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'''厳 復'''︵げん ふく/げん ぷく︶は、[[清末民初]]に活躍した啓蒙思想家・翻訳家。[[字]]は'''又陵'''(ゆうりょう)、のち'''幾道'''(きどう)。[[号 (称号)|号]]は観我生室主人、愈壄(ゆや)老人など<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8E%B3%E5%BE%A9-61022#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |title=厳復 |access-date=2022-10-27 |publisher=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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代々医者を家業とする一族に生まれ、幼少より[[科挙]]合格のための教育を受けた。しかし父の病死の後に家が没落したため、科挙受験を断念し[[左宗棠]]や[[沈葆楨]]が創設した[[福州船政学堂]]に学んだ。この学校は海軍の人材育成のために設けられたもので、当時推進されていた[[洋務運動]]の成果の一つであった。伝統的な教育を離れ、この西洋教育(英語・数学・物理学等)を受けたことが厳復の将来を決定付けることになる。 |
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[[1877年]]には最初の留学生の一人として渡英し、[[1879年]]まで[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]海軍大学で[[軍事学]]を学んだ。[[イギリス]]において厳復は単に軍事関係の知識を吸収しただけではなく、広く西欧の文化・思想を吸収し、それに深く感銘を受けたという。そしてそのことが後の思想・行動に決定的な影響を与えることになる。すなわち上で少し触れた洋務運動は「中体西用」―中国に軍事・産業に関する知識は導入することは是とするが、哲学・思想・文化にあっては中国的伝統を固持しようとする思想―を旨としていたが、そのような皮相な西欧理解と小手先の改革では清朝の現状を打破することはできない、と厳復は考えるにいたる。 |
[[1877年]]には最初の留学生の一人として渡英し、[[1879年]]まで[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]海軍大学で[[軍事学]]を学んだ。[[イギリス]]において厳復は単に軍事関係の知識を吸収しただけではなく、広く西欧の文化・思想を吸収し、それに深く感銘を受けたという。そしてそのことが後の思想・行動に決定的な影響を与えることになる。すなわち上で少し触れた洋務運動は「中体西用」―中国に軍事・産業に関する知識は導入することは是とするが、哲学・思想・文化にあっては中国的伝統を固持しようとする思想―を旨としていたが、そのような皮相な西欧理解と小手先の改革では清朝の現状を打破することはできない、と厳復は考えるにいたる。 |
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[[1898年]]、代表的訳書『天演論』を出版。この書は中国における最初の[[社会進化論]]紹介であり、まさしく清末において一世を風靡した。タイトルにおける「天演」とは‘evolution’の訳語であって、本そのものは[[トマス・ヘンリー・ハクスリー]]の『進化と倫理』を訳し、それに厳復自身のコメントを付したものである。ただ厳復のコメントはハクスリーとは意見を異にする[[ハーバート・スペンサー]]の立場にたったものであり、ハクスリーに批判的な言辞が多く見られる。厳復の翻訳は[[桐城派]]という古雅な文体に則って為されたために非常に難解であったにもかかわらず、『天演論』の与えた影響は非常に大きかった。現在当たり前となっている発展史観を清末に広めたのは、まさにこの書の影響である。清末の人々は西欧列強や明治日本によって滅亡の危機にさらされているという意識が濃厚であったが、『天演論』はその意識に簡単に理解できる社会進化論という理論を与えた。そのため書中の「優勝劣敗」・「適者生存」といったことばは流行語ともなった。また同時期活躍した[[康有為]]や[[梁啓超]]の思想に決定的な影響を与えたことをはじめ、[[胡適]]などは「適者生存」にちなんで改名するなど清末における厳復の影響は無視できない。 |
[[1898年]]、代表的訳書『天演論』を出版。この書は中国における最初の[[社会進化論]]紹介であり、まさしく清末において一世を風靡した。タイトルにおける「天演」とは‘evolution’の訳語であって、本そのものは[[トマス・ヘンリー・ハクスリー]]の『進化と倫理』を訳し、それに厳復自身のコメントを付したものである。ただ厳復のコメントはハクスリーとは意見を異にする[[ハーバート・スペンサー]]の立場にたったものであり、ハクスリーに批判的な言辞が多く見られる。厳復の翻訳は[[桐城派]]という古雅な文体に則って為されたために非常に難解であったにもかかわらず、『天演論』の与えた影響は非常に大きかった。現在当たり前となっている発展史観を清末に広めたのは、まさにこの書の影響である。清末の人々は西欧列強や明治日本によって滅亡の危機にさらされているという意識が濃厚であったが、『天演論』はその意識に簡単に理解できる社会進化論という理論を与えた。そのため書中の「優勝劣敗」・「適者生存」といったことばは流行語ともなった。また同時期活躍した[[康有為]]や[[梁啓超]]の思想に決定的な影響を与えたことをはじめ、[[胡適]]などは「適者生存」にちなんで改名するなど清末における厳復の影響は無視できない。 |
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[[ファイル:YanFuHouse.jpg|代替文=厳復元邸|サムネイル|'''厳復'''元邸]] |
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[[辛亥革命]]の後、[[孔子]]崇拝 |
[[1905年]]、復旦公学(後の[[復旦大学]])の設立に参加、[[1906年]]から[[1907年]]まで二代目学長を務める。その後[[北京大学]]学長も務めるが、[[辛亥革命]]の後、[[孔子]]崇拝の提唱や[[袁世凱]]の帝制運動への参加によって保守派のレッテルを貼られ、失意のうちに晩年を迎えた。 |
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== 主要訳著 == |
== 主要訳著 == |
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:上海文明編訳書局1903年4月出版。ハーバート・スペンサー著『社会学研究』(The Study of Sociology)の翻訳。 |
:上海文明編訳書局1903年4月出版。ハーバート・スペンサー著『社会学研究』(The Study of Sociology)の翻訳。 |
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*『群己権界論』 |
*『群己権界論』 |
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:上海商務 |
