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'''屋代 弘賢'''︵やしろ ひろかた︶は、[[江戸時代]]中期から後期にかけての[[江戸幕府]][[御家人]]︵[[右筆]]︶・[[国学|国学者]]。通称は太郎。号は輪池<ref>{{Cite web|和書| date = | url = https://www.ndl.go.jp/exhibit60/person.html| title = 人物略歴| publisher = 国立国会図書館 |accessdate=2022年10月29日 }}</ref>。
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
2023年11月19日 (日) 21:38時点における版
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屋代弘賢 | |
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屋代弘賢32歳像と83歳像 | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 宝暦8年(1758年) |
死没 | 天保12年閏1月18日(1841年3月10日) |
改名 | 詮虎、詮賢、弘賢、詮丈 |
別名 | 太郎(通称)、輪池(号) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
氏族 | 屋代氏 |
父母 | 屋代佳房 |
屋代 弘賢︵やしろ ひろかた︶は、江戸時代中期から後期にかけての江戸幕府御家人︵右筆︶・国学者。通称は太郎。号は輪池[1]。
経歴
江戸神田明神下の幕臣屋代忠太夫佳房の子として誕生。初名は詮虎。その後、諱を詮賢、弘賢、詮丈の順に改める。 7歳の時から幕府右筆森尹祥に書を学び、安永8年︵1779年︶22歳で家督を継いだ。天明元年︵1781年︶西丸台所に出仕した。柴野栗山に従い、天明2年︵1782年︶に幕府の表右筆として出仕する。天明6年︵1786年︶、本丸附書役となる。寛政5年︵1793年︶、奥右筆所詰支配勘定格となり、文化元年︵1804年︶3月、勘定格として御目見以上に昇進した。文化2年︵1805年︶、ロシアに対する幕府の返書を清書した。 塙保己一に国学を学んで﹃群書類従﹄の編纂に加わる。後に和学講談所の会頭を務めた。死没時は、奥右筆所詰奥右筆格。有職故実・書誌学に優れていた他、仕事柄能書家としても知られていた。幕命によって﹃寛政重修諸家譜﹄・﹃古今要覧稿﹄・﹃集古十種﹄の編纂にも従事した。京都・大和の古社寺を訪れ古宝物の調査をしたときの記録﹃道の幸﹄を著している。柴野栗山・成島司直・小山田与清・大田南畝・谷文晁らとも親交があった。 また、弘賢は蔵書家としても知られ、上野不忍池のほとりに蔵書5万冊を納めた書庫を築いて﹁不忍文庫﹂と命名され、蔵書目録﹃不忍文庫目録﹄︵朝倉治彦編﹃屋代弘賢・不忍文庫蔵書目録﹄全6巻 ゆまに書房、2001年︶に出版されている。著書
参考文献
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