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[[1899年]]、[[東京美術学校]]の講師となり西洋美術史を担当︵小倉に赴任した[[森鷗外]]の後任︶、[[1903年]]教授に就任。この間、[[1900年]]の[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万博]]を見学、﹁巴里の美術学生﹂︵[[1901年]]︶を新聞連載した。[[1904年]]の[[セントルイス万国博覧会|セントルイス万博]]では美術部審査官を務め、アメリカからヨーロッパ諸国を訪問。1906年に父が亡くなると男爵位を襲爵した。1910年以降、森鴎外の勧めにより[[慶應義塾]]で西洋美術史を講義した。
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白馬会解散後、[[1913年]]には[[国民美術協会]]︵初代会頭は建築家・[[中條精一郎]]︶の設立に尽力した。1914年、美術学校を休職し、私費でヨーロッパに4回目の外遊。このとき[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]と会見した。また、[[ロンドン]]で[[ルイージ・ルッソロ]]の[[未来派]]音楽の演奏を聴いてレポートを残している[ |
白馬会解散後、[[1913年]]には[[国民美術協会]]︵初代会頭は建築家・[[中條精一郎]]︶の設立に尽力した。1914年、美術学校を休職し、私費でヨーロッパに4回目の外遊。このとき[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]と会見した。また、[[ロンドン]]で[[ルイージ・ルッソロ]]の[[未来派]]音楽の演奏を聴いてレポートを残している[https://otomojamjam.hatenadiary.org/entries/2005/06/08]。
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帰国後、美術学校への復職が認められなかった。理由は不明だが、講義中に社会主義に言及したことが一因だとも言われる。まもなく﹁美術学校改革運動﹂が起こると、[[正木直彦]]校長を激しく批判した。政治家になることも考えたが、持病の[[糖尿病]]が悪化して療養生活に入り、[[1917年]]に逝去。岩村の墓は、三崎の本瑞寺にあり、美術史家の[[児島喜久雄]]の設計になる<ref>[[五十殿利治]]﹁美術史学の成立検討する評伝﹃美術批評の先駆者、岩村透﹄田辺徹著﹂日本経済新聞2009年2月8日付夕刊、21面。</ref>。
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帰国後、美術学校への復職が認められなかった。理由は不明だが、講義中に社会主義に言及したことが一因だとも言われる。まもなく﹁美術学校改革運動﹂が起こると、[[正木直彦]]校長を激しく批判した。政治家になることも考えたが、持病の[[糖尿病]]が悪化して療養生活に入り、[[1917年]]に逝去。岩村の墓は、三崎の本瑞寺にあり、美術史家の[[児島喜久雄]]の設計になる<ref>[[五十殿利治]]﹁美術史学の成立検討する評伝﹃美術批評の先駆者、岩村透﹄田辺徹著﹂日本経済新聞2009年2月8日付夕刊、21面。</ref>。
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2020年7月2日 (木) 19:35時点における版
岩村 透︵いわむら とおる、明治3年1月25日︵1870年2月25日︶ - 大正6年︵1917年︶8月17日︶は明治後期から大正期にかけて活躍した美術評論家、東京美術学校教授。
経歴
東京小石川区生まれ。岩村家は土佐藩家老︵宿毛領主︶伊賀家の家臣で、父・岩村高俊は後に佐賀県令、愛媛県令、福岡県知事、貴族院議員などを務め、男爵となった。 透は慶應義塾幼稚舎、同人社︵中村正直の塾︶、東京英和学校︵後の青山学院︶と進むが中途退学。1888年にアメリカに渡り、ニューヨークで絵画を学んだ。この頃アメリカに本多庸一もいてお互いに親交を深めた。1891年にロンドン、パリと移り、パリ滞在中に黒田清輝らと交友を持った。1892年にイタリア各地の美術を見て回った後、帰国。 1893年、母校・東京英和学校の英語教師となった。1894年、明治美術学校で西洋美術史を講義。1896年黒田清輝が創立した白馬会に参加した。 1899年、東京美術学校の講師となり西洋美術史を担当︵小倉に赴任した森鷗外の後任︶、1903年教授に就任。この間、1900年のパリ万博を見学、﹁巴里の美術学生﹂︵1901年︶を新聞連載した。1904年のセントルイス万博では美術部審査官を務め、アメリカからヨーロッパ諸国を訪問。1906年に父が亡くなると男爵位を襲爵した。1910年以降、森鴎外の勧めにより慶應義塾で西洋美術史を講義した。 白馬会解散後、1913年には国民美術協会︵初代会頭は建築家・中條精一郎︶の設立に尽力した。1914年、美術学校を休職し、私費でヨーロッパに4回目の外遊。このときロダンと会見した。また、ロンドンでルイージ・ルッソロの未来派音楽の演奏を聴いてレポートを残している[1]。 帰国後、美術学校への復職が認められなかった。理由は不明だが、講義中に社会主義に言及したことが一因だとも言われる。まもなく﹁美術学校改革運動﹂が起こると、正木直彦校長を激しく批判した。政治家になることも考えたが、持病の糖尿病が悪化して療養生活に入り、1917年に逝去。岩村の墓は、三崎の本瑞寺にあり、美術史家の児島喜久雄の設計になる[1]。関連文献
- 『芸苑雑稿 他』(宮川寅雄編、平凡社東洋文庫 初版1971年、ワイド版2003年)、「巴里の美術学生」、「美術と社会」など代表的な評論全14編を収録
- 田辺徹 『美術批評の先駆者、岩村透 ラスキンからモリスまで』(藤原書店、2008年)
註
外部リンク
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 岩村(高俊)家第2代 1906年 - 1917年 |
次代 岩村博 |