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1947年 嘉伊智は瀧子を[[ソウル]]に残して日本に戻り、世界平和運動の行脚をするが、1948年8月、[[大韓民国]]と[[朝鮮民主主義人民共和国]]が成立したため、日本とは国交がなくなって嘉伊智はソウルに戻れなくなる。1950年1月14日に瀧子は亡くなったが、瀧子の葬儀は、韓国では国葬に準ずるといわれる﹁社会葬﹂として行われた。
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1947年 嘉伊智は瀧子を[[ソウル]]に残して日本に戻り、世界平和運動の行脚をするが、1948年8月、[[大韓民国]]と[[朝鮮民主主義人民共和国]]が成立したため、日本とは国交がなくなって嘉伊智はソウルに戻れなくなる。1950年1月14日に瀧子は亡くなったが、瀧子の葬儀は、韓国では国葬に準ずるといわれる﹁社会葬﹂として行われた。
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1959年、[[朝日新聞]]記者疋田桂一郎が、ソウルに帰れないでいる嘉伊智のことを知り、1960年元日の朝日新聞に取り上げたことがきっかけとなり朝日新聞<ref>朝日新聞、1960年1月1日</ref><ref>朝日新聞、1960年1月6日</ref>、1961年5月7日に韓国への帰国が実現した<ref>朝日新聞、1961年5月6日</ref><ref>朝日新聞、1961年5月7日</ref>。嘉伊智は翌1962年3月28日ソウルで亡くなるが、本葬儀は社会葬として国民会堂で執り行われた。
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1959年、[[朝日新聞]]記者疋田桂一郎が、ソウルに帰れないでいる嘉伊智のことを知り、1960年元日の朝日新聞に取り上げたことがきっかけとなり<ref>朝日新聞、1960年1月1日</ref><ref>朝日新聞、1960年1月6日</ref>、1961年5月7日に韓国への帰国が実現した<ref>朝日新聞、1961年5月6日</ref><ref>朝日新聞、1961年5月7日</ref>。嘉伊智は翌1962年3月28日ソウルで亡くなるが、本葬儀は社会葬として国民会堂で執り行われた。
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2024年5月3日 (金) 09:13時点における版
曽田 嘉伊智︵そだ かいち 1967年︿慶應3年﹀11月16日︿旧暦10月20日﹀- 1962年︿昭和37年﹀3月28日︶は、植民地下の朝鮮において朝鮮の孤児たちの親として養育・救援活動に尽力した福祉活動家。没後、韓国の文化勲章を受章。[1][2][3][4]
来歴
1867年 周防の熊毛郡曽根村隅田︵現在の山口県熊毛郡平生町︶に生まれる。小学校卒業後、岡山の私塾で学ぶ。長崎の高島炭鉱での仕事で英語を習得したことから、1892年に香港、1896年に台湾︵および中国本土︶に渡り放蕩の日々を送るが、台湾の路上で死に目に会ったとき、見知らぬ朝鮮人に助けられた。そのことがきっかけとなり、1905年に韓国︵1897年に国名改称︶に渡りYMCAの英語学教師となる。このときの生徒に李承晩がいた。1906年 梨花女子専門学校と淑明女子専門学校で英語を教えていた熊本県出身の上野瀧子と会い、その影響を受けて京城メソジスト教会の定住伝道師となる。瀧子とは1908年に結婚する。
1907年に高知出身の佐竹音次郎︵1864-1940︶が鎌倉に小児専門保育園を開設していたが、1913年には京城支部を開設する。嘉伊智はその支部長を佐竹から1921年に依頼され受諾。以後、瀧子とともに、孤児のアボジ︵お父さん︶、オモニ︵お母さん︶となる。京城支部で預かった孤児︵ほとんどが棄児と迷児︶は合計で2000人を越えているとも言われる。1943年には、かつて京城支部にいた須田権太郞に保育園を任せて元山︵ウオンサン︶メソジスト教会の代理牧師として単身赴任するが、日本の敗戦後、1946年5月に保育園に戻った。しかし、保育園は1945年8月の失火からほとんど全焼していたので、焼け跡の跡地に永楽保隣院の建設に尽力した。朝鮮半島にいた600万人以上の日本人は半島から追放されたが、嘉伊智夫妻にはこれまでの功績を讃え永住権を与えられた。
1947年 嘉伊智は瀧子をソウルに残して日本に戻り、世界平和運動の行脚をするが、1948年8月、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立したため、日本とは国交がなくなって嘉伊智はソウルに戻れなくなる。1950年1月14日に瀧子は亡くなったが、瀧子の葬儀は、韓国では国葬に準ずるといわれる﹁社会葬﹂として行われた。
1959年、朝日新聞記者疋田桂一郎が、ソウルに帰れないでいる嘉伊智のことを知り、1960年元日の朝日新聞に取り上げたことがきっかけとなり[5][6]、1961年5月7日に韓国への帰国が実現した[7][8]。嘉伊智は翌1962年3月28日ソウルで亡くなるが、本葬儀は社会葬として国民会堂で執り行われた。
脚注
- ^ 鮫島盛隆、韓国孤児の慈父曽田嘉伊智翁(鎮西学院研究叢書2)、牧羊社、1975
- ^ 波潟剛、孤児養育に捧げた曽田嘉伊智の人生(李修京 編、韓国と日本の交流の記憶─日韓の未来を共に築くために)、白帝社、2006、pp.136-139
- ^ 江宮隆之、慈雨の人─韓国の土になったもう一人の日本人、河出書房新社、2013
- ^ 江宮隆之、朝鮮を愛し、朝鮮に愛された日本人、祥伝社、2013
- ^ 朝日新聞、1960年1月1日
- ^ 朝日新聞、1960年1月6日
- ^ 朝日新聞、1961年5月6日
- ^ 朝日新聞、1961年5月7日