小笠原長経
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小笠原 長経 | |
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時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
生誕 | 治承3年5月17日(1179年6月23日) |
死没 | 宝治元年11月5日(1247年12月3日) |
改名 | 豊光丸[1] |
別名 | 弥太郎、小笠原入道、高倉入道長禅[2] |
官位 | 従四位上[2]、遠江守[2]、信濃守[2]、阿波守[2]、民部大輔[2]、弾正少弼[2]、侍従[2] |
幕府 | 鎌倉幕府 阿波国守護[2] |
主君 | 源頼家 |
氏族 | 甲斐源氏、小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原長清、母:藤原邦綱の娘?[1] |
兄弟 | 長経、伴野時長、大井朝光、大倉長澄他 |
妻 | 黒坂朝信の娘、家女房、平重衡の娘[3] |
子 | 七郎長村、長忠[2]、長房、赤沢清経 |
小笠原 長経︵おがさわら ながつね︶は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。小笠原長清の子[2]。小笠原氏2代当主。
生涯[編集]
父とともに文治5年︵1189年︶の奥州合戦に従軍。その後は二代将軍源頼家の近習として仕え、流鏑馬の射手を務めている。正治元年︵1199年︶4月、頼家が十三人の合議制に反発して指名した目通りが許される5人の近習[4]にも選ばれている。同年8月、頼家が安達景盛の愛妾を奪ったことで両者が対立すると、頼家の命を受けて安達邸を包囲したが、北条政子に制止されている︵﹃吾妻鏡﹄︶。 建仁3年︵1203年︶9月、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後、鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。 承久3年︵1221年︶、承久の乱で父・長清は鎌倉方の大将軍として子息8人と共に京へ攻め上り、京都軍と戦った。乱後、恩賞として長清は阿波国守護に任命される︵﹃尊卑分脈﹄︶[5]。これとは別に、長経は同国麻殖保の地頭に任じられた[5]。貞応2年︵1223年︶には、長経が同国守護となっていることが確認できる[5]。元仁元年︵1224年︶、同国麻殖保の地頭として、預所の左衛門尉清基との訴訟に勝利した。安貞元年︵1227年︶2月13日、上皇の御所新造にあたり、寝殿の担当を命ぜられた。 出家して小笠原入道と称され、宝治元年︵1247年︶5月9日、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている︵﹃葉黄記﹄︶。 宝治元年︵1247年︶11月5日、69歳で死去[2]。関連作品[編集]
- テレビドラマ