「劉封」の版間の差分
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[[建安 (漢)|建安]]24年([[219年]])、劉備は[[孟達]]に房陵攻撃を命じ、孟達は西進し上庸[[太守]]の[[申耽]]を攻撃した。劉封は孟達1人では心許ないと思った劉備に命じられ、その援軍として[[漢中]]を発して上庸に進軍。[[申耽]]を降伏させた。この功によって、劉封は副軍将軍に昇進した。 |
[[建安 (漢)|建安]]24年([[219年]])、劉備は[[孟達]]に房陵攻撃を命じ、孟達は西進し上庸[[太守]]の[[申耽]]を攻撃した。劉封は孟達1人では心許ないと思った劉備に命じられ、その援軍として[[漢中]]を発して上庸に進軍。[[申耽]]を降伏させた。この功によって、劉封は副軍将軍に昇進した。 |
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同年に[[樊城]]で[[曹仁]]を包囲した[[関羽]]から何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由で、これを拒否した。その結果、曹仁に援軍を要請された[[曹操]]が派遣した[[徐晃]]と[[趙ゲン|趙儼]]と、[[孫権]]が派遣した[[呂蒙]]の挟撃を受けて関羽は大敗し、後に[[潘璋]]配下の[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]に捕らわれて処刑された。劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを買った。また、劉封は孟達とも対立しており、後に彼の軍楽隊を接収した。220年7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は[[魏 (三国)|魏]]に出奔。魏は孟達を建武将軍・新城太守に任じ、徐晃・夏侯尚と共に劉封を攻めさせた。その際、孟達は劉封に魏へ付くよう手紙を送ったが劉封は従わなかった。しかし、申耽の弟の[[申儀]]などが反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、[[成都]]への敗走を余儀なくされた。 |
同年に[[樊城]]で[[曹仁]]を包囲した[[関羽]]から何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由で、これを拒否した。その結果、曹仁に援軍を要請された[[曹操]]が派遣した[[徐晃]]と[[趙ゲン|趙儼]]と、[[孫権]]が派遣した[[呂蒙]]の挟撃を受けて関羽は大敗し、後に[[潘璋]]配下の[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]に捕らわれて処刑された。劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを買った。また、劉封は孟達とも対立しており、後に彼の軍楽隊を接収した。220年7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は[[魏 (三国)|魏]]に出奔。魏は孟達を建武将軍・新城太守に任じ、徐晃・[[夏侯尚]]と共に劉封を攻めさせた。その際、孟達は劉封に魏へ付くよう手紙を送ったが劉封は従わなかった。しかし、申耽の弟の[[申儀]]などが反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、[[成都]]への敗走を余儀なくされた。
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劉備は関羽の援軍を拒んだ事と、上庸を失った事などを激しく咎めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは次代の劉禅では制御し難くなるという理由から、劉封を除くように進言した。かくして劉封は死を賜る事になった。自決の際、劉封は﹁孟達の言葉に従わなかったことが残念だ﹂と嘆いた。これを聞いた劉備は彼のために涙を流した。
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劉備は関羽の援軍を拒んだ事と、上庸を失った事などを激しく咎めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは次代の劉禅では制御し難くなるという理由から、劉封を除くように進言した。かくして劉封は死を賜る事になった。自決の際、劉封は﹁孟達の言葉に従わなかったことが残念だ﹂と嘆いた。これを聞いた劉備は彼のために涙を流した。
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== 三国志演義 == |
== 三国志演義 == |
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小説﹃[[三国志演義]]﹄では、[[樊城]]の[[県令]]劉泌の甥で、劉封の器量に惚れた劉備の養子となり、劉禅が生まれた以降に養子に迎えられた事になっており、史実とは順序が逆転している。
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小説﹃[[三国志演義]]﹄では、[[樊城]]の[[県令]][[劉泌]]の甥で、劉封の器量に惚れた劉備の養子となり、劉禅が生まれた以降に養子に迎えられた事になっており、史実とは順序が逆転している。
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それを知った関羽は、「阿斗(劉禅)君がいるのになぜ養子をとるのですか?これでは劉表の諸子によるお家騒動の二の舞になるのではありませんか?」と不平不満を洩らした。 |
それを知った関羽は、「阿斗(劉禅)君がいるのになぜ養子をとるのですか?これでは[[劉表]]の諸子によるお家騒動の二の舞になるのではありませんか?」と不平不満を洩らした。 |
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以降は、主に[[関平]]らと共に軍師[[ホウ統|龐統]]の命で[[劉璋]]配下の[[高沛]]・[[楊懐]]を斬り捨てるなど大いに活躍するようになる。龐統が亡くなると諸葛亮の指揮下で[[黄忠]]と[[厳顔]]の戦いに同伴したり、孟達とともに活躍して徐晃および曹操の息子[[曹彰]]に[[一騎討ち]]で敗れた。 |
以降は、主に[[関平]]らと共に軍師[[ホウ統|龐統]]の命で[[劉璋]]配下の[[高沛]]・[[楊懐]]を斬り捨てるなど大いに活躍するようになる。龐統が亡くなると諸葛亮の指揮下で[[黄忠]]と[[厳顔]]の戦いに同伴したり、孟達とともに活躍して徐晃および曹操の息子[[曹彰]]に[[一騎討ち]]で敗れた。 |
2017年9月17日 (日) 09:39時点における版
生涯
三国志演義
三国志平話
脚註
参考資料
- 『三国志平話』中巻・下巻(二階堂善弘・中川諭(翻訳)、光栄、1999年) ISBN 978-4877196783(旧:ISBN 4877196781)