「坊門清忠」の版間の差分
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[[後醍醐天皇]]の側近として活躍。[[正中 (元号)|正中]]3年︵[[1326年]]︶[[弁官|右大弁]]。翌[[嘉暦]]2年︵[[1327年]]︶[[従三位]]に叙せられ[[公卿]]に列す。
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[[後醍醐天皇]]の側近として活躍。[[正中 (元号)|正中]]3年︵[[1326年]]︶[[弁官|右大弁]]。翌[[嘉暦]]2年︵[[1327年]]︶[[従三位]]に叙せられ[[公卿]]に列す。
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[[後醍醐天皇]]が[[建武の新政]]を始めた際には[[従二位]]・[[大蔵省#律令制における大蔵省|大蔵卿]]に叙任するなど要職を歴任した。[[建武 (日本)|建武]]2年︵[[1335年]]︶[[足利尊氏]]が[[新田義貞]]征伐を上奏した際に、強硬に反対した。また尊氏が謀叛の後、西国へ逃れ、再び東上して来た軍を[[楠木正成]]に迎え撃たせようとした際には、正成が戦略上有利として進言した[[京都]]放棄策を﹁帝がたびたび京を離れるのは良くない﹂との理由から退けたことで知られる。結果として[[湊川の戦い]]で楠木正成は戦死することになり、清忠は戦略も理解せずに忠臣正成の献言を退けた公家として評判を落とした。足利尊氏の京都奪回により、建武3年︵[[1336年]]︶12月、後醍醐天皇とともに[[吉野]]へ赴き、翌々年 |
[[後醍醐天皇]]が[[建武の新政]]を始めた際には[[従二位]]・[[大蔵省#律令制における大蔵省|大蔵卿]]に叙任するなど要職を歴任した。[[建武 (日本)|建武]]2年︵[[1335年]]︶[[足利尊氏]]が[[新田義貞]]征伐を上奏した際に、強硬に反対した。また尊氏が謀叛の後、西国へ逃れ、再び東上して来た軍を[[楠木正成]]に迎え撃たせようとした際には、正成が戦略上有利として進言した[[京都]]放棄策を﹁帝がたびたび京を離れるのは良くない﹂との理由から退けたことで知られる。結果として[[湊川の戦い]]で楠木正成は戦死することになり、清忠は戦略も理解せずに忠臣正成の献言を退けた公家として評判を落とした。足利尊氏の京都奪回により、建武3年︵[[1336年]]︶12月、後醍醐天皇とともに[[吉野]]へ赴き、翌々年死去した。
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== 官歴 == |
== 官歴 == |
2011年2月28日 (月) 18:17時点における版
坊門 清忠︵ぼうもん きよただ、生年不詳 - 延元3年/暦応元年3月21日︵1338年4月11日︶︶は、南北朝時代の公家。左近衛中将・坊門俊輔の子。子に重隆・親忠がいる。官位は従二位・参議。通称は坊門宰相。