「小笠原長房 (阿波小笠原氏)」の版間の差分
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'''小笠原 長房'''︵おがさわら ながふさ︶は、[[鎌倉時代]]中期の武将。[[鎌倉幕府]][[御家人]]。[[阿波国]][[守護]]。[[小笠原長経]]の次男で阿波小笠原氏の祖となる︵ただし、長房を長男とする説もある︶<ref name=hanaoka>花岡康隆﹁信濃小笠原氏の研究の軌跡と成果﹂︵花岡編著﹃シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻 信濃小笠原氏﹄︵戒光祥出版、2016年︶ISBN 978-4-86403-183-7︶</ref>。
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[[承久の乱]]後、兄・[[小笠原長忠|長忠]]が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である[[信濃国]]への帰国を希望したために、代わって長房が守護となった。[[文永]]4年([[1267年]])に幕府の命令を奉じて、[[三好郡]][[郡領]]・[[平盛隆]]を討ち、褒賞として[[美馬郡]]と[[三好郡]]に2万6千町余りの所領が与えられ、[[阿波岩倉城]]を拠点とした。子孫は鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務め、子孫からは[[三好氏]]などを輩出した。 |
[[承久の乱]]後、兄・[[小笠原長忠|長忠]]が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である[[信濃国]]への帰国を希望したために、代わって長房が守護となった︵ただし、前述のように長房が長男で長忠は三男であったとする説もある︶<ref name=hanaoka/>。
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[[文永]]4年([[1267年]])に幕府の命令を奉じて、[[三好郡]][[郡領]]・[[平盛隆]]を討ち、褒賞として[[美馬郡]]と[[三好郡]]に2万6千町余りの所領が与えられ、[[阿波岩倉城]]を拠点とした。子孫は鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務め、子孫からは[[三好氏]]などを輩出した。 |
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2016年5月28日 (土) 16:19時点における版
小笠原長房 | |
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時代 | 鎌倉時代中期 |
生誕 | 建保元年(1213年) |
死没 | 建治2年10月25日(1276年12月2日) |
幕府 | 鎌倉幕府 阿波国守護 |
主君 | 藤原頼経、頼嗣、宗尊親王、惟康親王 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原長経、養父:小笠原長清 |
兄弟 | 長忠、長房、赤沢清経 |
子 | 安宅長久、小笠原長宗、小笠原長親、小笠原長種 |
小笠原 長房︵おがさわら ながふさ︶は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。阿波国守護。小笠原長経の次男で阿波小笠原氏の祖となる︵ただし、長房を長男とする説もある︶[1]。
承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となった︵ただし、前述のように長房が長男で長忠は三男であったとする説もある︶[1]。
文永4年︵1267年︶に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に2万6千町余りの所領が与えられ、阿波岩倉城を拠点とした。子孫は鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務め、子孫からは三好氏などを輩出した。
- ^ a b 花岡康隆「信濃小笠原氏の研究の軌跡と成果」(花岡編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻 信濃小笠原氏』(戒光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-183-7)