岩村透
岩村 透︵いわむら とおる、明治3年1月25日︵1870年2月25日︶ - 大正6年︵1917年︶8月17日︶は明治後期から大正期にかけて活躍した美術評論家、東京美術学校教授。
経歴
東京小石川区生まれ。岩村家は土佐藩家老︵宿毛領主︶伊賀家の家臣で、父・岩村高俊は後に佐賀県令、愛媛県令、福岡県知事、貴族院議員などを務め、男爵となった。 透は慶應義塾幼稚舎、同人社︵中村正直の塾︶、東京英和学校︵後の青山学院︶と進むが中途退学。1888年にアメリカに渡り、ニューヨークで絵画を学んだ。この頃アメリカに本多庸一もいてお互いに親交を深めた。1891年にロンドン、パリと移り、パリ滞在中に黒田清輝らと交友を持った。1892年にイタリア各地の美術を見て回った後、帰国。 1893年、母校・東京英和学校の英語教師となった。1894年、明治美術学校で西洋美術史を講義。1896年黒田清輝が創立した白馬会に参加した。 1899年、東京美術学校の講師となり西洋美術史を担当︵小倉に赴任した森鷗外の後任︶、1903年教授に就任。この間、1900年のパリ万博を見学、﹁巴里の美術学生﹂︵1901年︶を新聞連載した。1904年のセントルイス万博では美術部審査官を務め、アメリカからヨーロッパ諸国を訪問。1906年に父が亡くなると男爵位を襲爵した。1910年以降、森鴎外の勧めにより慶應義塾で西洋美術史を講義した。 白馬会解散後、1913年には国民美術協会︵初代会頭は建築家・中條精一郎︶の設立に尽力した。1914年、美術学校を休職し、私費でヨーロッパに4回目の外遊。このときロダンと会見した。また、ロンドンでルイージ・ルッソロの未来派音楽の演奏を聴いてレポートを残している[1]。 帰国後、美術学校への復職が認められなかった。理由は不明だが、講義中に社会主義に言及したことが一因だとも言われる。まもなく﹁美術学校改革運動﹂が起こると、正木直彦校長を激しく批判した。政治家になることも考えたが、持病の糖尿病が悪化して療養生活に入り、1917年に逝去。岩村の墓は、三崎の本瑞寺にあり、美術史家の児島喜久雄の設計になる[1]。著書
●﹃芸苑雑稿﹄画報社、1906年5月。全国書誌番号:40069579。 ●﹃美術と社会﹄趣味叢書発行所・趣味之友社︿趣味叢書 第12篇﹀、1915年12月。全国書誌番号:43016913。 ●宮川寅雄編 編﹃芸苑雑稿 他﹄平凡社︿東洋文庫 182﹀、1971年3月。全国書誌番号:75041113。 ●宮川寅雄編 編﹃芸苑雑稿 他﹄平凡社︿ワイド版東洋文庫 182﹀、2003年9月。全国書誌番号:22870914。 収録‥巴里の美術学生、芸苑雑稿︵初集︶、芸苑雑稿︵2集︶、美術と社会、宮川寅雄解説関連文献
●田辺徹﹃美術批評の先駆者、岩村透 ラスキンからモリスまで﹄藤原書店、2008年12月。ISBN 9784894346666。 ●今橋映子﹃近代日本の美術思想 美術批評家・岩村透とその時代﹄白水社︵上下︶、2021年註
外部リンク
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 岩村(高俊)家第2代 1906年 - 1917年 |
次代 岩村博 |