「吉田兼亮」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
36行目: | 36行目: | ||
[[category:吉田氏|かねすけ]] |
[[category:吉田氏|かねすけ]] |
||
[[category:赤穂浪士|よしたかねすけ]] |
[[category:赤穂浪士|よしたかねすけ]] |
||
[[category:常陸国の人物|よしたかねすけ]] |
|||
[[Category:1641年生|よしたかねすけ]] |
[[Category:1641年生|よしたかねすけ]] |
||
[[Category:1703年没|よしたかねすけ]] |
[[Category:1703年没|よしたかねすけ]] |
2008年8月22日 (金) 10:20時点における版
吉田 兼亮︵よしだ かねすけ︵忠左衛門 ちゅうざえもん︶ 寛永18年︵1641年︶-元禄16年2月4日︵1703年3月20日︶︶は、赤穂浪士四十七士の一人。父は吉田助兵衛之貫。母は備中松山藩水谷家家臣貝賀左門︵新兵衛︶の娘。妻は熊井新八の娘。子に吉田九助︵長男・早世︶、吉田助次郎成重︵次男・早世︶、吉田沢右衛門兼貞︵三男・嫡男となる。四十七士︶、吉田九郎大夫兼直︵四男・吉田伝内︶、吉田さん︵長女・伊藤十郎大夫治興室︶、吉田すえ︵次女・那須彦右衛門高矩室︶がいる。弟に貝賀弥左衛門友信がいる。赤穂藩では足軽頭・郡代︵群奉行︶、200石役料50石。本姓は藤原氏。家紋は丸の内花菱。
生涯
寛永18年︵1641年、笠間藩主浅野長直の家臣吉田助兵衛の長男として笠間に生まれる。正保2年︵1645年︶に浅野家が赤穂へ移封されたので、吉田家も赤穂に移った。浅野家中の甲州流軍学者近藤正純や近藤正憲に甲州流軍学を学ぶ。水沼久太夫から槍を学ぶ。寛文3年︵1663年︶には熊井新八の娘と結婚。以降四男二女に恵まれる。寛文12年︵1672年︶には八歳の寺坂吉右衛門の世話をし、また吉田家の奉公人とした。貞享3年︵1686年︶、51歳の頃に赤穂浅野家の飛領の播磨国加東郡や穂積郡の郡代となる。このときに寺坂吉右衛門も忠左衛門にお供して加東郡へ向かっているが、この際に吉田配下の浅野家の足軽としている。
元禄14年︵1701年︶3月14日、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂藩は改易となった。
この事件の報が赤穂に伝えられた際には吉田忠左衛門は加東郡にいたが、報を聞くとすぐに赤穂城へ駈けつけている。吉田は赤穂城の論争も開城後も一貫して筆頭家老大石内蔵助派として行動する。内蔵助の義盟にも加わった。
なお赤穂城での会議中、忠左衛門は他藩の間者︵スパイ︶竹井某を捕らえる働きがあったといわれる。
開城後には大石内蔵助とともに藩政残務処理を命じられ、遠林寺で事務にあたった。この間は幕府より十人扶持が支給された。残務処理が終わったのちには播磨国三木町に移る。
元禄15年︵1702年︶3月、忠左衛門は近松勘六とともに江戸に下り、吉良上野介への仇討ちを強行に主張する堀部安兵衛ら急進派の説得にあたっている。その後も田口一真の変名で江戸に留まり、江戸の情報を京都の内蔵助に伝える役目を果たす。
7月、忠左衛門は浅野内匠頭の弟浅野大学が広島の浅野宗家に永預けの処分を受けたことを内蔵助に伝える。これにより浅野家再興が絶望的となり、内蔵助は円山会議において以降は仇討一本とすることを決定した。
内蔵助の江戸下向の際には鎌倉まで迎えに出ている。また内蔵助が関東で最初に滞在した川崎平間村の軽部五兵衛宅離れも吉田忠左衛門が手配したものである。
12月15日未明、47人の赤穂浪士は吉良上野介の屋敷へ討ち入る。忠左衛門は裏門隊の大将大石主税の後見にあたった。討ち入りの最中、吉良上野介の姿が見当たらず、浪士たちは焦りの色を見せるが、忠左衛門は同志を叱咤して探させた。2時間あまりの激闘の末に浪士たちは遂に吉良上野介を見つけ出して討ち果たし、その首級を上げた。
討ち入り後、浪士たちは浅野内匠頭の墓所のある泉岳寺へ引き揚げるが、途中、内蔵助の命により忠左衛門と富森助右衛門は一行から離れて大目付仙石伯耆守の屋敷へ出頭して討ち入りの口上書を提出する役割を任された。また吉良家の隣家土屋主税邸にも忠左衛門が吉良を討ち取った旨の報告をしている。
幕府の命により大石内蔵助とともに熊本藩主細川越中守の下屋敷にお預けとなる。元禄16年︵1703年︶2月4日、細川家家臣雨森清太夫房親の介錯で切腹。享年63。主君浅野内匠頭長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃仲光剣信士。
備考
●忠左衛門は小柄な内蔵助と違って大柄な体格で容貌魁偉であった。
●よほど体が大きかったらしく、細川家家臣堀内伝右衛門が書き遺したところによると忠左衛門は﹁自分の体は大きく、切腹後には無様な姿になりそうなのですぐに風呂敷で包んでしまってほしい﹂といって費用のお金を細川家に渡したという。
●石高は200石と原惣右衛門︵300石︶や片岡源五右衛門︵350石︶に劣るが、武芸にも秀でて人望もあり、年齢も高かったので同士の間では内蔵助に次ぐ人物として重んじられた。