「劉封」の版間の差分
一部訂筆 |
212~213年頃の劉封は20余歳だったと正史に記されているため |
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'''劉封'''(りゅうほう、?-[[220年]])は、[[中国]]の[[三国時代 (中国)|三国時代]]、[[蜀 (三国)|蜀漢]]の[[皇族]][[武将]]。子は[[劉林]]。 |
'''劉封'''(りゅうほう、[[190年]]?-[[220年]])は、[[中国]]の[[三国時代 (中国)|三国時代]]、[[蜀 (三国)|蜀漢]]の[[皇族]][[武将]]。子は[[劉林]]。 |
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元は羅侯の寇氏の子([[後漢書]]によると、一説では後漢の元勲の高密侯の[[鄧禹]]の後裔で、本来は鄧氏とも言われる)で[[長沙]]の劉氏の甥であったが、[[劉備]]が彼の素質を見込んで自分の[[養子|猶子]]として迎えた。彼は継弟の[[劉禅]]とは対照的で剛毅で勇猛果敢の人物だったといわれる。 |
元は羅侯の寇氏の子([[後漢書]]によると、一説では後漢の元勲の高密侯の[[鄧禹]]の後裔で、本来は鄧氏とも言われる)で[[長沙]]の劉氏の甥であったが、[[劉備]]が彼の素質を見込んで自分の[[養子|猶子]]として迎えた。彼は継弟の[[劉禅]]とは対照的で剛毅で勇猛果敢の人物だったといわれる。 |
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[[213年]]に、猶父の劉備の[[益州]]攻略戦に参加して、彼は優れた統率力を発揮して武功を挙げ副将軍に昇進した。正史によると、当時の劉封は20余歳だったという(仮にそうならば、劉封は[[曹丕]]と同年代ということになる)。翌々年の[[215年]]夏5月に劉備が[[漢中]]を平定すると、[[孟達]]と共に[[上庸]]の守備を命じられた。だが、[[関羽]]を見殺しにしたことから孟達と対立し、孟達は[[魏 (三国)|魏]]に出奔してしまった上に、元は魏将であった配下の[[申耽]]・[[申儀]]兄弟が上庸で反乱を起こして劉封を追放してしまったため、劉封は止むなく猶父の劉備の下へ敗走することになった。 |
[[213年]]に、猶父の劉備の[[益州]]攻略戦に参加して、彼は優れた統率力を発揮して武功を挙げ副将軍に昇進した。正史によると、当時の劉封は20余歳だったという(仮にそうならば、劉封は[[曹丕]]・[[曹植]]と同年代ということになる)。翌々年の[[215年]]夏5月に劉備が[[漢中]]を平定すると、[[孟達]]と共に[[上庸]]の守備を命じられた。だが、[[関羽]]を見殺しにしたことから孟達と対立し、孟達は[[魏 (三国)|魏]]に出奔してしまった上に、元は魏将であった配下の[[申耽]]・[[申儀]]兄弟が上庸で反乱を起こして劉封を追放してしまったため、劉封は止むなく猶父の劉備の下へ敗走することになった。 |
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だが、劉備は関羽を見殺しにしたこと、上庸を失ったことなどを激しく咎めた。同時に[[諸葛亮]]は劉封の勇猛さを恐れていたという。いずれは自分が劉封によって禍に遭うと判断し、劉備に上奏して﹁わが君のご逝去後に、跡を継がれる太子禅さまでは継兄である封君︵劉封︶を統率されるのは極めて困難でありましょう。この機会に封君に死を賜りまするよう…﹂と進言した。また、劉備自身も劉封の勇猛さでは支え切れない太子の劉禅の将来性を考慮した末に、決断を下して自決用の剣を劉封に渡し、こうして彼は非業の自決を遂げたという。
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だが、劉備は関羽を見殺しにしたこと、上庸を失ったことなどを激しく咎めた。同時に[[諸葛亮]]は劉封の勇猛さを恐れていたという。いずれは自分が劉封によって禍に遭うと判断し、劉備に上奏して﹁わが君のご逝去後に、跡を継がれる太子禅さまでは継兄である封君︵劉封︶を統率されるのは極めて困難でありましょう。この機会に封君に死を賜りまするよう…﹂と進言した。また、劉備自身も劉封の勇猛さでは支え切れない太子の劉禅の将来性を考慮した末に、決断を下して自決用の剣を劉封に渡し、こうして彼は非業の自決を遂げたという。
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