加賀正太郎
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加賀 正太郎︵かが しょうたろう、1888年1月17日 - 1954年8月8日︶は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した日本の実業家。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/Abovm02_2048.jpg/300px-Abovm02_2048.jpg)
アサヒビール大山崎山荘美術館
1888年、大阪市東区今橋生まれ。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商﹁富商加賀商店﹂を継ぐ。ヨーロッパに渡り、日英博覧会やキューガーデンの見学や、アルプス山脈ユングフラウ登頂を行った。
東京高等商業学校︵現・一橋大学︶卒業後、加賀證券︵のちに菱光証券に商号変更し三菱UFJ証券に合併︶を設立して社長を務めるなど多くの会社経営を行い、証券業、林業、不動産業、ゴルフ場経営、洋蘭業などで成功した。
1923年の茨木カンツリー倶楽部設立に参画し、理事などを務めた。また1934年の大日本果汁︵現・ニッカウヰスキー︶創業にも参画。出資の70%を構成して同社の筆頭株主となり、社内では﹁ご主人様﹂と呼ばれた。1954年死期を悟りアサヒビールの山本為三郎にニッカウヰスキー株を売却し、同年喉頭癌のため大阪赤十字病院で死去。
経歴
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趣味
多趣味で知られているが、個々にみても本格的に行っていた。 京都府大山崎町に所有した山荘は、建物の他、庭園、家具、調度品なども含め自ら設計及びデザインを行ったもので、アサヒビール大山崎山荘美術館として残る。 登山ではアルプス山脈ユングフラウの登頂を日本人で初めて果たし、日本への登山用具、登山装備の紹介を行っている。日本山岳会名誉会員。 ランの栽培では多くの新種を開発。浮世絵の技法を用いた木版画による植物図譜﹃蘭花譜﹄などの著作がある。ランの栽培は、イギリスの王立植物園を訪問した際に見たランに感銘を受け、大山崎町の山荘内で始めたという[1]。出典
- ^ “大山崎の名建築探訪,山荘美術館と聴竹居の見学ツアー”. 京都新聞 (京都新聞社). (2012年11月1日) 2012年11月1日閲覧。