島耕二
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しま こうじ 島 耕二 | |
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キネマ旬報社『キネマ旬報』第13号(1947年)より | |
本名 | 鹿児島 武彦 |
生年月日 | 1901年2月16日 |
没年月日 | 1986年9月10日(85歳没) |
出生地 | 日本 長崎県長崎市 |
職業 | 俳優・映画監督 |
ジャンル | 劇映画(現代劇・時代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1925年 - 1980年代 |
配偶者 |
大谷良子 (離婚) 片山夏子 (離婚) 轟夕起子 (離婚) |
著名な家族 | 片山明彦 (長男) |
島 耕二︵しま こうじ、本名・鹿児島武彦、1901年2月16日 - 1986年9月10日︶は、日本の俳優、映画監督。女優の大谷良子、片山夏子、轟夕起子は元妻[1]。俳優の片山明彦は実子︵大谷と間の子︶[1]。
経歴[編集]
1901年︵明治34年︶2月16日、長崎県長崎市に、医者の息子として生まれる。日本映画俳優学校を第一期生として卒業し、1925年︵大正14年︶、日活大将軍撮影所に入社する。現代的な二枚目俳優として内田吐夢、阿部豊、溝口健二などの作品に出演する。しかし、1934年︵昭和9年︶の労働争議で内田、村田実、伊藤大輔らとともに日活を脱退し、新映画社の創立に参加する。解散後、新興キネマを経て、日活多摩川撮影所に入り、﹃明治一代女﹄、﹃真実一路﹄などの作品に出演し、日活黄金期を支えるスター俳優としての地位を確立する。 1939年︵昭和14年︶、﹃雲雀﹄から監督に転向し、1940年︵昭和15年︶、﹃風の又三郎﹄を発表。1941年︵昭和16年︶に発表した﹃次郎物語﹄は詩情あふれる演出で監督としての代表作となった。第二次世界大戦中の1943年︵昭和18年︶召集される。 戦後は、大映、東横映画、新東宝、大映と移り、娯楽映画を中心に発表する。主題歌が大ヒットとなった﹃銀座カンカン娘﹄などの歌謡映画から﹃金色夜叉﹄、﹃滝の白糸﹄などのリメイク作品、﹃宇宙人東京に現わる﹄などの空想映画まで作風は多岐に及んだ。70年代以降は、主にPR映画の監督として活躍し、80歳を越えても年に1本のペースで1時間以上の劇映画を製作し続けた[2]。墓所は多磨霊園。主な作品[編集]
出演作品[編集]
- 栄光の丘へ(1925年)
- 紙人形春の囁き(1926年)
- 水戸黄門(1926年)
- 足にさはった女(1926年)
- 維新の京洛 竜の巻 虎の巻(1928年)
- 特急三百哩(1928年)
- 東京行進曲(1929年)
- -喜劇- 汗(1929年12月31日)
- 唐人お吉(1930年)
- 明治一代女(1935年)
- 情熱の詩人啄木 ふるさと篇(1936年) - 石川啄木 役
- 翼の世界(1937年)
- 真実一路(1937年)
- 裸の町(1937年)
監督作品[編集]
- 雲雀(1939年)
- 暢気眼鏡(1940年)
- 風の又三郎(1940年)
- 転落の詩集(1940年)
- 次郎物語(1941年)
- 出生前十二時間(1943年)
- シンガポール總攻撃(1943年)
- 銀座カンカン娘(1949年)
- 窓から飛び出せ(1950年)
- 上海帰りのリル(1952年)
- リンゴ園の少女(1952年)
- 十代の性典(1953年)
- にっぽん製(1953年)
- 金色夜叉(1954年)
- 風立ちぬ(1954年)
- 幻の馬(1955年)
- 宇宙人東京に現わる(1956年)
- 残菊物語(1956年)
- 滝の白糸(1956年)
- 新・平家物語 静と義経(1956年)
- 慕情の河(1957年)
- 有楽町で逢いましょう(1958年)
- 猫は知っていた(1958年)
- 渇き(1958年)
- 都会という港(1958年)
- 細雪(1959年)
- いつか来た道(1959年)
- 花の大障碍(1959年)
- 安珍と清姫(1960年)
- 明日を呼ぶ港(1961年)
- 情熱の詩人啄木(1962年)
- 停年退職(1963年)
- 末は博士か大臣か(1963年)
- 処女受胎(1966年)
- 複雑な彼(1966年)
- 怪談おとし穴 (1968年、遺作)
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年