﹃吾輩は猫である﹄における﹃カルメン﹄の水浴﹂︵Comparatio. 15, pp.31-43, 2011-12-28. Society of Comparative Cultural Studies,
Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu University︶[7][8]、P.31、PDF-P.1
(24)^ 江川義雄﹃広島県医人伝﹄︵PDF︶江川義雄、1986年。[リンク切れ]
(25)^ 斎藤晴惠﹁尼子四郎と夏目漱石﹂﹃医学図書館﹄第53巻第1号、日本医学図書館協会、2006年、60-64頁、CRID 1390282679254036096、doi:10.7142/igakutoshokan.53.60、ISSN 04452429。
(26)^ ﹁医学情報 110年の蓄積﹂日本経済新聞、2013年6月21日44面
(27)^ ﹁御三﹂とは台所で働く下女の通称でおさんどんとも呼ぶ。また台所仕事そのものを御三とも表現する。なお近世末頃に上方では﹁おきよ︵どん︶﹂、江戸では﹁おさん︵どん︶﹂と呼称したことが﹁随・皇都午睡-三・中﹂に記述されている。精選版日本語大辞典﹁御三﹂[9]
(28)^ 坂本宮尾﹁この道をかくゆく : 近代女性俳人伝(2)博多の文芸サロンの女主人……久保より江﹂﹃俳壇﹄第36巻第2号、東京 : 本阿弥書店、2019年2月、135頁、CRID 1521699230693869696、国立国会図書館書誌ID:029443329。
(29)^ 集英社文庫﹁吾輩は猫である﹂下、解説・石崎等、P.294
(30)^ 石崎等によれば﹁物語全般の枠組みは断片的で纏まりがなく、またストーリーの展開についてあまり関心がもたれない。あえて主な筋をたどるとしたら、実業家の娘金田富子に惚れられる理学士寒月の縁談話ということになるであろう﹂としている。集英社文庫﹁吾輩は猫である﹂下、解説・石崎等、P.302
(31)^ 河野豊﹁翻訳一斑﹂﹃別府大学紀要﹄第56巻、別府大学会、2015年2月、1-9頁、CRID 1050001337845799168、ISSN 0286-4983。 p.2 より
(32)^ 佐々木亜紀子﹁﹃吾輩は猫である﹄の土壌 : 響き合うことば﹂﹃愛知淑徳大学国語国文﹄第29号、愛知淑徳大学国文学会、2006年3月、55-69頁、CRID 1050282676651661696、hdl:10638/1846、ISSN 0386-7307。
(33)^ ﹃猫﹄に於けるような滑稽趣味を漱石が抱懐するようになったのは、その俳諧精神と英文学的ユーモアとがあずかって力があったであろう。角川文庫﹁吾輩は猫である﹂解説・山本健吉、P.546
(34)^ 鎌野多美子﹁夏目漱石と藤代素人―﹃吾輩ハ猫デアル﹄を巡って―﹂﹃国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要﹄第30巻第3号、守口 : 大阪国際大学、2017年3月、33-52頁、CRID 1050001338402580096、ISSN 09153586。 脚注92より
(35)^ 郁文館夢学園理事長・校長ブログ、宮﨑宏﹁郁文館と寄宿舎﹂2017.9.8[10]
(36)^ 夏目漱石の猫の死亡通知﹂、岩波書店版﹃漱石全集第14巻﹄︵書簡集、昭和41年発行︶所収[11]
(37)^ “名前はないが日本一有名な﹁吾輩︵わがはい︶﹂のモデルだった“”︵﹁春秋﹂日本経済新聞2014年9月13日︶。
(38)^ “漱石文庫関係文献目録” (PDF). 東北大学附属図書館. 2012年11月25日閲覧。
(39)^ 集英社文庫﹁吾輩は猫である﹂下、解説・石崎等、P.290
(40)^ 決定版 三島由紀夫全集︿補巻﹀補遺・索引. 新潮社. (2005年12月isbn=978-4106425837)pp.19-20
(41)^ “三島由紀夫文学館**新資料紹介”. 三島由紀夫文学館. 2009年2月26日閲覧。
(42)^ TBS公式サイト、吾輩は主婦である
(43)^ 東京芸術祭2019﹁吾輩は猫であるについて﹂
(44)^ 引田惣弥﹃全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した﹄講談社、2004年、220頁。ISBN 4062122227
(45)^ “吾輩は猫である - メディア芸術データベース”. mediaarts-db.bunka.go.jp. 2022年12月17日閲覧。
(46)^ 三四郎 (1920). それからの漱石の猫. 東京: 日本書院
(47)^ 三四郎 (1997). 續吾輩は猫である. 東京: 勉誠社
(48)^ ﹃続吾輩は猫である 復刻﹄。
参考文献[編集]
●遠藤祐﹁﹁吾輩は猫である﹂を成立させたもの : 作家漱石の出発をめぐって﹂﹃岩手大学学芸学部研究年報﹄第17巻、岩手大学学芸学部、1960年10月、45-54頁、CRID 1390572174849354112、doi:10.15113/00012407。関連文献[編集]
●内田百閒﹃贋作吾輩は猫である﹄新潮社、1950年。NDLJP:1706550。 - ﹃吾輩は猫である﹄の続篇。
●内田百閒﹃贋作吾輩は猫である﹄筑摩書房︿ちくま文庫 内田百閒集成8﹀、2003年5月7日。ISBN 4-480-03768-3。
●奥泉光﹃﹃吾輩は猫である﹄殺人事件 純文学書下ろし特別作品﹄新潮社、1996年1月。ISBN 4-10-600657-X。
●奥泉光﹃﹃吾輩は猫である﹄殺人事件﹄新潮社︿新潮文庫﹀、1999年3月。ISBN 4-10-128421-0。
●奥泉光﹃﹃吾輩は猫である﹄殺人事件﹄︵電子書籍︶新潮社、2009年1月23日。ASIN B00CL6N1M0。
●長山靖生﹃﹁吾輩は猫である﹂の謎﹄文藝春秋︿文春新書 009﹀、1998年10月20日。ISBN 978-4-16-660009-0。
●南條竹則﹃あくび猫﹄文藝春秋、2000年9月10日。ISBN 978-4-16-319540-7。
●間宮周吉﹃吾輩の哲学 再読﹃猫﹄のことば﹄文藝春秋、2010年2月28日。ISBN 978-4-16-008090-4。
●関川夏央原作・谷口ジロー作画 ﹃﹁坊っちゃん﹂の時代﹄(1987年-1996年)漫画アクション︵双葉社︶夏目漱石の飼い猫が登場し、吾が輩は猫であるについても取り上げられている。
外部リンク[編集]
- 『『吾輩は猫である』上篇自序』:新字新仮名 - 青空文庫
- 『『吾輩は猫である』中篇自序』:新字新仮名 - 青空文庫
- 『『吾輩は猫である』下篇自序』:新字新仮名 - 青空文庫
- 『吾輩は猫である』:新字新仮名 - 青空文庫
- 『吾輩ハ猫デアル』:旧字旧仮名 - 青空文庫
- 『吾輩ハ猫デアル』 - 国立国会図書館
- 『吾輩は猫である』 パロディ一覧 - ナダ出版センター
- Soseki Project (英語圏向けの漱石教材)
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