「北畠具行」の版間の差分
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→経歴: 足利”高”氏との混同を避けるため |
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北畠家初代の[[北畠雅家]]の孫にあたり、北畠宗家4代目の[[北畠親房]]は具行の[[親族呼称|従兄弟違︵従兄弟の子供︶]]にあたる。親房と共に[[後醍醐天皇]]に仕えて、従二位[[権中納言]]に昇進する。[[和歌]]にも優れており、﹁君の恩寵も深かりき﹂と評される程の側近となった。また、親房が[[世良親王]]急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の[[北畠顕家|顕家]]が継いだために、具行はその後見人となった。
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北畠家初代の[[北畠雅家]]の孫にあたり、北畠宗家4代目の[[北畠親房]]は具行の[[親族呼称|従兄弟違︵従兄弟の子供︶]]にあたる。親房と共に[[後醍醐天皇]]に仕えて、従二位[[権中納言]]に昇進する。[[和歌]]にも優れており、﹁君の恩寵も深かりき﹂と評される程の側近となった。また、親房が[[世良親王]]急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の[[北畠顕家|顕家]]が継いだために、具行はその後見人となった。
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元弘元年([[1331年]])、後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も中心的存在の一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も[[鎌倉幕府]]軍に捕えられた([[元弘の変]])。翌2年(1332年)、[[佐々木道誉|京極高氏]]により鎌倉へ護送される途中、幕府の命により[[近江国]][[柏原宿|柏原]](現在の[[滋賀県]][[米原市]])で処刑された。 |
元弘元年([[1331年]])、後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も中心的存在の一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も[[鎌倉幕府]]軍に捕えられた([[元弘の変]])。翌2年(1332年)、[[佐々木道誉|京極高氏(佐々木道誉)]]により鎌倉へ護送される途中、幕府の命により[[近江国]][[柏原宿|柏原]](現在の[[滋賀県]][[米原市]])で処刑された。 |
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﹁[[ばさら]]﹂と呼ばれた |
﹁[[ばさら]]﹂と呼ばれた道誉は、公家である具行の事を嫌悪していたが、死に臨んでの具行の態度に道誉も感服し、[[柏原宿]]の[[徳源院]]に一ヶ月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが叶わず、その別れを惜しんだと伝わる。6月18日夜、二人は暫く談笑し、翌19日具行は剃髪後に処刑されたが、処刑前に道誉に対し、丁重な扱いに感謝の言葉を述べたと伝わる。<ref>ただし、﹁増鏡﹂の作者による京極高氏贔屓の創作とする説もある。</ref>
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「[[増鏡]]」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」<ref>「消えかかっている露の如くはかない自分の命の最後はもうわかってしまった。それにしても鎌倉幕府の末路を知って死にたかったものだ。」</ref> |
「[[増鏡]]」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」<ref>「消えかかっている露の如くはかない自分の命の最後はもうわかってしまった。それにしても鎌倉幕府の末路を知って死にたかったものだ。」</ref> |
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墓所として、米原市柏原に[[貞和]]三年([[1347年]])建立の[[宝篋印塔]]が残り、「北畠具行墓」の名称で国の[[史跡]]に指定されている。 |
墓所として、米原市柏原に[[貞和]]三年([[1347年]])建立の[[宝篋印塔]]が残り、「北畠具行墓」の名称で国の[[史跡]]に指定されている。 |
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== 官歴 == |
== 官歴 == |