:上海商務印書館1903年9月出版。[[ジョン・スチュアート・ミル]]著『[[自由論 (ミル)|自由論]]』(On liberty)の翻訳。 |
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*『社会通銓』 |
*『社会通銓』 |
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:上海商務 |
:上海商務印書館1904年1月出版。[[エドワード・ジェンクス]]著『政治史概説』(A History of Politics)の翻訳。 |
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*『穆勒名学』 |
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:南京金粟斎出版1905年出版。ジョン・スチュアート・ミル著『[[論理学体系]]』(A System of Logic, Ratiocinative and Inductive)の翻訳。 |
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*『法意』 |
*『法意』 |
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:商務 |
:商務印書館1909年出版。[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]著『[[法の精神]]』(L'esprit des lois)の翻訳。 |
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== 関連項目 == |
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*[[戊戌の変法#変法自強運動]] |
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*[[中国における論理学]] |
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*[[板橋林家]] - 妻の実家 |
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*[[辜振甫]] - 孫娘の厳倬雲の夫 |
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== 関連文献 == |
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* 永田圭介『厳復 富国強兵に挑んだ清末思想家』[[東方書店]]〈東方選書〉、2011年、ISBN 978-4497211132 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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[[Category:19世紀中国の翻訳家]] |
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[[zh:嚴復]] |
2024年4月30日 (火) 12:35時点における最新版
厳復 | |
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プロフィール | |
出生: |
1854年1月8日 (清咸豊3年12月初10日) |
死去: |
1921年(民国10年)10月27日![]() |
出身地: |
![]() |
職業: | 啓蒙思想家・翻訳家 |
各種表記 | |
繁体字: | 嚴復 |
簡体字: | 严复 |
拼音: | Yán Fù |
ラテン字: | Yen Fu |
和名表記: | げん ふく/げん ぷく |
発音転記: | イエン フー |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/06/StatueYanFu.jpg/220px-StatueYanFu.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/%E5%9A%B4%E5%BE%A9.jpg/220px-%E5%9A%B4%E5%BE%A9.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Tianyanlun.jpg/220px-Tianyanlun.jpg)
生涯[編集]
代々医者を家業とする一族に生まれ、幼少より科挙合格のための教育を受けた。しかし父の病死の後に家が没落したため、科挙受験を断念し左宗棠や沈葆楨が創設した福州船政学堂に学んだ。この学校は海軍の人材育成のために設けられたもので、当時推進されていた洋務運動の成果の一つであった。伝統的な教育を離れ、この西洋教育︵英語・数学・物理学等︶を受けたことが厳復の将来を決定付けることになる。 1877年には最初の留学生の一人として渡英し、1879年までポーツマス海軍大学で軍事学を学んだ。イギリスにおいて厳復は単に軍事関係の知識を吸収しただけではなく、広く西欧の文化・思想を吸収し、それに深く感銘を受けたという。そしてそのことが後の思想・行動に決定的な影響を与えることになる。すなわち上で少し触れた洋務運動は﹁中体西用﹂―中国に軍事・産業に関する知識は導入することは是とするが、哲学・思想・文化にあっては中国的伝統を固持しようとする思想―を旨としていたが、そのような皮相な西欧理解と小手先の改革では清朝の現状を打破することはできない、と厳復は考えるにいたる。 帰国後、1880年に李鴻章が天津に創設した北洋水師学堂に招かれて総教習となり、以後二十年間その職にあった。しかし1894年から翌年にかけて戦われた日清戦争での敗北は、洋務運動の限界を露呈するものであった。この時に際し、厳復は﹃直報﹄紙上に﹁論世変之亟﹂、﹁原強﹂などを発表し、啓蒙活動を本格的に開始する。発表されたものはどれも西欧の体験から中国の政治や思想を厳に批判し、その政治的・知的怠惰が現状の苦境を招いたと主張し大いに注目を集めた。 1898年、代表的訳書﹃天演論﹄を出版。この書は中国における最初の社会進化論紹介であり、まさしく清末において一世を風靡した。タイトルにおける﹁天演﹂とは‘evolution’の訳語であって、本そのものはトマス・ヘンリー・ハクスリーの﹃進化と倫理﹄を訳し、それに厳復自身のコメントを付したものである。ただ厳復のコメントはハクスリーとは意見を異にするハーバート・スペンサーの立場にたったものであり、ハクスリーに批判的な言辞が多く見られる。厳復の翻訳は桐城派という古雅な文体に則って為されたために非常に難解であったにもかかわらず、﹃天演論﹄の与えた影響は非常に大きかった。現在当たり前となっている発展史観を清末に広めたのは、まさにこの書の影響である。清末の人々は西欧列強や明治日本によって滅亡の危機にさらされているという意識が濃厚であったが、﹃天演論﹄はその意識に簡単に理解できる社会進化論という理論を与えた。そのため書中の﹁優勝劣敗﹂・﹁適者生存﹂といったことばは流行語ともなった。また同時期活躍した康有為や梁啓超の思想に決定的な影響を与えたことをはじめ、胡適などは﹁適者生存﹂にちなんで改名するなど清末における厳復の影響は無視できない。![厳復元邸](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ca/YanFuHouse.jpg/220px-YanFuHouse.jpg)