小倉玉屋
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小倉玉屋︵こくらたまや︶はかつて福岡県北九州市小倉北区で営業していた日本の百貨店。
歴史
﹁菊屋﹂から﹁玉屋﹂へ
長崎県佐世保市、福岡県福岡市、佐賀県佐賀市で既に百貨店を経営していた田中丸一族は、1938年︵昭和13年︶に、当時の小倉市室町にグループ4社目となる百貨店をオープンさせた。各地域の独自性を重んじ﹁一店一社﹂制をとっていた田中丸一族は、井筒屋ができてまだ年も浅いことから進出に反対していた地元に配慮し、既に導入していた﹁玉屋﹂の商号は用いず、﹁菊屋﹂の名称で営業を開始した。 第二次世界大戦後、店舗はアメリカ軍に接収され、米軍専用の﹁PXストア﹂となった。この状態は日本が独立を回復するまで続き、接収を解かれたあと、正式に﹁玉屋﹂の商号を用いるようになった。 以後、井筒屋とともに地域の百貨店として親しまれ、食品売り場などは井筒屋よりも高級志向の店舗・物品を揃えるなど独自性を築いたが、小倉駅の移転により小倉の商業中心地では無くなったこと︵後年西小倉駅設置︶や、1993年︵平成5年︶の小倉そごう開業によって、売上げは大幅に減少した。苦境からの脱出
この頃、北九州市が中心となって、現在のリバーウォーク北九州となる、小倉北区役所と近隣地域の再開発計画︵室町一丁目第一種市街地再開発事業︶が持ち上がった。小倉玉屋もその対象地域に組み入れられ、地権者として権利床を所有するため、室町再開発ビルに入居し再生を目指していた。 しかし、小倉における百貨店の競合状況︵小倉そごう、井筒屋︶のなかで、最も苦境に立たされており、2000年︵平成12年︶春、地元企業や地元財界の大迫忍・元ゼンリン社長個人の引き受けで1億円から約4億3000万円に増資、経営危機をかろうじて脱した。 ところが、銀行は室町再開発ビルで再営業する場合、現店舗閉店から開業までブランクが発生することを不安視、移転入居のための新規融資に難色を示したため、最終的には権利床を北九州紫川開発に売却し、室町再開発ビルへの入居を断念した。終焉とその後
2000年12月に小倉そごうが閉店し、後継テナントの誘致が地元経済界の課題となっていたため、大迫氏らが中心となって、小倉玉屋を小倉そごう跡に移転させるよう働きかけが行われた。 そして、リバーウォークの工事スケジュールの関係もあり、2002年︵平成14年︶2月28日現店舗を閉店、3月1日田中丸善昌社長は退任し、ゼンリンの浦上博夫専務が社長に就任、3月10日小倉そごう跡︵現・コレット︶に移り、これまでの店舗の総床面積に相当する、地下1階から4階までの一部を使って営業を続けた。 しかし、大規模な改装も行わずに営業していたこともあり、売上げの落ち込みは止まらず、このままでは会社存続が困難になったとして、経営陣は百貨店廃業を決断。小倉そごうの閉店からちょうど2年後の2002年12月25日に、百貨店としての65年の歴史に幕を下ろした。 その後社名を﹁KTサービス﹂︵KT=小倉玉屋︶に改め、ビルメンテナンス業務などを行っていた。 同社連絡先[1]と同一連絡先である小倉玉屋友の会は﹁前払式特定取引業︵友の会︶の廃業のお知らせ﹂を平成19年9月1日に公告した。 北九州市役所本庁内に残った地下の﹁玉屋食堂﹂の運営は、玉屋グループ会社の玉屋食品が行っている。 百貨店廃業で解雇された従業員の一部は、玉屋グループの佐賀玉屋の支援を受け、会社を新たに起こし、JR小倉駅前のリーガロイヤルホテル小倉の一角に小さな店を構えた。この店舗は、包装紙や紙袋などに玉屋のものをそのまま使用し、佐賀玉屋も実質的に自社のサテライトショップのひとつと位置づけている。かつての小倉玉屋の顧客を中心に親しまれている。脚注
- ^ 前払式証票第三者型発行者一覧 19年7月末現在 (PDF) によれば、北九州市小倉北区紺屋町13番1号 毎日西部会館内